昔日閑話(第31話)
木場好人
深川木場(19)
夏の深川木場の「風物詩」として,角乗りは人気があった。最近では仲町交叉点近くの「黒船橋」の川下で演る機会が多くなったが,最盛期には“河向う”,乃ち隅田川の永代橋を渡った向う側,京橋,日本橋方面から角乗りの日は見物客が見えた。
会場も,馬場先門の外濠で演った事もあった。又隅田川,永代橋の上流,今は高速道路になって居るが“新大橋”の西側河岸,柳橋に近い“向う河岸”,ここは嘗て,今で謂う「プール」代りに,隅田川の上流から云えば右岸に“葭簀”を張って,水府流の水練場があった。丁度隅田川が左へ曲る右側なので水流の潮が稍遅い。それにしても大川の片側に“プール”とは? 今では考えられない。
川並に取ってこの“角乗り”は「待ってました」と許りに張り切る。普段,堀の中や,川岸で陸からは見えない所で仕事をして居るので,見物人大勢の目の前で,普段鍛えた,身の軽い,粋な所を見せようと大張り切り,終ってから「○○組の川並は上手だった。□□組は一寸落ちるな!」なんて評判が立つので猛練習だ。
「角乗り」だが,“素乗り”と云って一人で長鉤,或いは竿を一本持って乗るのは左程難しい事では無かった。昭和10年(1935年)前後,筆者も学校を出て,14年,「ノモンハン事件」で“ゴビの砂漠”の北端,モンゴルで,危い目に遭ってから一時復員,再度“召集令状”に依り戦地に過ごした7年間,軍服に別れを告げた時は30才を越えて居た。
青春時代の想い出と云うと,当時にしては恵まれた方で,野球,当時,プロ野球の創成期で今でも投手の最高は沢村賞,このプロ野球が“洲崎球場”今の東陽2丁目にあって大潮廻りの,南風の強い日,沢村投手が投げて居たが,球場に海の満潮で外野の方から潮が上って来て,「コールドゲーム」になった事を記憶して居る。そして,球場から市電の「洲崎」終点まで歩いて行く,橋のそばでは浦安から「魚」やら「干物の魚」「つくだ煮」など露店が並び,野球見物の土産に「魚」とは,そんな時代であった。当時組合でも各班対抗の“運動会”が「お不動尊」の西,深川公園で毎年あった。今,半分位の広さで“野球場”になって居る所,“池”があってお盆には「盆踊り」の会場となり,仲町の芸者連中が,踊りの輪の中心となって居て,「東京音頭」「深川音頭」などで夜の更けるのを忘れて居た。当時筆者達が楽しみにして居た週末,一日休み,或いは連休など利用して,山の好きな友人と共に,夏から秋に良く行ったのが,「上高地」松本から私鉄→バスで「大正池」まで行き,あの「梓川」に架かる「河童橋」,前穂高岳→奥穂,そして“槍ヶ岳”の偉容,絵にも描けない様な景観,そして,“穂高”へと“五千尺”の宿から登り,今でも有ると云う「穂高のお花畑」,当時の我々の気持をそのまま歌にした「上高地の詩」は,正にズバリ,歌になった愛唱歌,次に御紹介する
槍は恐ろし, 穂高は怖し
雪で水増す 梓川,梓川…
お花畑で 昼寝と来れば
憎や邪魔する 山の雨と!!
|
浅野氏画による角乗りの妙技 |
正に実感そのもの,そして,冬の雪の季節になれば,「山スキー」。特に良く行ったのが,「志賀高原」,長野電鉄で,「湯田中」へ,そして,スキーに“シール”を付けて,“丸池→木戸池→熊ノ湯→そして急坂を登り「覗小屋」→「横手山(2,000米級)」尾根を「渋峠」へと,そして小屋でスキーのシールを外して,雪質とワックスを確認して山の急坂を降って「草津温泉」へと辷る。正に快哉で楽しかった冬山の想い出”。当時としては“スキー”を楽しんだのは尖端的で,スキーを肩に担いで,地下鉄で上野駅へ,夜行列車の網棚へスキーとリュックを載せて冬山へ!! 正に極楽だった。又東北の“坂谷峠”へ登って,降りは「五色温泉」へと懐しいコースだった。今は列車もアッサリ通過して居ると思うが,当時は「軽井沢」の登りと同じく,列車は「アプト式」で急坂を,“前進→バック”で山を登った。蒸気機関車の煙,今は見られない光景だった。長くなるので,冬山のスキーの話は寒くなったら,又70年前を思い出してみます。
|