時代を見つめて No.41
新五千円札に登場する「樋口一葉」
時見 青風
新紙幣は当初十六年の七月から全国に出回る予定だったが,新五千円札の「色調やバランスに課題があった」として,財務省の発表によると,デザイン調整に手間取り,予定より四ヶ月遅れの十一月から発行すると言うことになった。だが,二十年ぶりの一新ではある。
新札には,最新の偽造防止技術を採り入れて発行すると言うことである。新一万円札の肖像画は現在の福沢諭吉先生のままだが,新五千円札にはタイトルの明治の小説家,樋口一葉を,新千円札には野口英世博士の肖像の採用が決定し準備中であるとのこと。
新一万円と新千円札の印刷は昨年夏から始まっており,当初の予定通り発行可能であったが,新五千円札だけ発行時間を延ばせば金融機関,自動販売機業界に混乱が生じる恐れがあると判断したとのことであった。
紙幣の歴史によると,お札に女性の肖像が使われるのは明治十年代の十円札に神功皇后の例があると言うが,この歴史札からすると2人目の女性登場となる訳だ。
そこで,タイトルの「樋口一葉」について,明治文壇の才媛一葉の生涯について調べて見た。
6月の土曜日午後,大変蒸し熱い日であったが,友人と地下鉄日比谷線で「一葉記念館」のある「三ノ輪」駅で下車した。7〜8分歩くと記念館はすぐ見つかった。
台東区三ノ輪界隈は,下町人情の厚い所である。ものを尋ねると,出て来て詳しく教えてくれる。一葉もこの下町人情に支えられた所,大であったと思われる。昔は家並がくっついて道幅も狭く家々の玄関先には植木鉢が並び,夕方,ほおずき鉢に水をやる光景が目に浮かぶが,今の三ノ輪・竜泉寺界隈はかなり道路区画整備が進み,大変きれいな町並に変わっていた。そんな一角に一葉記念館はあった。
玄関入口の右側に一葉記念館建設までの経緯が書かれた碑があった。
『名作「たけくらべ」の舞台となった竜泉寺町の人々は,一葉の文学業績を永く後世に遺すべく,有志相集い「一葉協賛会」を結成した。昭和二十四年には,戦災で失った菊地寛撰文「一葉記念碑」を小島政二郎補並びに書で再建した。
続いて,昭和二十六年には,一葉記念公園に歌人佐々木信綱の作並びに筆による「一葉女史たけくらべ記念碑」を建設,更に昭和三十五年には,塩田良平筆になる「一葉旧居跡碑」を旧居跡に建立した。
協賛会は,残る大事業として記念館建設を目指し,有志会員の積立金をもとに,現在の用地(約290m2)を買収し,この用地を台東区に寄付して記念館建設を要請した。
台東区は,こうした地元住民の熱意に応えて,記念館建設を決定し,昭和三十六年五月十一日開館に至ったのである。当時,女流作家の単独資料館としては我が国で初めてのものであった』
以上のような内容であるが,一葉に対する地元住民の熱意がうかがえる。
樋口一葉・二十四年の生涯は正に流星の如く明治の嵐の中をかけぬけた女流作家,彼女の悲運な短い生涯,その人物像を垣間見て,没後百年を越えた今もなお,多くの人に感動を与え続けている。そして,新五千円札となって世の中に新登場することになった。金で苦労し通しの一生であった一葉にとって,百年前の五千円などという金額は,気の遠くなるような大金であり,札になるとは夢にも見なかった事と思うが……。
樋口一葉の略歴(経歴)をかいつまんで記して見る。
※明治5年(1872),一葉(本名,奈津(なつ))は父則義,母多喜の次女として東京府第二大区一小区幸橋御門内(現千代田区)にあった東京府庁構内の武家屋敷で生まれている。
父則義は,江戸南町奉行支配下の同心であったが,維新後の当時は東京府庁に勤め,生活も当時では中流ぐらいの家庭に育ったと言う。
※明治16年(1883)11才の時,下谷区上野元黒門町にあった私立青海学校小学高等科第四級を首席で修了後退学する。
(早熟で向学心の強い奈津は5才の頃から本郷学校に入るが,幼い為,すぐ退学となり,吉川寅吉が経営する吉川学校に編入した。その後,下谷区に転居してからは,しばらく東京師範学校付属小学校に通ったが,青海学校に転校している)
※明治19年(1886)14才の時,小石川安藤坂にあった中嶋歌子の歌塾「萩の舎」へ弟子入りして,ここで和歌・書道(千蔭流)・古典を学んだと言う。
※明治20年(1887)15才の時,長兄,泉太郎死去。
※明治22年(1889)17才の時,父則義,死去 (奈津達は,一時は次兄虎之助の借家に転居するものの,母,多喜と虎之助の対立は絶えなかった。虎之助は,奈津が6才の時に分籍になっていたこともあり,彼女が家督相続人となる)
※明治23年(1890)18才の時,9月末から,本郷区菊坂町七十番地を借り,母「多喜」と妹「くに」を住まわせる。自分は中嶋歌子の家に住み込みながら,母や妹とともに針仕事・洗張・蝉表造などの内職をして生活したと記されている。
※明治24年(1891)19才の時,東京朝日新聞記者兼専属作家の半井桃水について,初めて小説の手ほどきを受ける。
※明治25年(1892)20才の時,桃水の主宰した雑誌『武蔵野』に小説「闇桜」が載り,萩の舎の先輩であった田辺花圃の仲介で,雑誌『都の花』に「うもれ木」が連載され,これが一葉の出世作となった。
※明治26年(1893)21才の時『文學界』第3号に「雪の日」が掲載される。『文學界』によって星野天知や平田禿木,後に馬場孤蝶や戸川秋骨,上田敏,島崎藤村,川上眉山を知ったと記されている。
(この年の七月に,生活苦を打開しようと下谷龍泉寺町三百六十八番地へ移り,荒物雑貨,おもちゃ,菓子などを売る小店を始めた。)
※明治27年(1894)22才の時,約9ヶ月で龍泉寺町の店を閉じ,本郷区丸山福山町四番地へ転居している。
※明治28年(1895)23才の時,1月から約一年間にわたり龍泉寺町時代の生活体験から取材した「たけくらべ」を『文學界』に連載し,この間に「大つごもり」「にごりえ」「十三夜」「わかれ道」などを発表している。
(一葉は生涯で,このほか四千首に近い和歌,15才から晩年までの日記を残した。この日記は「たけくらべ」「にごりえ」などの作品と並んで,近代文学の傑作といわれている,とも記されていた。)
※明治29年(1896)24才の時,11月23日午後,肺結核のため24年の短い生涯を閉じた。
(埋葬された樋口家の墓は,現在,杉並区永福一丁目の築地本願寺和田堀廟所に移されていると言う)
一葉のエピソードや話題を2・3拾って見た。
略歴の中にも出ているが,一葉の父,則義は後半貧しい下級役人となっていった。生活を支えるために給料では足りなかったので,よく借金をしていた。則義の上司に夏目直克という人がいて,この人が父の主な借金相手だったらしい。夏目家の長男大助と一葉を見合いをさせる話しが持ち上がった。だが,大助は樋口家の貧しさをきらって断わった。この大助の弟が後の夏目漱石であると言う。一葉が16才の時であった。
又,一葉が発表した「たけくらべ」を読んだ森鴎外はほめちぎった。一葉はこの年の11月23日,結核のため死亡,25日に葬式となった。鴎外は彼女の死を悼み,正装で見送ることを申し出たが,妹邦子はその申し出を丁寧に断わったという。理由は分からない。
一葉のひそかな片思いは,一葉が作家で身を立てる決心をした19才の時である。妹邦子の友人が,経歴記事の中にも記してあるが,新聞社付きの作家「半井桃水」を紹介してくれた。経歴文中では小説を初めて手ほどきを受ける,となっているが,彼は若くてハンサムな桃水を師として仰ぐ一方,一葉の恋心も芽生えていったとなっている。だが,桃水は一葉を特に意識してはいなかったらしい。片思いであったのである。
一葉記念館に彼の写真があるが,確かにハンサムであった。又,一葉の和服姿はすばらしく美人である。
他に記念館には彼女の書いた原稿や机・筆・着物・彼女のかかわりあいのあった人々の写真等多く展示されている。
一葉は勿論,文才であり,天才であることに間違いはないが,父の事業の失敗と死によって,一家の収入の道が途絶えた。兄が2人いたが,長兄は略歴にも記してあるが,若くして亡くなり,次兄との3人の生活を支えなければならなかった。しかし,仕事は針仕事くらいしかなく,それも途切がちであった。そのため,19才の一葉はついに作家になることを決意したのである。明日の生活費にも困っていた一家を支えなければならないという責任感に,毎日胸を痛めていた一葉は,かつての和歌の仲間が売れっ子作家として高収入を得ていることを知り,自分も早く売れる作家になる為ではなく,一家が生きてゆく生活費を稼ぐためであったと言う。貧乏のどん底であったが故に,こんな名作が生れたのであろうか。
こんな生活をし続けて,名作を残し,未婚のまま僅か24才の若さでこの世を去った一葉が,再び新五千円札として登場することが,本人にとって幸か不幸かは別として,一葉の苦労を察しながら,新五千円札に敬意を表し,大事に扱い,稼いだ金の有難さと今の良き時代を実感し感謝したいと思った次第である。
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