東京木材問屋協同組合


文苑 随想

「川並」考

第六章 角乗りと木遣

元(株)カクマル役員
酒井利勝

 

1.角乗り

  a 角乗りの歴史

 「角乗」の歴史は古く,江戸時代の初期に遡る。元来筏師の余技から発し,多年改良工夫を重ねて,昭和27年に都の無形民俗文化財の指定を受けている。
 水に浮かぶ材木を鳶口一つで乗りこなして筏に組む作業の余技であるが,数々の技術を加えて水上の曲技として発達した。角材を使用する為,丸太より高度な技能を必要とし,多年の修練を必要とする。子供の頃に始めないと本物にならない。
 日本全国数いる筏師の中で,角乗りが出来るのは木場の川並だけである。木場の角乗りに似たものに,名古屋のイカダ一本乗りがある。名古屋市の無形文化財に指定されているが,木場の角乗りとの違いは,角材と丸太の相違とともに,「演技」と「競技」の違いがある。木場の角乗りが技術プラス品格を求められるのに対して,名古屋の一本乗りは競技が優先している。
 江戸のご開府早々,慶長八年(1603)から江戸城の大規模な増改築が行われ,用材が東海,熊野辺りより海路で,上州,秩父よりは筏で遥々江戸に運ばれたことは既述したが,当時既に筏師による角乗り,木遣りが行われている。寛文元年(1661)に両国橋が架かり,以来本所,深川は江戸の市域に入るが,その後元禄に入り,新大橋(1693),永代橋(1696)が完成し,都度架橋の御祝いに角乗りが披露されている。
 元禄時代には,江戸湊や大川から曳航された筏が木場の堀割を埋め,筏作業に従事する大勢の川並衆により,角乗り,木遣りが盛んに行われた。角乗りが木遣りと共に川並衆の統一と親睦に果した役割は大きい。
 昭和39年(1964)10月13日に,富岡八幡宮境内の東側に「木場角乗りの碑」が建立された。碑には角乗りの由来が次のように記されている。
 角乗りの由来「木場の角乗りは三百余年の昔,徳川幕府から材木渡世の免許を与えられた業者の材木を扱う川並の祖先の余技として進展し,若者の技術練磨の目的を以て今日に伝わるものである。其の間,明治初年三島警視総監時代,水防出初式に初めて浜町河岸で披露,又グランド将軍が来朝の際,上野不忍池にて催し,後横須賀に於て軍艦進水式の折り,明治天皇の天覧の栄を賜る。その後,浜離宮や両国橋開通式の祝事に披露されてきた。
 第二次世界大戦により中断したが,戦後有志相寄り,東京木場角乗保存会を設立し,昭和二十七年東京営林署貯木場に於て披露し,同年十一月三日東京都文化保存条令に基き,都技藝木場の角乗りとして無形文化財に指定された。

角乗の材料 角乗りに使用する木材(角材)は,その昔,モミ,ツガが使用されていた。モミ,ツガ材の入手が困難になり,外材の米マツが使用されている。角材の寸法は,長さ5メートル,30センチの角材で,角乗り専用につくってある。(といっても米国から輸入される米松角材(所謂米松大中角)の中,12インチ角材の長さを切るだけ)
 角乗りは真水と塩水とでは乗り方が違うといわれているが,河川などでは水の動きの少ない時,つまり小潮を選んで演技が行われる。以前は門前仲町黒船橋畔で,「海の日」に実演されたが,現在では木場公園の,そのために設けられているような広場中央の「堀」で海の記念日,或は都民の日など祝事の恒例行事となっている。

  b 角乗の種類

地乗り
 角乗りの技には大きく分けて十二種類前後もあるが,最初におこなわれるのは基本型ともいえる「地乗り」である。タメ竿といわれる竹竿をもって素足で角材に乗り,竿で調子をとりながら角材を回転させる。それが終ると角材の七分三分のところで逆立ちをする。
相乗り
 地乗りに次いでおこなわれるのが「相乗り」,二人一組で一本の角材に乗り,それが正面に向かって左右二組でおこなう。どちらか上手な人がリードするようになるが,二人の意気がぴったり合わないと角材がうまく回転しない。それが終ると二組の四人がそろって逆立ちをするが,初めと終りがそろわなければいけない。
駒下駄乗り
 「駒下駄(こまげた)乗り」は読んで字の如く駒下駄をはいて角材に乗る。
 下駄の歯がうまく角材にかからないと回転しない。「駒下駄乗り」がうまくこなせると「高下駄乗り」に移る。高下駄乗りは下駄の歯が高いだけにそれだけ難かしくなる。
カラカサ乗り
 「カラカサ乗り」は,タメ竿のかわりに番笠を持って角材に乗る。真ん中に出たところでカサをパッと開く。そしてカサをさしながら角材を回転させる。タメ竿を持っていないため安定が悪く,ちょっとした風でも影響される。
梯子乗り
 「梯子乗り」は角乗りの中でも呼びものの一つである。地上でおこなわれるトビ職の「梯子乗り」は,四方八方からトビ口で安定させるが,角乗りのそれは冂字形の土台が角材と梯子をつなぎ,わずかにタメ竿が土台の横から水面に浮かんでいる程度に過ぎない。これを安定させるのは,角材の両端に乗っている助演者が手している二本のタメ竿である。演技は三人が交互に行い,「つま八艘(はっそう)」「遠み」「八艘」「背亀(せがめ)」「腹亀」「腕だめ(腕だめし)」「吹き流し」「一文字」とすすみ,「膝とめ」「くもの巣がらみ」で終わる。
一本乗り
 「一本乗り」は,梯子乗りの代りに丸太を一本立て,丸太の上に竜頭(りゅうず)と呼ばれる手拭を輪結びにしてある。これは鐘の竜頭に似ているところからきた名前で,丸太はヒノキを使う。出演者は梯子乗りと同じように三人が交互に行うが,梯子と違って竜頭一つがたより。「猿の桃喰い」「一本背亀」「一本腹亀」,途中であぐらをかき,身体をそらして両手を広げる「だるま返し」,足を丸太にひっかけて身体をそらす「象の鼻」,頂上で足をぴんとのばして寝てみせる「邯鄲夢の手枕」,片足を竜頭の中に入れ,一方の足を丸太につけて身体をピンとのばす「鶯の谷のぞき」と,藝もなかなか細かい。
花かご乗り
 「花かご乗り」は,花で飾ったかごに人(昔は子供)を乗せ,かごを担ぎながら角材を回す。二人の間はかごでつながっており,相乗りとは違った意気が必要だ。本来ならころあいをみて,かごに乗っている子供がわざと水中に落ち,水中でお面をかぶって出てくる。からのかごは,先方と後方が反対になり「もどりかご」としゃれこむ。
三宝乗り
 「三宝乗り」は読んで字のごとく角材の上に三宝を乗せ,その上に乗る。三方は不正形に積み重ねてあり,しかも足駄をはいて乗る。タメ竿を持って立ったり,片足をあげて右手に扇子をひらく「義経八艘とび」,扇子をたてに口にくわえて,タメ竿を三宝の穴にさして逆立ちする「鶴の餌ひろい」,そして終りに,「獅子の子落とし」といって,足駄をぬぎ三宝をけとばして角材の上に飛び下りる。
かわせみ
 「かわせみ」は,子供を肩車して角材を回す。子供を肩に乗せているところが鳥の「かわせみ」に似ているため,この名がついたといわれる。演技のころあいをみて肩の子供はわざと水中に落ちる。そしてかねてふところに忍ばせておいたひよっとこの面を水中でかぶって出てくる。このところは花かご乗りと同じ。角材に引き上げられた子供は,ここで馬鹿踊りをやる。近年は,子供がいなく本来のものはおこなわれない。形だけのものになっている。
カエル乗り
 「カエル乗り」は,カエルのごとく四ッんばいになって両手両足で角材を回す。安定感はあるが,思うように回らない。
 そして最後に,角材の上を端から端まで飛びはねていく。このカエル乗りも技術がむづかしく,近年は見ることの出来ない角乗りの一つである。

  c 木場角乗保存会の現状

 保存会の会長は,初代が藤忠次郎,二代小安四郎を経て現在の会長は三代目川藤健次氏である。川並の親方であった先代の跡を襲っておられたが,現在は川並は廃業,地盤改良工事,商業施設の企画,設計等を主とする会社の会長である。
 現在,保存会の会員は30人,元川並は10人。現川並は1人,20歳代の会員は8人,女性の会員は3人,2人は高校生,その中の一人は奥様業の母親と一緒である。
 稽古は木場公園内の特設堀で(この堀は角乗り公開の為に設置されたようなものである)。
 毎週日曜日にやっている。1,2,12月は休む。
 無形文化財に指定とあって,公開当日の角材費,道具費は,東京都からの補助として80%負担してくれる。その他には木場の三団体,東京木材問屋協同組合,東京原木協同組合,東京製材協同組合が多額の寄附をしてくれていたが,三団体ともメンバーの減少,営業の縮小,不振からその寄付金額は往時の三分の一に減った。川藤会長は,生きている限りは続けてゆくと継承への強い意欲を見せるが,その一方三団体からの寄付がなければ継続は困難だとも語る。後述の「木遣り」と違って凡ゆる点で継承の困難がある。何といっても角乗りの基盤そのものが消滅したも同様であり,この技術を伝えてゆく環境も急速に変化しつつある。
 角乗りの修練には相当の努力を必要とするし,スポーツとして競技する面白味もない。
 公開されるのは年に一,二回である。この伝統の灯はいつまで灯し続けられるだろうか。

 角乗になくてはならぬものは「おはやし」である。「葛西ばやし」と称せられる,笛1人,鉦1人,大太鼓1人,小太鼓2人の5人一組で編成される。鉦は「ヨスケ」と称され,他の四人の演奏を助けるもので一番難しい。
 神田ばやし,砂町ばやしと称せられているものもすべて同じである。「角乗」は,乗り手,口上師(川並が演じる),おはやしが三位一体になってこそ初めてその真価が発揮されるのである。

2.木遣

  a 木遣の歴史

 木遣(きやり)は戦国時代から木材の伐出や築城の折,盛んにうたわれたといわれているが,木場の木遣がいつ頃から川並の間でうたわれるようになったか定かではない。
 木遣保存会によれば,慶長の初め,幕府の指示で伊勢に建築用材の水揚げのため,材木扱い衆として約50名が派遣されており,その辺が木遣の起源ではないか−としている。
 木場の木遣は,川並の日常の仕事の中から自然発生的に生まれたもので,特に保管の為の桟積作業の時などは必ずうたわれたものである。節まわしは同じでも決まった歌詞はなかった。極論すれば出たとこ勝負。道を歩いている若い女性をみれば木遣でひやかしたり,芝居ごころがあればその年の当り狂言をもちだすなど,木遣師によってそれぞれ呼び方が異った。
 大正の頃まで,木場の大店(おおだな)は暮れのうちに選木した材を正月二日より七日の七草までの間に木遣で水揚し,丸太の末口をその年の恵方(えほう)へ向けて店頭に飾り,年賀に訪れる山の手の材木屋に売り捌くのを新年の行事としたもの,と小安親方が書いている。古き良き時代の木場の正月風景が目に浮かぶ。

  b 木遣の種類

 木遣には,大木遣(おおきやり),大間(おおま),中間(ちゅうま),早間(はやま)がある。これはうたのテンポであり,引き上げる丸太の大きさによってテンポの緩急が異なる訳である。大木遣と中間木遣の一例を示せば次の通りである。

 一,大木遣
   呼び音頭  えええー乗ったあ,ようー
   受  け  やれえーよいよいええー
   呼  び  えーえーいさぎよく
   受  け  あヽやれー引きえーえー
   呼  び  てこええ
   受  け  えヽほー
   呼  び  二,三尺引いてくれえー
   受  け  あヽてこえーいえーさほんやぁれー

 一,中間木遣
   呼び音頭  そのつぎよー
   受  け  やあれ,きのはなよういヽよん
   呼  び  それりやそうのなりいよう
   受  け  ええ,しやくれよん

 木遣は,呼ぶ方を「木遣師」,あとの唱和を「受け」という。木遣師はかならずしも親方と限らず,川並の中の木遣の上手な人や声のよい人が選ばれた。川並はこうして木遣をうたいながら,毎日のように朝から晩まで材木を桟取りしたのである。
 現在は木遣りで桟取りするにも,その丸太が存在しない。木遣は「聞かせる木遣」にかわり,目出たい席でうたう以外は用がなくなった。しかし川並が昔からうたってきた木遣は専門的で分りにくい。しかも決まった文句がない。そのため木遣保存会では,現代にマッチした文句をつくり,目出たい席などでうたっている。
 新しい木遣は,大木遣で始まり,二段木遣,そして大木遣で終っている。それを記せば次の通りである。

  大木遣
   呼  び  エーエーエー ヤリヨー
   受  け  ヤーレェー ヨイヨイ エーエー
   呼  び  エーエーエー いさぎよーく
   受  け  アーヤレ ひき エーエー
   呼  び  テコエー
   受  け  エーホー
   呼  び  ご苦労ながら頼む
   受  け  ヤーレ テコーエーイ エーサホン ヤーレエー

  二段木遣
   呼  び  君が代は
   受  け  千代に八千代ー  
   呼  び  さざれ石の
   受  け  エー 巌と成りて
   呼  び  苔のむうす
   受  け  エーむうすまでー

   呼  び  目出た目出たのヨー
   受  け  若松様ヨー
   呼  び  栄えて
   受  け  エー 栄えて枝もヨー
   呼  び  エー 葉も
   受  け  葉も茂るヨー
   呼  び  峰の小松にヨー
   受  け  ひな鶴かけて
   呼  び  谷の流れで
   受  け  エー 亀あそぶヨー
   呼  び  エー 鶴と亀との
   受  け  舞い込みヨー
   呼  び  千秋萬歳のネー
   受  け  国も治まる目出たさヨー
   呼  び  亀のよわいの
   受  け  エー 萬々歳ヨー
   呼  び  エー つきせぬ御代こそ
   受  け  エー 目出度けれ

  大木遣
   呼  び  エーエーエー やりヨー
   受  け  ヤーレエー ヨイヨイ エーエー
   呼  び  エーエー いさぎよーく
   受  け  アーヤレ ひき エーエー
   呼  び  テコエー
   受  け  エーホー
   呼  び  目出たく治めましょう
   受  け  ヤーレ テコーエーイ エーサホン ヤーレエー

 君が代木遣は鳶の木遣にも同様の歌詞がある。鳶の木遣には文献も残っているのだが,木場の木遣には文献的なものは残っていない。

  c 木場木遣保存会の現状

 保存会が江東区の無形文化財に指定されたのは昭和55年(1980),東京都の無形文化財となったのは平成7年(1995)3月である。初代の会長は小安親方,二代目は現会長,元東京港筏(株)勤務の石橋昭宏氏(60歳)である。
 保存会が出きたのは昭和46年(1971),現在の会員は30人,古老6〜7人,20歳代の若手が7〜8人いる。稽古は毎週水曜日の夜,江東区木場二丁目町会会館で行っている。会は,響若(10人位,稽古歴10年以内),仲響会(10人位,10年〜15年),大響会(幹部会)の三グループに編成されており,幹部会員は重ね伴纏が許され,帯も異なる。東京都と江東区の補助は角乗と同様,僅かなものだが,角乗と大きく異なるのは,「お座敷」が月に数回掛かり,年間の「公演は50回位,10人一組で一回20万円位の御祝儀があることである。名古屋,大阪,遠くは北海道まで招かれることがあり,補助金なしでも,悠々やってゆける訳である。
 木場とか,丸太とかの背景が無くても,木遣はいわば「音曲」として独立した存在になりつつある。角乗のように実技を習練するのではなくて,唱う楽しみがある。若年層の参入もあり,風紀委員もいて,服装,髪型などにもやかましい程である。継続性,財政的基盤,組織性から云っても,その存続は当面心配される状態ではないと思われる。

 (次回,第七章「組」の変遷・あとがき)

 
石井赤太郎画


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