時代を見つめて No.44


「イチロー」と武士道

時見　青風

　2004年10月1日，歴史を塗り変えたメジャーの「イチロー」がいる。

　これまでの記録アメリカメジャーリーグ1920年にジョージ・シスラーと言うアメリカ人がマークした257安打をイチローが84年ぶりに最多安打を更新した。野球ファンという訳ではないが，時間が経つにつれて，これは凄い事であると認識して来た。そして，凄い感動が噴射した。
　大正時代の新渡戸稲造先生の事を思い出した。日本とアメリカの掛け橋となって日本人の存在感をアピールした事に共通する。
　包丁1本さらしに巻いてではないが，バット1本背中にかつぎ4年前アメリカに渡った，チョボ髭を生やしてバッターボックスに立ち，あの肩のユニホームをまくる姿は，これから刀を振り上げ真剣勝負に向かう侍の仕種に似ていると思った。侍を意識すると，あの話題になった山田洋二監督の「たそがれ清兵衛」の果たし合いが頭をよぎって来た。
　時代は大きく違いはあるが，「武士道」か，「修行僧」かに思えてならない。あのバットが，勝敗を決める刀に見えて来るから不思議である。

　イチローは時代が生んだ天才であり，ヒーローであることには間違いないが，彼を知る人達は「才能だけじゃない，野球に対して物凄く努力する男」と口を揃えて言う。
　愛知県富山町立中学野球部にいた頃，彼より走りの早い子もいたし，打つ方も彼より飛ばす子もいたと言うが，イチローは，練習後もバッティングセンターに通い努力した。その毎日の継続が目に見えない力になったのではと話す人がいる。
　又こんないろいろの話も記されていたので取り上げて拾って見た。
　愛工大名電高時代，全寮制の野球部の寮の敷地内に木を植えても育たない空間場所があった「昔は基地だった」と言うことらしい。そこで夜中，「シュー，シュー」と言う音が聞える。「幽霊がいる」のではと評判になった，監督が見に行くと，そこには素振りを続ける汗だくのイチローの姿があった。
　彼は言う，「努力は人前ではできない」，この言葉が彼の美学であるとすれば，この辺も天才で大和魂の武士道に通じる仕種だと思う。
　勉強も中学の最後の成績は数学と音楽の4を除きオール5であったと言う。東大も夢じゃないと言われ，名電高も学業の特待生で進学したと言うが，周囲には全く勉強しているようには見えなかったと記されている。
　プロ入り後，イチローは周囲に「僕は子供たちに練習の辛いところを見せたくない」と話したと言う。子供には夢を見せてやりたいという気持からなのだろう。
　又彼の練習熱心さには並の人には到底出来ない。夜もどんなに遅く帰宅してもトレーニングを欠かさない。それも試合後，ロッカールームに戻って最低30分，体の冷えない内にやった後の帰宅その後のことである。
　プロだからトレーニングは当り前であるが，365日と聞くと普通の精神力では到底出来る業ではありえない。
　阪神大震災のため，仮設住宅で不便な生活を強いられていた被災者を励まそうと，神戸市に本拠地があるオリックスの選手たちが年賀状を出したことがあった。
　イチローはこう書き，仮設住宅の人たちを元気づけたと言う，
　「人は必ず障害に出会う，誰もが負けそうになる。そこで頑張れる人間になりたい。前向きな姿勢で夢を持って歩きたい」
　当時20才そこそこの人間の言える言葉と思えぬが，天才イチローの美学・哲学に通ずるメッセージであると同時に感服する言葉である。
　報道員のインタビューにも言葉少なく笑みがなく，無口で仏頂面のイメージが強く，余り印象は良くなかったし，私もそう思っていたのだが。
　そのイチローの素顔を拾って記して見た。
　生まれ育った鈴木家は父・母・5才年上の兄がいて4人家族であった。
　名古屋空港のある愛知県富山町で電動工具の部品工場を経営する父も高校球児だったと言う。
　生まれた時の体重は4,280gあったと言うが，父親の言うには「大きく生まれてモヤシのように育った」と表現している。愛工大名電高の監督は初めてイチローを見た時，モヤシのような細い体で野球が出来るのかと，高校入学時のイチローを疑ったと言う。
　中学卒業時の身長は170cm，だが高校で牛乳を飲んでぐんぐん背が伸び，高二の夏には現在と同じ180cmになった，そして，ウエートトレーニングも重ねて筋肉もつけて行った。性格を父親が言うには「頑固でやんちゃで，大の負けずぎらい」几帳面でもあると言った。又スポーツ少年団の指導者は合宿した時のことをこう言っている。「イチロー君は寝る前にグラブも油を塗って，靴下もきちっと枕元に畳んだ」
　高校時代も練習後，ロッカールームの作業台でグラブやスパイクの土を落とし，全て手入れをしてから一日が終わった。
　大リーグでもファンの子供達に「道具を大事にしないと，いいプレーができないよ」とよく教えていたと言うのである。
　小学生の時は習字も習っていた。イチローは3年前からある証券会社の広告に登場しているが，最近では，習字の腕をふるう国債のCMが好評と言う。
　妻の弓子さんは（38才）元TBSアナウンサー，英語も堪能な姉さん女房である。記録達成直後，球場にいた弓子さんは父に「今やってくれたのよ」と電話をしたそうである。父はお返しに「弓子さんのお蔭だ」とねぎらったとの新聞記事であった。
　イチローはニンジンやセロリーなどの繊維質の野菜は大嫌いで，タン塩等が大好きだと言うから偏食の持主であるだけに弓子さんの苦労がうかがえる。
　イチローの好きな音楽はラップやヒップホップ，試合後，テレビカメラの入ったロッカールームでチームメイトと体を揺らしてダンスもすると言うから，あのバッターボックスに立つ真剣な仕種からは考えられない光景ではある。
　そして，前人未到の記録を打ち立てたヒーロー，平成16年10月1日，大リーグ新記録となる年間258本目の安打を放ち，イチローめがけ，マリナーズの選手達が次々と集まって来た時の写真の笑顔は7福神の微笑とも見えるご機嫌そのものであった。

イチロー年表
1973年（昭和48年）10月　愛知県豊山町に生まれる
1991年（平成3年）3月　愛工大名電高3年の選抜大会は投手で初戦敗退
1991年（平成3年）11月　ドラフト4位でオリックスから指名
1992年（平成4年）7月　ダイエー戦でプロ初安打
1993年（平成5年）6月　野茂（近鉄）からプロ初本塁打
1994年（平成6年）9月　プロ野球初のシーズン200安打突破で首位打者
1995年（平成7年）9月　阪神大震災を乗り越えてリーグ優勝
1996年（平成8年）10月　巨人を倒して日本一に
1999年（平成11年）2月　マリナーズの春季キャンプに参加
1999年（平成11年）4月　プロ野球最速の757試合で1000安打
1999年（平成11年）12月　元アナウンサーの福島弓子さんと結婚
2000年（平成12年）10月　自己最高3割8分7厘で7年連続の首位打者
2000年（平成12年）11月　入札制度でマリナーズと3年契約
2001年（平成13年）4月　大リーグデビュー戦で2安打
2001年（平成13年）9月　日米通算1500安打
2001年（平成13年）10月　ア・リーグMVP，首位打者，盗塁王，新人王を獲得
2003年（平成15年）12月　マリナーズと4年最大50億円で契約延長
2004年（平成16年）5月　日米通算2000安打を達成
2004年（平成16年）8月　史上初の新人から4年連続200安打
2004年（平成16年）10月　シーズン最多安打記録達成

大リーグのシーズン最多安打10傑

	安打	選手（所属）	年度	打率
(1)	262（最終）	イチロー（マリナーズ）	2004	.373（日）
(2)	257	G・シスラー（ブラウンズ）	1920	.407
(3)	254	L・オドゥール（フイリーズ）	1929	.398
		B・テリー（ジャイアンツ）	1930	.401
(5)	253	A・シモンズ（アスレチックス）	1925	.387
(6)	250	R・ホーンスビー（カージナルス）	1922	.401
		C・クライン（フイリーズ）	1930	.386
(8)	248	T・カシブ（タイガース）	1911	.420
(9)	246	G・シスラー（ブラウンズ）	1922	.420
(10)	242	イチロー（マリナーズ）	2001	.350

イチローがつくった主な記録

〔日本〕
年間　210安打（130試合）	歴代1位
69試合連続出塁	歴代1位
7年連続首位打者	歴代最長
216打席連続無振	歴代最長
757試合で通算1000安打	プロ野球最速
シーズン打率 .387	パーリーグ最高
年間18死球	パーリーグ最多
3年連続180安打以上	プロ野球初
〔米国〕
年間259（262）安打（159試合）	歴代1位
新人年間242安打（157試合）	歴代1位
※連続4季で通算921安打	歴代1位
年間222安打	歴代1位
新人から4年連続200安打	大リーグ初
シーズン4度の1試合5安打	大リーグタイ
年間3度の月間50安打	大リーグ初
2ヶ月連続の月間50安打	大リーグ初
通算4度の月間50安打	25年ぶり
月間56安打	66年ぶり
年間79度の複数安打	球団新
40試合連続出塁	自己新
日米通算2000安打	日本人最速
（注16年10月1日現在）

※イチロー，本名・鈴木一朗，1973年（昭和48年）10月22日，愛知県富山町生まれ，92年に愛工大名電高からドラフト4位でオリックス入団，プロでは投手から外野手に転向し，1994年（平成6年）にプロ野球記録のシーズン210安打をマーク，2000年（平成12年）オフにポステイングシステム（入札制度）で米大リーグのマリナーズ入団。1年目の2001年（平成13年）は242安打でアメリカン・リーグMVPと新人王に輝き，首位打者，盗塁王を獲得した。180cm，72キロ，右投げ左打ち，家族は弓子夫人，子供はまだ出来ていない。

※ジョージ・シスラー（イチローの前の記録保持者）
米オハイオ州生まれ。
1920年にブラウンズ（現オリオールズ）で全154試合にフル出場，257安打を放ち，打率・407で首位打者に輝いた。
1922年には246安打，打率420で首位打者実働15シーズンで200安打以上を6度記録し，盗塁王も4度獲得した。1930年に引退するまでの通算成績は2812安打，打率.340，102本塁打，1175打点，左投げ左打ち，1939年に1塁手として初めて野球殿堂入り。
1973年に80歳で死去。

※このシスラーの長女フランシス・ドラックルマンさん（81才）は記者会見し，「イチローのおかげでジョージにまたスポットライトが当った」と感謝し，駆け寄ったイチローと固い握手をしたと言う。
「彼のような素晴らしい青年が成し遂げたのだから，父もさぞかし喜こんでいることでしょう」と笑顔で話したと記事にあった。

　記録更新が注目されるようになってから，「日本人には新記録を作らせないぞ」というようなプレーがあるのではと気にしていたが，大リーグの投手は真っ向勝負のフェアプレーで対処して来た，イチローもそれに見事こたえる。観客も総立ちして拍手に歓声，見事なスタンドプレーであった。かつて日本では，外国人選手が本塁打記録を更新するのを防ぐために敬遠するようなプレーもあったように思う。野球に対する気持が大リーグはかなり違うような気もする。イチロー選手の偉業に感激すると同時に大和魂・武士道にふれた気がする。これまで表面はともかく心の底では日本人を見下すアメリカ人は多かったのではないか，だが，アメリカ人は称賛するものは素直に称賛した，そして「日本にはこんなすごい男がいるのか」と親近感と好感を持ったに違いない。
　イチローは「がんばれ」と言う言葉は嫌いらしいが，やっぱり私は武士道で「がんばれ」と言うしかなかろうか。