東京木材問屋協同組合


文苑 随想

「川並」考

第四章 川並の生活 
第五章 川並の文化

元(株)カクマル役員
酒井利勝

 

第四章 川並の生活

1.往時のくらし
 平成8年3月,92歳で物故した木場川並の最長老,生き辞引であった小安四郎親方の話を御傳えしよう。

 て広商店(後述)へ入店したのは大正2年,数え年11歳の時だった。
 初めのうちは,送り状を届けたり,少したつと集金などが主な仕事だった。作業としては先ず「櫓板」の練習をさせられた。長さ9尺〜1丈,幅8寸〜1尺位,厚さ7分ほどの板三枚を,筏の後ろにつけ,櫓の代用にする。
 縄かぎをそれに打ちこんで使う。現在では知っているものは誰もいない。(筆者も見たこともないし,初めて聞く話である。)毎日30分くらい,半月ほど稽古するとどうやら一人前に扱えるようになる。木場内の回漕では必要なく,大川(隅田川)での上り下りの時などに「櫓板」を使用した。
 冬は午前6時起床,30分掃除,仕事から帰ると女中がお握りを造ってくれた。
 一人前になると,本格的に問屋の仕事に参加する。まずは丸太の仕訳である。樹種,径級毎に分けて(径は尺上,尺二寸上,尺五寸上の三通り)筏を組む。ひと組み(ひとさしという)は検尺人,出し方,返し方に分れ,ひとさしは7〜8人,上手に3〜4人が配置される。5〜6年こうしたチームに在って,木を見る目を養う。こうして「目が利く」ようになる。
 明治から大正期は大きな組の親方は20人位の下方(してかた或いはしたかたという)を抱えていた。小さな独立組は1〜3人というのもあった。
 検尺が出きるようになった川並は,お礼奉公一年の後大きな親方から「店別」(たなわけ)をして貰う。仕事がなくなった時は本家へ戻る。また独立組を手傳うこともある。

 小安親方が入店した「て広商店」(新木場移転まで續いていた原木問屋の名門)は八代目鈴木源蔵が代表者であり(婿養子であった。)材木屋を兼ねた川並の親方でもあった。
 て広商店は当時100人位の店員がいた。それは次のように段階に分れていた。
       1.中年もの 18歳〜20歳
       2.下方(してかた)20歳〜25歳
       3.一般(普通の川並)30歳〜40歳
       4.世話役(せわやきと呼んだ)50歳くらい。
 世話役になるのは子飼いの者に限られた。中年ものとは肩上げ(少年期の着物)を取ったものの謂いで,小安親方は15歳から中年ものと呼ばれた。若い年代でなくとも途中から川並に入ったものは中年ものと呼ばれた。普通の川並は一般に中年ものと呼ばれるが,40歳を越えても中年ものと呼ばれる人もあった。

 「通い」と「住みこみ」とがあって,子飼いは住みこみである。住みこみは朝夕,日夜仕込まれる訳で修行量は3倍くらい違った。その子飼いの中から「世話役」が生れる訳で,それは100人の中3人位であった。…早くなりたや世話役に… とは「木遣り」の歌詞にもあった。世話役になると,三味線の糸でくるんだ棒墨を,くるみの実につないで腰に挟んだものだ。

 作業は雨が降れば休みである。50歳を過ぎれば余り仕事をせず,50歳を過ぎてなお仕事をしている者は仲間から悪口をいわれた。眞面目な者は余り仕事は出来なくてもお店へ入れた。

 川並長屋があった。いわゆる「九尺二間」という広さで4,5軒。て広商店の前にあった。
 現在の木場公園内の,角乗り用に使うプールの辺りである。

2.「組」のあり方
 筆者の父親は「酒井組」と称する中,小程度の川並の「組」の親方であった。父は三井物産(株)木材部を主な「お店」とする「中島組」の筆頭世話役だった。子供のいない中島親方が病没し,そのあとを父が受けついで,それが「酒井組」という名称に変った訳である。数多くあった「組」は,その多くが世襲であったが,時には上記のようなケースもあった。酒井組のその後は,三人の子がすべて川並とならなかったので,父のあとは世話役であった池田市男氏の「池田組」と笈川徳蔵氏の「笈川組」の二つの組が生れた。

 酒井組は昭和5年に生れ,昭和16年9月の第一次の木場の川並の大合同まで存在した。
 仕手方(下方とも称した。組員のこと。)は,典型的職人肌で口数の少い,通称「砂政」砂町在住の楠政次郎さん,温厚でハンサムだった亀戸在住嶋村吾市郎さん,腕利きだったが性格も強かった上記池田市男さん,背丈は低かったがガッチリした体躯を持ち,黙々と動いていた笈川徳蔵さん,以上四人が世話役(これらは丸太の格付け,検量が出きる技能者,指し金〈物差しのこと〉が持てる人を呼んだ。)で上記の通り,この中2人が酒井組のあとを受け継いだ。中程度の組で四人の技能者を擁しているのは珍しかった。
 一般の組員(世話役の下働き,筏の回漕等の作業に当った。)は,砂町在住で,大柄な体躯を持ち,茫洋とした存在だった「づぶ金」さん。行徳に住み一番年若で,俊敏な感じだった通称「行徳」の遠藤さん。同じく砂町の住人,小柄で少し暗い「浜さん」。篤実で無口な「源さん」。中背でマメな「信さん」の5人。他に定傭ではないフリーランサー的な下働きが,いつも一人か二人くらいいた。合計親方以下11人乃至12人。
 およそ,その程度の人数,編成で組は維持されていた。(組の数,移り変りについては後述),作業員の他に筏,丸太の明細を記した送り状の作成,その他「御店」との文書,数字的事務の処理,連絡に当る事務員(書記と呼んでいた)が1人いるのが通例だった。酒井組では親方の女房である筆者の母がそれを担当していた。
 「組」は作業用具(縄,ワイヤー,手鉤,長鉤)の倉庫を兼ねた作業員の休憩所として「居小屋」を持っていた。二間四方位の広さを持つのが普通で,中央にストーヴ等もあった。居小屋は主な作業場である木場内の堀の一角,或いは川筋に置かれた。

 賃銀
 大川(隅田川のこと)を上り下りする筏のような特殊な作業はそれぞれ定めがあり,又,桟積作業のように請負制による出来高払いというようなことも時々はあったが,殆どは日当制である。第二次大戦以前は労働組合も存在しなかったし,月給制などは考えられもしなかった。世話役と一般組員との格差はあり,世話役の中にもランク付けは存在したが,ともかく殆どが日当制で雨が降れば作業は休みであり,仕事のない日があっても保障される訳ではない。給料は月末に日当を合計して支払われた。
 戦前は,決して右肩上りの経済ではなく,作業員の給料前借りは多かった。月末に差引き精算されるのだが,そうであればその月は当然,又,不足してしまって慢性的な前借り状態にもなる訳である。
 以上が,いわば川並の,中,小親方に所属する一般的作業員の在り方であった。

3.川並の服装
 大正時代,先ず足ごしらえは足袋の上へ「わらじ掛け」であった。(わらじ掛けは現在でも神輿の引取の際などに使う。三社祭りでは神輿をかつぐ女子はわらじ掛けとされていた。)股引は紺一色,メクラジマ略してメクとも云った。足の筋肉に密着しているものを使う。ぴっちりしていないと水が浸みこむのである。老人と小僧は草色(薄い青・空色)のものをつけた。帯はソロバン玉模様で一本締め,海老茶色が普通だった。とんぼ結びにした。片一方で引っ張ればすぐほどけるからである。
 上半身はこれも紺の「腹掛け」をつけ,その上へ「半纏」を着た。組の「印しばんてん」である。組毎に背中へそれぞれのデザインのマークを染め抜いたものである。はんてんにはもうひとつ「御店」の印しばんてんもあった。世話やき,検尺人等が着たもので,普通の川並には着せなかった。御店のマークを染め抜いたもので,例えば三井物産のものなどもあった。盆暮れにお店が何枚かを(反物で)親方に贈り,親方が世話やき等に分けるのが通例であった。このほかに印しばんてんでなく,いわゆる長半纏があるが,これは作業用ではなく,普通の反物で作られ膝頭近くまである長いもの,親方等が儀式用,或いは祭り等に着けたもので,いわば晴れ着である。大きい組では親方(かしら)だけでなく世話やきも着た。

 こうした,いわばユニフォーム・スタイルが守られてきたのは,昭和初年頃までであった。既にわらじはなくなっていて,地下足袋が殆どだったが,昭和も10年代になるとゴム長靴を履くものが出てきた。腹掛けもその頃には殆ど見られなくなり,印しばんてんも減ってきて,冬はジャンバー・スタイルが殆どになった。股引きも昭和初頭で消えた。つまりは,風情はないが極めて一般的な水上作業スタイルに変ってきた訳である。

 そのゴム長靴も,昭和30年代には底へスパイクをつけるようになってきた。アメリカの作業現場では古くから使っていたものである。運動靴のスパイクの底の部分だけを切り離して紐をつけたものである。ゴム長の滑り止めには好都合だったし,水面上の丸太作業には確かに安全ではあった。

第五章 川並の文化

1.芝居
 木場の旦那衆も家族も芝居が好きだった。
 芝居見物には概ね舟で出掛けた。木挽町の歌舞伎座は万年橋から舟を上ればすぐ近かった。新富町(地下鉄有楽町線に新富町駅がある)の新富座へは舟で一時間位で行けた。
 当時の芝居小屋としては,歌舞伎座の他に市村座(下谷=長町)新富座,寿座(本所相生町),浅草の芝居小屋に公園劇場,宮戸座,三国座があり,神田には柳盛座もあった。
 木場の芝居好き,舟で見物に出掛ける容易さ等もあってか,川並は一般に芝居好きだった。木場内を出た筏乗り込み(乗っこみと称した)の帰りには屡々芝居見物をしたものだった。乗っこみの時使った「長かぎ」は芝居小屋の外へ立て掛けておき,新しい半纏に着換えて入場する。

2.音曲
 芝居に音曲はつきものだ。川並衆の中にはさまざまの音曲に馴染む人が結構いた。明治28年生れ,祖父の代からの川並。人呼んで「太郎」。江戸っ子の川並としては最後の一人であった石井赤太郎さんの話を聞こう。
 『昔の人は,みんな清元だとか,常磐津だとか,それから小唄だとかを習ってばかりいたから,何をやってもうまい。おどりも習ったし,三味線は十年ぐらい習った。清元も十五年ぐらい習ってね。』
 赤太郎さんほど音曲に打ちこんだというのは特別な例だとしても一般的に一,二の音曲に親しむ川並衆は少くなかった。筆者の父も,酒こそ好きであったものの謹厳実直を絵に書いたような,およそ川並らしからぬ人だったが「義太夫」には打ち込んでおり,見台を持ち,肩衣を着けて当時各地にあった地域の演芸場に素人演芸人として出演する程だった。川並には芸人が多かったのである。
3.柳家三亀松のこと
 川並衆の間で音曲の稽古が盛んだった象徴のように,川並の古老は「柳家三亀松」の名を挙げる。再び赤太郎さんの言葉を借りよう。
 『三亀松ね,知ってんだろ,やっぱり川並だ。あいつも木場の生まれだもの。そいで,あたしがひとつせから三味線を教せえたの,三亀松に。だからあたしの方が師匠なんですよ』三亀松は親も川並だった。22,3歳まで川並だったが,洲崎,仲町でハコ屋(芸者衆の三味線を出先へ届ける運びや)をやったが,芸者とねんごろになって仲町を追放され,柳家三語楼の門に入り踊り,端唄等粋な芸風で名を成した。知る人ぞ知る芸人であった。
 「木遣り」「角乗」が東京都の無形文化財として今に傳わっているのも川並の間にそうした風土があったことにも依るのかとも思われる。或いはそれが逆なのかとも。

(次回は,第六章 角乗りと木遣について)




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