日本人 教養 講座 「日本刀」…Japanese
Sword…
「♪一家に一本 日本刀♪」
其の12 水も溜らぬ籠釣瓶(かごつるべ)
パート3。
愛三木材・名 倉 敬 世
カタナは,ドノクライ キレルノデスカ?,と変な外人に聴かれたら,下記の写真を見せて下さい,これは柳生石舟斎(お馴染のスーパースター柳生十兵衛の祖父)が断ち割ったと云う柳生の里にある一刀石であります,これぐらい刀は切れるのです〜?。
刀の斬れ味の列位は「古今鍛冶備考」(山田浅右衛門著)に4通りに定められており,最上大業物13工,大業物22工,良業物54工,業物91工,追加の部,66工で,合計246工でござる。
これらの決め方は何回も死体を試し,かなり厳密なデーターによって決められており,後日その検証も何人もがいろいろな形でホローを致しております。当時の基準としては骨の固くなった中年の男性の乳割り以上の所が,サッーと気持ち良く切れる事が第一で,これを“大切れ物”と申し,10刀の内で8〜9刀あれば「最上大業物」,7〜8刀が「大業物」,5〜7刀で「良業物」,2〜4刀が「業物」,との判定となっておりやす。尚,この列位は新刀が主ですが,古名刀は既に度び〃〃実戦を経験していて,斬れ味は判っており,「唯一両度試ミタルハコレヲ省ク」,との基準により除外されております。
よって昔より切れる事で有名な,備前の南北朝の「長義」や「兼光」は此の例ですが,濃州・関の「村正」の除外は徳川家への遠慮が主なる原因でありましょう。
「業物列位・番付表」
(太字は古刀,薄字は新刀)
「最上大業物…13工」
元重長船 秀光長船 正家三原 兼元初代・二代 興里(虎徹)長曾祢 長幸多々良 忠吉初代・陸奥守 長道初代 助広大阪・初代 国包初代 興正長曾祢。
「大業物…22工」
祐定長船(永正・与三,彦兵衛,天正・藤四郎) 盛光長船 康光長船 兼・関・和泉守 友重文明・藤島 兼明高天神 兼則元禄・加州 国広堀川 国安堀川 包貞言之進 勝国加州・初代 国康肥後守・初代 忠広二代・近江大掾 助広角津田・五字同位 国貞和泉守・初代 正清主水正 安代主馬首 信吉越前守 兼若加州・初代
貞重対馬守。
「良よき業物わざもの…54工」
盛景 宗光左京進 勝光右京亮・次郎左衛門 則光助右衛門・五郎左衛門 祐光嘉吉頃 忠光初代・二代・三代目・彦兵衛 法光初代・二代 祐定永正・九代末
秀助 家助次郎左衛門・二代 以上,これらは全て備前国長船住人。
兼定三代目 兼房文亀 兼常福四郎 正利板倉・初代・二代 氏房初代 以上は濃州・関。兼植越前・初代 兼則越前・兼法同位 網広相州・初代 正真金房 行長豊後高田 吉道京・大阪・初代丹波 助直津田 是一初代 貞次伊勢守 忠網一竿子 康継初代・二代 政長会津 兼定会津 国儔越後守 直道丹後守 兼重上総介 兼植越前・初代 重国南紀・初代 吉広伊勢大掾 光平・常光・宗弘以上・日置 康広初代 正則初代・大和大掾 国次山城大掾 国重大与五 国包二代目 忠重奥和泉守 吉門武蔵守 久道初代 国宗岡山 安定大和守 忠行大阪・初代。
「業物…91工」
助広丸津田 真改井上 兼中武蔵守 包保左 宗道下坂・宗次同位 真了二代目・作之丞 秀辰初代・山城守 国輝小林 守久東連 重義埋忠 国助初代・河内守 兼友会津・初代 貞則鈴木 国貞会津 正弘法城寺 歳長初代・山城守 歳長初代・陸奥守 忠国因州・初代 輝広芸州・初代 国助二代・三代・河内守 久道二代目・金四郎 吉道初代・二代・大和守 国光摂津 吉国土州 包貞初代 貞広高柳 広政大阪 吉国鬼塚 国綱相模守 重包信国 重貞信国 金道初代・伊賀守 兼植江戸 正俊初代・越中 汎隆伯耆守 紀充筒井 助高大阪 宗重初代常陸 清平八幡山 重高越前・初代 忠吉四代目 国義小浜 包国初代 継広下坂 国武郡山 友常関 継平初代 貞重出雲守 信吉京・初代 忠国肥前・初代 金道初代・二代・和泉守 国清越前・初・二代 国重鬼神丸 行広肥前・初代 貞行高田・初代 重行高田 包保右 統行初代 吉武初・二代 康永大阪 安倫二代目 国維大阪 清光播磨大掾 清光勝兵衛・五郎左衛門 春光十郎左衛門 照重下原 勝家加州・初二代 信高初代・二代・尾張 政次金房 吉正上野介 長綱大阪 祐国花房 氏重初代 一法江戸 盛国千手院 国路初代 清実二王 兼景作州 国幸大阪 正広肥前・初代 助信大阪 本行初代・松葉 正永備中大掾
「追加…66工」(この中には大業物・良業物へ加うべき物もあれど,余地なく左に記す)
賀光長船 兼音関・彦四郎 経家長船・初二代 政常相模守 包俊手掻 康春相州 寿命天正 国房宇多 国吉但州・法城寺 助重出羽守 為康初代・石堂 高平越中守 兼定上野守 宗吉下総大掾 祐定長船・七兵衛 兼安相模守 兼則関・永正 盛方平高田 兼道天文 行光加州・文亀 広長小山関 家吉加州 弘包初代 安行大和守 兼貞関・弘治 国富日向 清左佐藤 吉家加州・初代 国平奥氏 正近貝三原 正国同田貫 鎮政甲賀・鎮忠同位 国行高田 国長赤坂千手院 在光長船 重吉波平 綱家相州 久光長船 為利会津 吉成播磨大掾 治光長船・治郎兵衛 広辰関・初代 一峯初代 兼辰関・天文 重国二代・金助 永重仙台・初代 兼正越前 正全豊後守 兼巻加州・初代 兼国関・延徳 寛安日向 国輝与州 長俊関 広隆広島・初代 包定河内守 家忠加州 国平川崎 輝行高田 助隣水戸・江戸 義国三条堀川 輝政陸奥守 道辰若狭守 正俊石堂 久国土州。
大阪新刀の最高峰の津田越前守助広は若い時は角張った銘だが,これは大業物に入れ,円熟期は丸味を帯びた丸津田銘となるが,これは二階級下がって業物にしか入れて無い,この様に同一人でも時期によって優劣を分けていて,大変に厳しく厳格な評価である。
この番付表はその後もかなりの追試をされており,水戸藩での結果では良業物の部の中の伊賀守貞次,初代・是一,綱広,は案に相違してあまり切れなかった様である。
皆様の故郷のタンスの中に眠っている,長い鉄で出来たボォーとした棒の様な物に,上記の銘を見つけたら,大至急お知らせください,金の延棒より凄い価値の棒かもょ〜。
尚,イザ鎌倉の時の寝刃ねたばの合せ方や刃肉の付け方にはそれぞれ独自の秘伝があり,素人の行うやり方とは同じには語れないものがあり,浅右衛門家には,柔物と堅物とに分けて刃肉に付け方の秘伝があり,それを会津の研師がねだって伝授してもらったら,それ以後はグゥーと刃味が良くなった,という話が伝わっておりやす。
昭和45年(1970)11月25日,作家の三島由紀夫は市ヶ谷の自衛隊に乗込み,時勢を憂い自衛隊の決起を促し,受け入れられずに次ぎの辞世を詠み割腹して果てた。
益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに
幾とせ耐へて今日の初霜
三島の介錯は弟子の森田必勝だったが,未熟のため首に二度斬り付けたが失敗した為三度目に古賀浩晴が代わって,ようやく首を落とした。次いで森田が切腹すると同じく古賀が介錯をした。三島の切腹は海軍将校用の短剣(銘不明)との事である。
三島の介錯刀は「関の孫六兼元」,二尺三寸五厘(69.8cm)と云われていましたが,日刀保の鑑定では有名な孫六とは別人で「後代兼元」となっており,何人もいる兼元の一人で,多分,寛永(1624)頃の新刀の田代源一郎兼元,であろうと云われております。この兼元はランクも下から二番目の「貴重刀剣」ですので,愛刀家が熱心に保持するに値いしない凡刀と云う事になります。
往時は村の刀工の一人がビックになると同銘が続いてドッーと現れるのが普通でした,この兼元も,元亀元年(1570)北近江の姉川で信長と朝倉が戦った姉川の合戦の折りに,青木一重が朝倉方の強豪の真柄十郎左衛門を討ち取った時の刀が孫六兼元であったので,以来,兼元は刀剣界のビックスターとなった訳でして,当時の関鍛冶は売出し中であり,「折れず,曲がらず,よく切れ,安い」の他に格好のネーム・バリューが付いた次第で,全国各地から「兼元」銘で注文が殺到したハズでありんす。
同時代の備前長船鍛冶の祐定も〜我に七難八苦を与え賜え〜と天に祈った尼子の忠臣山中鹿之助の佩刀の「与三左衛門尉祐定」が有名になり過ぎて,○○や△△銘の祐定が矢鱈に多くなりそれが代々続いて来ており,400年以上経った現在も兼元・祐定銘のどちらも継承されて日々に鍛刀されています。尚,現在この青木兼元は重要美術品です。
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○刀 銘 備前国住長船与三左衛門尉祐定作 山中鹿介脇指剱也 鯰江左京亮所持之 |
重要美術品 刀 銘 兼元(青木兼元) 姉川合戦で朝倉方の勇士真柄十郎左衛門直隆を討ち取った青木一重の佩刀
法量 長さ 七〇・六糎(ニ尺三寸三分) 反り 一・五一糎(五分) 元幅 三・一糎(一寸〇分二厘) 先幅 二・五糎(八分三厘) |
首を落とすときの心得として,首筋に目を止めて斬ったら必ず仕損じる,顎と肩との隙間に刀を打ち込む様に喉の方に狙いを付けて斬れば間違いは無い,これが極意である。そすれば,たとえ初心者であっても滅多に斬り損じるものでは無い,と秘伝書は云う。(懐宝剣尺)。
※ もぅ〜幾つ寝ると,お正月だべか?,お正月には又恒例の展示即売会?を開くのでヒマな人はお出かけ下さい。それ迄に名刀珍刀を集めて置きましょう,乞うご期待。
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