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※現在の目黒雅叙園の玄関。 |
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※目黒雅叙園の入口玄関、昔の面影が残っている。入って左側が展示場の入口、右側が式場やホテルに通じている。 |
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※雅叙園のトイレ。天井や部屋の中まで、浮世絵が描かれている。わざわざトイレを見に来る人がいるとか。 |
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※廊下。豪華な通路、この奥にフロントがある。両側がレストラン。 |
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※館内の廊下は大きな額絵が並ぶ。見事、豪華。 |
戦前、目黒雅叙園は、昭和の竜宮城、昭和の桂離宮などと言われていたと言う。「時の流れ」と言う雅叙園の資料を見ると昭和の豪華な装飾品の壁面や天井はその装飾の美しさからも、伝統的な美意識の最高到達点を示すものである。確かに素晴らしい豪華なものばかりであった。
その図版目録の中に豪華な装飾の写真が106点も写されていた。
その中で唯一の木造建築である「百段階段」を見に行った。
今はこの建物だけが当時のままであると言うが、ビルの建物の中にも昔の面影を取り入れて、十分に楽しむ事が出来た。特に1階の「トイレ」にわざわざ行って見る人もいると言う。
この「百段階段」は山腹の傾斜に建てられた。この建物はケヤキの板材でつくられた99段の階段廊下をもつことから「百段階段」と言われている。その階段廊下の南側に大きく7つの部屋が建てられている。各部屋の天井や欄間は、それぞれ異なった作家によって画が描かれており、ここでは昭和初期における美の競演と大工の高い技術力をみることが出来る。
伝統的な職人技術は、昭和初期頃まで進歩し続けていたと記されている。特に、大正末期から昭和初期にかけては、全国各地に高度な技術を駆使した木造3階・4階建といった建物や、質の良い数寄屋建築が数多く建てられていた。
この雅叙園の木造の和風建築として最後に建てられた「百段階段」は、伝統美意識の最高到達点を示す建物のひとつであると言われている。本当に素晴らしい建物であるし、歴史的建造物として見る価値が十分にあった。
もう少々、目黒雅叙園のいきさつについて、山川進康氏の解説により記して見る。
資料によれば目黒雅叙園は戦前、昭和の竜宮城、昭和の桂離宮だと記している。
竜宮城はおとぎの世界であるが、日光陽明門に代表される豪華絢爛なキンキラキンの日本文化、その結晶は「お神輿」である。また一方、桂離宮はドイツの建築家ブルーノ・タウトが「世界に冠絶した唯一の奇跡」と絶句した簡素な至上美だ。このふたつの文化、日本人の美意識がかつての「目黒雅叙園」にあったと言われている。日光東照宮は権力の頂点に立った徳川幕府、桂離宮は伝承文化の頂点に立つ朝廷の作品である。そしてそれに匹敵する建築群を資産家であった細川力蔵が、しかも伊豆と言う地方の棟梁である酒井久五郎を使って造り上げたのは一体どういうわけだったのか。
1.昭和の初年という時期は、日本の木造建築・建築工芸のレベルがピークに達した時期であった。
2.1929年(昭和4年)に端を発した世界大恐慌により、土地・諸資材、芸術家・第一級の工芸職人を容易に調達することが可能であった。
3.細川力蔵の資産と信用が巨大であり、なおかつ、彼の美術工芸に対する意識が高かった。
4.棟梁としての資質が非常に優れていた酒井久吾郎を得、全幅の信頼を寄せて存分に腕を振るわせた。
5.当時日本では未だ「職人」が賃金労働者に転化しきれず、自分の仕事に自信と誇りを持つ江戸時代以来の職人気質の、しかも質の高い技術者集団が存在した。
このような諸条件が蓄積されて、「目黒雅叙園」に結実されたと考えられる。また、連日数百人集まった職人達から1日5銭ずつ天引きをして久吾郎に与え、その資金で久吾郎は主だった職人や工芸家達と高級料亭へ足繁く通ったと言われているが、おそらく遊郭・歌舞伎寺社建築等も遊興・物見遊山でなく真剣に学習の対象として捉えていたと思われる。久吾郎は常々、現場で「俺達の仕事は博覧会の仕事じゃないんだぞ」と口にしていたそうだが、それは見せかけの一時的なものではなく、魂を込めて後世に残る立派なもの、美しいものを作り上げるのだと言う心意気が感じられる。
そして、「目黒雅叙園」の特質として、細川力蔵の料亭哲学を考えて見ると、彼は高級料亭を一部の権力者、一部の金持ち等特権階級の独占物としてではなく、一般大衆の誰でもが気安く安心して利用できる場を提供するのだと考えたと思う。高級料亭にメニューを取り入れたり、車での送り迎え、総合結婚式場の発案等々、次々と意表をつき、一般大衆の心をつかんでいったと言われる。
「いろはカルタ」の最後は「京の夢、大阪の夢」である。あれは庶民の戯けた願望…「雅びなお公家さん、富と力の大閤さんを夢でもいいから見てみたい」なのである。細川力蔵は、「それを一日だけでも現実のものとして庶民に味わってもらおう」と考え、それが全体を貫くテーマとなったのである。規模は異なるテーマパークのお伽の世界、現実の世界と遊離した世界を人々は求めているのである。当時の大衆の求めているものは何か。「廓の艶」であり「歌舞伎の芸」であり「美女への憧憬」であり「弥次喜多の滑稽」であったと、彼は感じ取ったのであろう。それを当時一流の芸術家達に大真面目に描かせ彫らせたのであるから、お客は身近に触れる事ができ、さぞかしワクワクと胸を躍らせ感動したことだろう。昭和20年の戦災、そして昭和63年の目黒川改修工事に伴う大改築で、その殆どを喪失してしまったのは痛恨の極みであるが、わずかに「百段階段」が命拾いをして残り、日本文化の最後の煌めきをほのかに今に伝えていると締めくくっている。
このような事情を知ったうえであらためて見学すると「百段階段」もより身近に、又すごい建物であると再認識するが、木造だけに維持するのは金もかかり大変であろう。
展示場として各部屋を利用しているために持込む部品で内部をかなり傷つけているのが目立ち残念であった。
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※雅叙園の資料をお借りしました。現存する建物である。 |
昭和の竜宮城を作った細川力蔵の概略
石川県に生まれた創業者細川力蔵は、浴場経営や不動産業を経て、昭和3年に芝浦の自邸を改築した純日本式料亭「芝浦雅叙園」の経営をはじめた。
昭和6年には、現在の目黒の地に土地を入手して本格的な北京料理および日本料理を提供する料亭「目黒雅叙園」を開業した。
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※実際に使用されていた、歌舞伎座の18mある花道の床を5m分移設して再現したものである。足でたたくと音響が実物と同じに仕上げたと言う。「すごい」「憧れの花道体験」 |
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※実際に歌舞伎座で使われていた客席を移設した本物のイスである。懐かしい。 |
当時、目黒川に沿ったこの地域は、東京の郊外であり目黒不動尊や、かつての細川越中守の下屋敷があったところで、行楽地的役割を果たした土地でもあったと言う。このような江戸情緒が残る土地に、昭和6年から18年まで全7期にわたって特徴のある建物を次々と建設していった。その建物の特徴は、黒漆に蝶貝をはめ込んだ螺鈿、鮮やかな日本画や浮彫りの彫刻、手の込んだ組子を持つ建具、さらに国の内外問わず集められた銘木など、豪華な装飾に埋め尽くされている点にある。当代一流の芸術家たち、庭師、左官、建具師、塗師、蒔絵師など数百名が参加し、庶民の願望、現実から遊離した世界を創り上げた。その豪華さは、桃山風、さらには日光東照宮の系列、あるいは歌舞伎などに見られる江戸文化に属すると言われている。
このような素晴らしい「百段階段」の部屋の中でいろいろな展示会が行なわれている。平成23年6月5日まで、有名になった「人形師辻村寿三郎展」があって、人気があり、2週間ほど会期延長した程だった。
一途な恋に燃えた元禄の女達や、NHKの大河ドラマ「江(ごう)」の人形が展示しており、大変楽しめた。
そして今、歌舞伎座が改装中だが、「わが心の歌舞伎座展」が開催されていた。
本物の歌舞伎で使われていた18mの花道に使った花道の床が5m程展示されており、その床を歩く事が出来る。何万人かの役者が歩いた桧の床、今自分で六方(ろっ ぽう)が踏める。床の根太も同じに仕上げていると言う。なんとも言いようのない響きが伝わって来た。何度も足音を立てながらの見学だった。
とにかく、一度ゆっくり「百段階段」は見て欲しい。価値が十分にあり素晴らしい。ただし展示会や催し物がやっていないと見られない。電話で聞いて行くといい。なんでもそうだが、“百聞は一見にしかず”と言うがその通りである。歴史的な細川家とは違う人だと言うが石川県出身のこの「細川力蔵」氏に敬意を表したい。
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