東京木材問屋協同組合


文苑 随想

日本人 教養 講座 「日本刀」…Japanese Sword…

「♪一家に一本 日本刀♪」
其の15 「刀剣・トピックス&ア・ラ・カルト」。

愛三木材・名 倉 敬 世


 近頃,元NHK会長の海老沢勝二氏の退任の弁の中に,「赤城の山も今宵限り〜」の引用があり,これがユニークだと各新聞紙上を賑わしておりましたが,その流れの中に日本刀の個名が出て来ます,日本を代表する新聞の一面,それもコラムに「日本刀」の刀工銘が何ら事件とは関係無く載る等と云う事は絶えて久しく覚えが御座いませんので,この辺りの事を少し本筋からは離れますが,重点的に考察を致してみましょう。
 この新国劇(団)〜現在はこの名は無く,後継劇団は「若獅子」と云う〜の名場面は初代が「沢正(さわしょう)」こと希代の名優・沢田正二郎,二代目を辰巳柳太郎が受け継いだ,…やはり股旅物は島田正吾より辰巳の方に一日の長がある…,飢饉に苦しむ農民を助け,義賊となった「国定忠治」が捕り方に対し最後の抵抗を試みる,一番の見せ場の台詞で,還暦を過ぎた日本人なら誰もが知っているハズですが,念の為にその続きを申しますと「〜生まれ故郷の国定村や,縄張を捨て国を捨て,かわいい子分の手前たちとも分かれ分かれになる門出だ〜」,そこで子分がすかさず,「親分,雁が泣いて南の空に飛んで行かぁ〜」となりますが,その前に「加賀の国小松の住人,五郎義兼が鍛えた業物」の長ドスを月にかざし「俺には生涯,てめぇと云う強え味方があったのだ」と宣う訳です。
 この「国定忠治」は直立不動で歌う東海林太郎の「名月赤城山」や佐藤惣之助作詞で「泣いちゃいけない,ねんねしな 泣けば鴉が また騒ぐ」の「赤城の子守唄」などの歌とセットで,戦後の昭和20年代に日本中でヒットし爆発的な人気を集めていました。
 その後も桃屋の海苔のCMで三木のり平が頑張っておりましたが,ぼつ〃〃賞味期限切れですかね,新国劇も沢正は勿論,辰巳も島田(昨年の暮れ91才で大往生)も共にあの世とやらに旅立たれ,後を継いだ劇団「若獅子」も笠原 章氏が奮闘していますが,正にシンコクでござんすので,出来るだけ見に行き応援して頂ければグーでございやす。

 そんでもって,この中に出てくる刀剣関連の字句を拾って見ますと以下の如くです。
1)「〜加賀の国小松の住人,五郎義兼〜」。
 正式名称(鍛冶名)。 「江州住雲竜子義兼」又は「上毛新田笠懸住
              雲竜子義兼作之」。
 作刀地。 加賀国小松(石川県小松市新鍛冶街,又は能美町)。
       上毛笠懸村(群馬)。
  出生地(本籍)。 江州(近江=滋賀県)又は,加賀小松(石川県)。
  年 代。 慶応三年八月(1867)。明治元年(1868)。
  経 歴。 地元の伝承では,忠治の妻お玉の招きにより上州に居住したと
       されている。
  伝 法。 不明。
  ランク。 国指定を除いた,一般での5段階査定での4番目位。刀工総覧では上工。
  価 格。 普通の状態で30〜50万位?。資料的価値は別。短刀,脇差は半値以下。

総合評価。
 忠治が月に向ってかざした刀の刀工名ですが,刀の世界ではこれが一番大事なのです。「義兼」,この名前はビックとは申せません,地方のまったくの無名鍛冶で忠治親分が所持していなければ,作刀数も少なく,とてもこの世に名前は残らなかったと思います,かなりのマニアでも見た事も聞いた事も無いと云うのがごく普通だと思います。

 元来,刀剣の生産地はメジャーな地名が決まっていて,それを「5ケ伝」と申します。「古刀」の大和(奈良)・山城(京都)・備前(岡山)・相州(鎌倉)・関(美濃・岐阜)の五ケ所であります。「新刀」は天下分け目の関ヶ原(1600)以降に,五ケ伝の地より各大名にスカウトされ,その領地で鍛刀をする様になって,独自な作風を新しく生み出し繁栄を致して行きます。「新〃刀」は江戸も後半の文化文政期(1804〜1818)に山形の刀工であった,水心子正秀が日本刀は鎌倉期の刀に戻るべきであると云う,「復古刀」の運動が起きた時なのですが,「義兼」の上州(群馬)はそのどれにも該当を致しませんし,資料も皆無に近いのです。只今,刀剣関係の総本山である,(財)日本美術刀剣保存協会の資料室にも問い合わせておりますが,こちらでもワカラン,とほざいてますのでフザケルナと云ったところです。
 例えば名乗りの加賀国の鍛冶の中にも見当りません,加賀(石川・金沢)は古刀期から刀鍛冶は多いのですが,残念乍ら他の国から移住した鍛冶が多くビックにはなれません,現物を見てませんので何とも申し上げられませんが,「義兼」と云う刀工名からしても,ヤクザが使える価格からしても伝法は「折れず,曲がらず,良く切れ,安い」の関伝の鍛冶かと思われますが,そうだと致しますと品格はあまり上がりません,時代も大変に若いのでどうしても価格も上がりません,数年前迄は「銘鑑」漏れの刀工で,ごく最近「日本刀銘鑑」(本間薫山監修・雄山閣)に掲載されたばかりで,まだ確な押形(絵姿)や資料が無くこれ以上は何とも申し上げられませんので,調査継続中にして置いて下さい。

 その為か,天下の大新聞である「東京新聞」の一面のコラムの「筆洗」に於いてすら銘を間違えて「義兼」を「吉兼」にする有様です,この点を小生が鋭く追及しましたら「読者応答室」から「ご指摘の通りで誠に申し訳ございませんでした,筆者にはお伝え致しました。以後十分に注意する,ご指摘ありがとうございました,と申して居ります。今後,筆洗のみならず,ご指摘を生かしてまいります所存です。〜」と云う,詫び状の葉書が参りました。「読売新聞」は流石に全てに正確でした,購読料の差ですかぃね?。

 参考迄に,長さ,作込み,刃紋,等が良く似ているハズと思われる刀の押型を載せて置きます,これはご存じ「土佐の坂本竜馬」が最後に京都の近江屋で襲われ落命の時に腰に差していたのが,この「陸奥守吉行」銘の刀でしたので,大変に人気が出た刀です。
  但し,刀のランクとしてはあまり上がらず中の中というところです,この現品の刀は「吉行」の脇差としては生涯の最高傑作に近く研ぎもベターなのですが,価格としては「本ノ字」前後と思います,とても何百万とは参りません,この寸法で「虎徹」ですと同じホンノジでも0が一つ余計に付き,何人もから手が挙り瞬時にして売却となります。
  これが一流(工)と二流との差と云う事ですが,やはり何百年も懸けて確定した評価はそれなりに納得させられる何かが有ります,刀剣に限らず美術品や芸術品と云うものは良い物を見るに限ります,但し何が良いかを判断するのは貴方の勉強と感性次第です。

2)どす,ドス,長ドスとは,何ドスか?。
  「どす」又は「ドス」と平仮名や片仮名で表記されるが,どちらを使われても正解です。
  語源は,おどす(脅す)よりの略。一般的には懐に入れているので懐刀(短刀)と云う。寸法は,短刀だと五寸(15cm)から一尺(30cm),脇差は一尺より二尺未満(60cm)で,小脇差,中脇差,長脇差,と分かれるが,長ドスは長脇差の寸法となるので1尺9寸9分(60cm),2尺以上が刀で定寸は二尺三寸(70cm),太刀はそれ以上の長さで定寸は二尺八寸(85cm)位。百姓,町人は帯刀を許されても脇差迄,浪人は大刀1本,刀と脇差の二本を差せるのは主持ちの〜仕官している〜侍だけ,よって正式の侍を二本差しともリヤンコとも云った。
  尚,サンピンとは「三一」と書き,身分の低い侍を卑しめて云った言葉だが,語源は賽コロや花札の目が,三と一が出た時に使った言葉であるが,下級武士や若衆の給料が三両一人扶持であった為。…時代によって異なるが,年収は10万〜100万+米5俵…。
特に江戸の下町の庶民の間での隠語としては広く使われ,市民権を持っていた様である。
  又,主に「やくざ」の持つ刀は長ドスと云われて,合羽からげて三度笠,のヤー様の専用の如き印象を与えるが,其のような事は無くてただ単に脇差の長い物の呼称であり,やくざの専用の持物では有りません。江戸時代も落着いて来ると,各種の掟が定められ前述の如く刀の所持,帯刀も幕府によりその様式が確立し違反者には罰則が適用された,実際に関八州所払いや伊豆七島に遠島になった者もいた様ですが,主には没収された。従って,やくざの刀は公には二尺未満となってはいるが,取締りも少く刑罰も軽いので実際には普通の刀(二尺二〜三寸)を使用していたものと思われる。
  ところで,「やくざ」は本来は「八・九・三」からの転用で,バクチでこの札が出ると足算すると0,即ち「ブタ」になってしまうので,役に立たない事,取るに足りない事,まともで無い事,ここからバクチ打ち,てきや,暴力団員,等の総称となったのだと…,コレ,間違い無い!。

腰差 陸奥守吉行
押形・刃紋 以上の如し 鎬造り 刃長一尺八寸弱(54.5cm)反り四分七厘
元巾一寸一分三厘 先巾八分五厘 重ね二分四厘

※次回は4月,エイプリル・フールですので,幻の名工伝でもと思っていますが〜?。




前のページに戻る

Copyright (C) Tokyo Mokuzai Tonya Kyoudou Kumiai 2005