日本人 教養 講座 「日本刀」…Japanese
Sword…
「♪一家に一本 日本刀♪」
其の11 水も溜らぬ籠釣瓶(かごつるべ)
パート2。
愛三木材・名 倉 敬 世
"別れる切れるは,芸者のときに云う台詞(ことば)よ",と云う名文句が泉鏡花の名作の「婦系図おんなけいず」の中にあるが,この「切れる」も刀の「斬れる」も命を掛ける事では相通ずるものがある,蓋(けだ)し,女は愛に生き,刀は斬る為にある。これを忘れたら女も刀も少なからず大和撫子(やまとなでしこ)でも日本刀でも無くなる,〜ハズであろうがゃご同役。
昔の武士は腰の一刀に,我が生命,我が一家,更に一国の運命も賭けていたのである。だから斬れる刀に対する要望は熾烈であった。ある備前刀の茎に,ただ「キレ申スキレモウス」と切付けてある刀が有ったが,要望を満した時の喜びで欣喜省躍する姿が目に見える様である。今回は刀の原点,如何に斬れるか!,のオンパレードにて候。
薩摩の名工「備後守氏房」が端午の節句に上役の子供に贈った薙刀には下の如くある。
(表)薩州住「下手ナレド大物切,酒ハ呑ネド大上戸」 藤原氏房入道作之。
(裏)慶長十六年五月五日作之進候 御手柄可被遊候
「下手ナレド」の字句は応永二年(1395)の家長の刀から新刀期(1600)迄に及んでいる。この言は,見映えは良く無い,という謙遜と斬れ味なら誰にも負けない,と云う自負を現したもので,刀工としての第一の使命の斬れ味を忘れてはいない,との表明である。
刀工の念願どうり,刀が素晴しい刃味を示してくれると,持主の満悦も一入である,その喜びの気持ちを愛刀の異名として表現したものが以下の如く大変多く存在している。
全部はとても載せ切れぬ?,ので代表的な名刀を抜き出してご紹介をしてみましょう。
「名物」
古来より名刀は全て由来を頭に付けたり,号を付けて呼ばれておりました。
童子斬り安綱。 |
源頼光が酒呑童子を斬る。摂津家→足利義輝→信長→秀吉→忠直→国。 |
典厩割り国宗。 |
上杉謙信が川中島の戦で武田典厩信繁(信玄の弟)を斬った。備前刀。 |
鉄砲斬り兼光。 |
上杉謙信が川中島で信玄の本営に切込んだ時に鉄砲と共に敵兵を斬った。 |
燭台斬り光忠。 |
伊達政宗が手討ちにした余勢で燭台を斬る。 |
鉋かんな切り長光。 |
近江で大工の妖怪を鉋と共に切る。佐々木家→信長→長秀〜水戸家。 |
※上記の光忠,長光,景光,兼光,盛光,則光,清光,は備前長船鍛冶の正系である。 |
吊り金切り来国行。 |
簾の吊り金を切った。本国寺→秀吉→大谷吉継→宇和島・伊達家。 |
この名称は,他に大和千手院金王の作や来国光が比叡山の根本中堂で打った作にもある。 |
海老錠切り。 |
天海僧正の伝来刀,元来は三浦時継が鎌倉の宝蔵院の海老錠を切った刀。 |
岡田切り吉房。 |
織田信雄が家康に加担すべくして家老の岡田助三郎を斬った刀。国宝。 |
籠手切り正宗。 |
朝倉氏景,孝景,教景,の内の誰かが京都の戦で相手の籠手を切る。朝倉→信長→大津伝十郎→秀吉→佐野信吉→前田家→本阿弥家→皇居。 |
籠手斬り江ごう。 |
郷義弘の脇差。細川幽斎→稲葉正勝→細川忠利→稲葉家→黒川考古館。 |
籠手斬り景依。 |
古備前景依の太刀。筑後有馬家伝来→重要美術品→東京国立博物館。 |
六股むつもも長義。 |
大久保忠世が遠州犬居城の戦の折り,天野景貫の兵三人の股を払った。 |
火車切り広光。 |
死体を奪って行くという妖怪の火車を切った。上杉家の三十五腰の内。 |
ヘシ切り長谷部。 |
織田信長がお膳の間に逃げ込んだ茶坊主をお膳もろとも押し切った。 |
以上の如く由来が明確なものから,下記の如くちょいと文学的なネーミング迄ござる。
無布施経(布施無い経)。蝉衣ただ一重にて啼く声や 布施ない経に袈裟落すらん。と云う古歌(毛吹草)より名付けたもので,袈裟斬りに切って落した事を意味している。昔は報酬が少ないと,僧侶は袈裟も付けなかった様で,「布施ない経に袈裟落す」はコトワザとして使われていた。「無布施経氏雲」「無布施経真長」等,数多く有る。
古袈裟。掛け古した袈裟は性が抜けていて切れ易いので,袈裟斬りと,良く切れる事の二義を含めた命名である。弘治(1555)頃の「兼峰」に「古けさ」と銀象嵌名が有る。
弊衣(やれごろも)。僧侶の衣は生地が薄いので古くなると切れ易い,が原典。水戸光圀が筑後柳川の鬼塚吉国の刀で悪僧を成敗したときに凄い切れ味を示したのでこの名を付けた。
破絹(やれぎぬ)。破れ衣と書くのが正しい,弊衣と同じ意味である。播磨守輝広の名刀にある。
踊仏(おどりぶつ)。仏が踊り出すと肩の袈裟が落ちるので,袈裟斬りの異名。越中守正俊の刀。
八丁念仏団子刺し。確に斬った相手が念仏を唱え乍ら,路上の石をズブ〃〃と串刺しにしながら,八丁(873.6m)も行ってバタン。後の持主は雑賀孫一,刀は備前行家。
地獄杖。刀は人をあの世に追いやる杖である。ロスアンゼルスの豊後高田物に金象嵌名。
籠釣瓶。籠で造った釣瓶(井戸の水を汲み上げる桶)では水も溜らない,からの命名。この異名はかなり多くの刀に付けられている,立袈裟籠釣瓶(濃州関住兼定作)もある。
古釣瓶。タガの弛んだ古い釣瓶はガタ〃〃のために水が漏れて溜らぬ,からの命名。津山(岡山県)の松平家伝来の備前長船元重の葵紋(藩主差料)の脇差しに金象嵌名。
棚橋(たなはし)。欄干の無い橋を棚端というが,欄干が無いと簡単に落ちる,これが命名の元。試し斬りの名手,山野加右衛門が棚橋と命名し金象嵌を入れた刀には物凄い物がある。
(表) 棚橋 大和守安定
(裏) 二ッ胴 三ッ胴 四ッ胴 切落。万治三年庚子年(1660)九月二十二日
山野加右衛門永久(花押)
船橋(ふなばし)。フナバシは船を並べて繋いで上に板を渡して渡る,浮き橋とも云った。勿論,欄干も無く板巾も狭く船も揺れるので,よく落ちた様である。丹波守吉道の作にある。
篠雪(ささのゆき)。笹の葉に積った雪は払えばすぐに落ちる。これもすぐ落ちるにかけたもの。池田勝入斎の家来の片切与三郎の愛刀は良く切れ不死身(刃物では切れない体質)の者まで切れたので,勝入斎が手に入れたが長久手戦で戦死,討ち取った永井伝八郎の手に渡り,永井の行かず後家の娘の引出物となり,阿部大学が共に引き請け家宝にす。
道芝の露。路傍の芝の露もよく落ちるので,篠雪と同じ意味である。豊臣家の最後の夏の陣で奮戦した木村長門守重成の佩刀の異名である。中根家→八丈島流罪→不明。
竹の葉のあられ。これも同じ意味で,関金重後裔美濃国御勝山麓住人松井永貞にある。
朝嵐。はげしくも落ちくるものか冬山の 雪にたまらぬ峰の朝風。(西園寺公経)。
備前長船勝光と在銘の脇差で,「朝嵐 松下昌俊」と切った名刀があるが,これ等はこの古歌よりの命名と思われる,他にも「朝嵐」と記した刀はかなり現存しています。
(表)葵紋 辻上総介藤原兼重四十三歳於江戸作之
康継下坂市之丞二八歳於武州作之
(裏)朝嵐 大脇毛ト二ツ胴切落 前島八郎所持持之剣 友次(花押)。等。
クサリナワ。腐った縄のすぐ切れるのを,刃味に例えたものである。昔はコトワザに「腐り縄を杖につく」「腐り縄に取りつく」ともあり,大衆に馴染深い言葉であった。備中(岡山県)青江刀の,表に「クサリナワ」,裏に「浜野弥市兵衛家和」と金象嵌。
ソット挟箱。「挟箱」とは武士の必需品で,外出のさい着替え等を入れて,供の者に担がせていた箱の事であるが,その原型は「挟み竹」といい,衣服を二枚の板で挟み,その上をまた2本の竹で挟んだものであった。この時に緩く挟むとすぐ落ちてしまう。
(表)兼房。(裏)「ソット挟箱」「兼房 浮世渡平所佩,今津軽紋属氏蔵」。
元の持主の「浮世渡平」とは,大津絵の元祖の「浮世又平」のことであろう。
通抜(とうりぬけ)。これは間の抜けた様な名前であるが,実際は骨を斬っても手応えが無く,スッーと通り抜けるような刃味,と云う意味であり実に凄い名称なのである。
(表) 加藤綱俊鍛之 天保八(年)八月二十一日於千住 両車五ッ真向四ッ八
巻四ッ伊賀四郎左衛門乗重裁断。
(裏) 両車五ッ真向四ッ八巻四ッ 山田五三郎 両車四ッ真向二ッ
後藤為右衛門両車太々 長畑芳太郎 号 通抜
(棟) 天保八酉二月吉日作之
※切りも切たり33回,伊賀乗重も試刀家。五三郎は七代目吉利,他は山田家の高弟。
鵜呑(うのみ)。鵜が魚をスル〃〃と呑み込む様に,刀が身体をスル〃〃と切り通る事の意。藤掛兼貞(濃州関の蜂屋兼貞)の刀にこの名称がある。
松風(まつかぜ)。ザァ〜という松籟の音の如く切れる。濃州酒倉住正利。金象嵌,当家蔵刀。
滝之水。滝の水は落ちる,胴が落ちるに掛けての命名。尾張関の豊後守源正全にあり。
大谷川。日光の大谷川は急流で途中に華厳滝がある,早く落ちるのを連想しての命名。
(表)撃鹿頭余刃穿地尺余 試者比良野貞彦
(裏)大谷川 前島源勝美帯之
吉野川。八代将軍吉宗の老中を勤めた高崎城主松平輝貞家に代々伝わる刀であったが,始めは輝貞も異名の意味が判らなかった,そこで連歌師の北村季吟に尋ねたところ,吉野川いはきりとおし行水の をとにはたてじ恋はしぬとも(古今集),よりと答えた。
鬼の包丁。ご存じ,剣聖柳生連也斎の愛刀,刀工は尾張藩工の秦光代,連也斎が光代に注文し六回突き返して七回目に合格,後日これで連也斎は浸入した数人の賊をアッと云う間に斬って捨てた,あまりにその切れ味が凄かったので「鬼の包丁」と名付けた。因みに彼は終生,妻を持たなかった,「アノ後は前後不覚に眠る,そこを襲われたら,〜貴方ならどうする〜」がその理由である,だとサ。
夢の間。脇の下を切ったが,手応えがサッパリ無く夢の間に切れていたから,と命名。
(表)秋元家臣川部儀八郎藤原正秀 ←新〃刀の大家。
(裏)天明五年二月日 脇下不知手応依 号・夢ノ間。
八文字。常陸国(茨城県)太田の佐竹義宣が下妻の戦いで,敵の兜を両断し,胴体も唐竹割にて馬の左右に逆八の字形で落とした,故に「八文字」と呼ぶ,備前長船長義作。
波游(なみおよぎ)兼光。桑名の渡しで切られた者が泳いで,対岸に上る寸前に二ッになった。この「備前長船兼光」と云う刀工は切れ味が抜群で'最上大業物'にて(後日説明)以下の如く武将の愛刀が多い,上杉謙信の竹股兼光,福島正則の大兼光(現在国宝),相場兼光,城井兼光,吉田兼光,豊臣秀吉の太郎坊兼光,小笠原長時の兜割り兼光,山内家の一国兼光,松浦家の鉄砲兼光,直江山城の後家兼光,加藤清正の紅葉狩。等枚挙にいとまが無い程である。因みに当家にも京極兼光という希代の名刀が滞在中。
狐ケ崎・為次。鎌倉を脱出した梶原景茂(景時三男)を駿河の狐が崎で毛利家先祖の吉香(吉川)友兼が討った太刀,当時の拵えと共に現存していて大変に貴重,国宝。
尚,徳川家康の好きなのは,鷹狩り,後家,試し斬り,で臨終の二日前迄やらせている。
最後に試したのが,現在,久能山・東照宮のご神体で,「ソハヤノツルキ・ウッスナリ」と茎に彫りのある,現在は国宝になっている「三池典太光世」の太刀である。この時にあまり切れたので,「この太刀の切先を西に向けて置く様に」と遺言してこと切れた。
この太刀と同じ光世作の太刀(大典太)が加賀100万石の前田家に伝わっており,郷義弘の脇差と栗田口吉光の短刀との三点が第一の家宝として,「鳥止らずの蔵」に納められていた。蔵の由来は,それらの名刀から発する霊気に鳥りも避ける…との意。この前田家の「大典太」の試しの記録に,「…次ぎは前田家随一の宝刀"大典太"と異名のある筑後国三池住人典太光世の太刀であった。さすがに天下の名剣だけあって,一回目は一ノ胴を落し,勢い余って土壇に五寸も食い込んだ。二回目は車先(ヘソを試したが,これも同様で五寸も斬り込んだ,余り斬れ過ぎるので,三回目は骨の多い雁金(腋腔部)を斬ったが,一刀両断して土壇まで斬り込んだ,その余りの鋭利さに列席の誰もが酔った様に茫然となっていた。」と云う凄い事が記されております。
余り長いとお互いにダレます,ダレは怪我の元にもなります,よって今回はこれ迄。次回は歳末,年末は刀の仕入れ時,即ち,名刀,珍刀が安値でギョウサン出る時期です。
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太刀 銘 為次(狐ケ崎) |
ヘシ切り長谷部 太刀 スリ上げ 無銘 |
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太刀 銘 光世作(名物 大典太) |
太刀 銘 長曽祢虎徹入道興里(金象嵌)四胴
山野加右衛門六十八歳ニテ截断 永久(花押)
干時寛文五年二月廿五日 |
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