昔日閑話(第29話)
木場好人
深川木場(17)
(堀割)
(音頭) 吉田通れば 2階から招く
(受け) (以下同じ)
招くは二十一, 妹は二十才
二十才裸で, 道中が成るよーん
そしてそのあとへ
伊勢は津で持つ 津は伊勢でもつ
尾張の名古屋は 城で持つよーん
と堀の方から軽い調子の,如何にも木遣りの節を楽しむ様な声が聞えて来る。節や文句の点から如何にも楽しそうな木遣りであった。当然,軽い杉丸太の中目(尺以下の8寸,9寸位に)の吉野杉の様だ。馬鹿に力を入れずにスムースに桟取りの棚を積んで居る様だ。
七,七調の文句なら何でも歌い込んで終う。
“オッ嬶は,蚊帳吊れ
よもぎの蚊帳を
昨夜した事,仕様ぢゃ
ないかー”
と,当時軍隊に行く前の若い我々には,先ず“よもぎ”が解らない。そして,その蚊帳を吊って“昨夜した事ー”と云っても何をしたのだか解らない。川並に聞くと“イインダー,未だ坊やは知らなくても”と取り合わない。あの今では見られない,当時,蚊の多くなった夏の夜は,どこの長屋でも緑色(グリーン)の蚊帳を吊っていて,外から窓越しに丸見えだった。その緑色の蚊帳は,“蓬”(ヨモギ)と云う多年草の草を煮詰めてその草で染めたとの事。その蚊帳を吊って中で昨夜した事(御解りと思う)を仕様ぢゃないかーなんて木遣りの唄にして仕事をするのだから,そんなに重い,満身の力を込めて引張る様な重い丸太の時は,そんな気楽な歌では丸太は動かない,楽な仕事の表現でもあった。
“坂は照る,照る 鈴鹿は曇る
合ひの土山 雨が降る”
なんて気取った文句もあった。
重い丸太だと大体次の様な力のこもった歌,と云うか節になる。
“ヨーイ,さんとヨーイ
ヤレ,ヤレコの,ヨンヤさんえ〜”
と出の文句であった。
何れにしても単的な歌詞で
“乗ったら駆け出せ ヨーンヤサンアー”
などと調子の良い,節廻しで気分良く仕事をする様にするのが,川並の親方か哥兄い連の役目であった。
“富士の白雪きや, 朝日に融けて
融けて流れて, 三島に落ちて
三島女郎衆の,化粧の水よーん”
とか乙な文句もあった,木遣りの文句集など無くて,みんな,堀で仕事をし乍らの“口伝”であった。
又当時洲崎の遊郭が盛んだった。洲崎の遊郭は明治20年代,本郷の東大,昔は帝大の傍に有った遊郭を洲崎の埋立てが出来たので東京市の土地へ強制疎開して出来上ったとの事で,良く「洲崎半纏−吉原旦那」と云って,洲崎は半纏着の職人の行く所だと云われて居た。安直な所だった様で,大門橋を渡って右側が一丁目,左側が二丁目で,突当りが土手になっていて南側は海,今の“南開橋”は当然無かった。
一丁目が一番格が上で,二丁目でやや安く突当りの土手は“ケコロ”と云って,金の無い職人の行く所らしかった。“蹴っとばせば,転がる”を略して“蹴ころ”とか,すぐ寝るとか,の事らしい,色々だった。「牛太郎」と云ってお客とその指名した“お女郎”の値段を取り極める。下足番の様な板に「○円○○銭」と書いたもので表と裏が「五十銭」違い位に表示してあったのを,廊の友達の家へ行った時に見た事があった。「五十銭」単位だったから,随分,貨幣価値が違っていたものだ。
後掲に,画の天才,故浅野耕四郎氏の「角乗り」の一部,「あしだの唐傘乗り」を御紹介まで,説明は次号で思い出すまま!!
以上
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