東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(108)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 私が東海道中に嵌まり込んだきっかけは、1987年(昭和62年)頃、『サンデー毎日』の記事を見て受けた大きな衝撃でありました。明治の初期、西洋文明を採り入れることに熱心なあまり、蔑ろにされ日本から流出した浮世絵の制作の過程で彫られた版木がニューヨークの美術館で大量に見つかりました。
 浮世絵の制作は、版元、絵師、彫師、摺師達のチームワークによってなされておりました。版木を借りて来て摺師に刷ってもらった処、200年近く前と寸分違わぬ浮世絵が再現されて関係者一同「アッ」と驚きました。私は他にもう一つ驚いたことがありました。版木はさくら等の広葉樹の板が使われますが、木材の欠点は3つあり、燃える、腐る、狂うであります。版木を100年以上完全な状態で保存することは不可能に近く、1ミリの二分の一でも狂ったら、精緻な芸術作品は再現しないのであります。何故こんな素晴らしいことが起こったのでしょうか。
 渋谷にある「塩とたばこの博物館」で摺師による実演があるというので問い合わせますと、既にイベントは終り、今は横浜高島屋で行っています、とのことでありました。早速出掛けました。摺師の人に訊いてみますと、確かに、狂いや反りはあったそうです。水に浸したり、削ったり艱難辛苦の末ようやく出来上がったそうです。このイベントを見たことが契機となって浮世絵の世界にのめり込んで行きました。安藤広重、葛飾北斎の東海道五十三次画集を買って眺めておりましたら、画題になった地点はほとんどがまだ行ったことのない場所で、いつかは行って見たいと思うようになりました。それから5年後、思い立って歩き始め、約9ヶ月かかって京都の三条大橋に立つことが出来ました。
 下町タイムズ今泉社長の紹介で読売新聞の取材を受け、記事が掲載されました。これをご覧になった飛澤さんから電話を頂き、東海道ネットワークの会に入会しました。
 今回は、入会してお世話になった諸先輩との経緯、東海道五十三次の今昔について探訪します。
 初代会長、鈴木和年氏の情熱により結成された組織、活動については、会報や諸先輩から伝授されましたが、私が入会した時点で、鈴木和年氏は鬼籍に入られておりました。
 初代事務局長、秋山民野さんはごく普通の主婦でありました。ご主人が仕事で飲んで帰られると、お茶漬を所望されました。永谷園のお茶漬けの素を買って用意しておりましたがおまけに、東海道五十三次の名刺大の浮世絵がついており、集めて眺めているうちに、歩きたくなり、完歩して道中記を出版されました。鈴木会長とのご縁が出来、会の結成に尽力され我が儘な会長を支えました。
 先程述べた飛澤久治氏は博学、研究熱心な方で、仕事の延長でインドネシアと日本を何度も往復し、ついに東海道のルーツを探り当て私達に噛んで含めるように教えて下さいました。善財童子の写真から仕事で培った技術を生かしてミニチュア像を鋳造し、会員に配って下さいました。我家の仏壇に置き、毎朝拝んでおります。
 現会長秋庭隆氏は、早大卒業後小学館に入社、週間女性セブンから百科事典のジャポニカ、園芸植物大事典等の編集を手掛けられました。退職後は、東海道史話、第一、二、三集を執筆されました。東海道の生き字引として会員の尊敬を集めております。会員の高齢化により、閉会を提案されましたが、幹事諸氏より存続を願う声が大きく、先日頂いた会長からの書信により会の存続決定を知りました。これは会員諸氏の情熱と会長の人柄によるものであります。
 浜野文夫さんは横浜で歯科医院を1970年以来開業する傍ら、東海道始め五街道を踏破、洒脱な文章で、浜文味の旅を執筆、私達に食の楽しさを教えてくれます。「日本一分厚い年賀状」と称して「第九巻」が年末に届きました。毎日味わうように少しづつ読んでいます。是非「第十巻」も期待しております。
 次に、箱根甘酒茶屋で買い求めた、広重、東海道五十三次ミニチュア版を頼りに、東海道中、今昔十景を回想探訪します。

 

 @ 日本橋 「お江戸日本橋七ツ立ち(午前4時)」大名行列が、はさみ箱と毛槍を先頭に渡り、起きているのは魚河岸の魚屋だけ
 今は首都高速が上空を塞ぎ、2020年東京五輪までに、老朽化した高速道が改修で地下に潜って青空を取り戻すことが出来るか(品川へ3里)

 

 A 箱根 箱根の山は天下の険、雄大な山や湖に比べ大名行列の面々は豆粒のようだ。今は高速道で行けば簡単であるが、箱根の素晴らしさは汗を流して歩かなければ解らない。
 東海道中でやみつきになり、以後、石畳道、温泉、金時山、湯坂道、大涌谷等知らない処は殆どなくなりました。今年の元旦は会員制のホテルを予約、冬を満喫し、翌朝は快晴の空と大きな富士を眺め、伝統行事、大学駅伝のゴール付近は早くから熱心なファンで盛り上がる国道1号線を通って降りて参りました。(三島へ3里28町)

 B 原 大きな富士と岳南鉄道
 友人の萱原画伯と初めて泊まったのが原駅前の木賃宿風の小さな旅館でした。広重描く 原・朝の富士は道中では最も大きく、画面の枠をつき破ってその高さを表現しています。
 山部赤人の歌で名高い田子の浦を通って途中道に迷い、岳南鉄道の無人駅 須津(すど)に辿り着き画伯はここで素晴らしい作品を残しました。(吉原へ3里6町)

 C 由井・薩 広重が描いた浮世絵は、駿河湾越しに富士を望む素晴らしい構図です。
 私が歩いた薩から望む富士の手前には東名高速道が海の上にせり出し、猛スピードで走る車の列が潮風と共に騒音も運んで来ます。画伯の力作も素晴らしく、我々の著作の表紙を飾りました。(興津へ2里12町)

 

 D 丸子・名物茶店と宇津谷峠
 前日、深夜バスで静岡駅前旅館に投宿、翌日朝出立し、安倍川を渡ると次の宿場は丸子です。広重が描いた茅葺屋根の茶店とそっくりの丁字屋があります。ここで画伯は芸術活動を開始、終ると丁度店が開き、名物とろろ汁を堪能しました。私は一足先に宇津の谷峠に向い、在原業平が『伊勢物語』、東下りで詠んだ世界、或いは阿仏尼が『十六夜日記』で詠んだ歌の世界に浸りました。(岡部へ1里29町)

 

 E 島田から金谷へ 蓬莱橋を渡りSLを追い掛けて大井川鉄道を往く
 街道一の難所「越すに越されぬ大井川」も今では橋が架かり、そのうちの日本一長い木造の蓬莱橋を渡りました。茶畑の中から大井川を渡るSLを見たことにより、金谷から大井川鉄道に乗って先頭駅でSLに追いつき、尚も大井川を遡り接岨峡温泉まで行って温泉に漬かりました。(日坂へ1里24町)

 

 F 白須賀・汐見坂図
 雲助が海を跨げる汐見坂 これは江戸川柳から抜粋した一句ですが、茶屋に腰かけて海を見とれていれば、通過する駕籠かきの股間から海が見えることから詠まれた傑作であります。今まで見て来た浮世絵 箱根や由井の薩?嶺は、作者広重の意図によって、崖の勾配を強調し、浮世絵の素晴らしさが表現されています。ところが汐見坂図に於いては、高所から見た海面は地球が丸いことによって、低地で見るより大きくなります。従って作者は浮世絵の技法を使わずにありのままの景観を描いています。この事実に気が付いたのは「東海道宿場ラリー」で二度目に汐見坂から海を眺めたときでありました。(二川へ2里16町)

 

 G 赤坂・旅舎招婦 御油と赤坂は16丁(1・74粁)しかありません。従って旅人の奪い合いは熾烈でありました。広重の浮世絵は両宿ともその様子が描かれています。赤坂の宿は今でも大橋屋という名で営業しております。ネットワークの会例会で行ったことがあります。流石に留女、飯盛女はおりませんでしたが、中庭には浮世絵と同じ蘇鉄が植えてありました。(藤川へ2里9町)

 

 H 鳴海・名物有松絞 知立宿から鳴海宿に到る手前、桶狭古戦場跡を見てしばらく行きますと有松絞の里があり今日まで200年以上続いています。十返舎一九作、『東海道中膝栗毛』であの弥次喜多も寄って買物をしました。ネットワークの会例会で訪れ、90歳の女性による実演を見せてもらいましたが、流石伝統工芸の手作業に魅入られました。江戸時代は布一反は土地一反(300坪)と同じ価格でありました。(宮へ1里半)

 

I 京師・三条大橋 江戸・日本橋から124里29町(492粁)約9ヶ月かけ、平安遷都1200年を記念して行われた時代祭を見ることが出来ました。山並みは東山三十六峰、遠景の比叡山の雄姿は今も変わらない。

 
 

京都・三条大橋
出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/

前のページに戻る

Copyright (C) Tokyo Mokuzai Tonya Kyoudou Kumiai 2014