昔日閑話(第34話)
木場好人
深川木場(22)
(旦那方とスキー)
新春を迎え,材界の皆様,良き新年を迎えられたこととお喜び申し上げます。
さて新春,古くて新らしい思い出は無いかと,色々想い出をあれこれと,考えて居りましたが有りました。冬なので雪に因み,スキーの思い出。
昭和9年か10年頃,筆者が未だ兵隊検査を受ける前ですから19才か20才位の時,当時,原木を扱って居りました父の許で修業中,原木の御得意さんの“地挽き”やって居た旦那衆,大体今思うと40才過ぎの方々,筆者にしてみれば格の違う方々,御承知の様に本場で扱って居る製品は大方産地で挽いて来る“山挽き”,米材は原木と米松の大中角で,製品は輸入されて無かった,山挽に対して,木場の工場で製材して,東京及び関東一円向きの寸法に挽いて市場に出して居たのが“地挽”と云った。その大手の方々,大体思い出しますと,江間さん,中谷さん,駒形さん,山口さん,諏訪さん,山口さん,と錚々たる方々,我が店の御得意さんの皆さんで,私が三商時代からスキーを楽しんで居たので,父親から,皆さんがスキーと云う流行のスポーツをやってみたいとの御意向に,「家の倅に案内させよう」!!と云う事になって,筆者が御案内,手解きをする事になった。勿論初めての方々で,貸スキー,貸スキー靴の準備,宿,スキー場の選択など全部やらなければならない。土,日曜は混むので平日でも,何日でも良い方々なので,設備の良い,楽なスキー場をと考えて,“妙高スキー場”が良いホテルもあるし,費用の事は筆者の様に土曜,日曜,或いは“夜行列車”で経済的に考慮して行くのと違って予算,お構いなしなので“妙高高原ホテル”に予約,1月の中旬過ぎだと思った。確か旦那連中6,7人と小生,各スキーと大体の靴のサイズを想像して,スキー靴を借りた後にホテルに申し入れる。平日なのでホテルの方は万事OK,大体服装だけ申し合わせて上野から前日午後の列車で妙高に行く。ホテルも上客なので駅へ番頭が迎えに来ていてスムーズに宿へ着き,早速,スキーの板と「靴」を合わせて部屋へ行って,温泉へ入浴,食事は旦那連中の事とて,芸者を呼んで賑かに飲み始める。当方は年令も違うし,とても一緒に居られないので明朝の服装と朝食時間を固く約束して,一人小さな部屋で寝に就く。
翌朝,約束通り朝食,そして冬の格好をして玄関に出て,スキー靴から始まって,各々の身長に合わせたスキーの板,そして靴を板に「ビンデング」して各々ストックを持ってホテルの玄関からスキー場へ,と云っても玄関を出ればもうスキー場の一端である。これから“スキー”の「手解き」筆者がこの時許りは普段と立場が逆になり先ず雪の上の歩き方から始める。
最初は殆ど平地なので普通に稍重心を前に掛けて,ストックを突いて歩く練習,そして「上り坂」になると,スキーの両足を片仮名の“ハ”の字の逆に“ ”の字にして内側の脚に“力”を入れて雪を踏み締めてスキーの内側の“エッヂ”(角)で雪を押し付ける様にして一足,一足宛上に昇る。スキーの初歩の“歩き方”を教える。そして稍平地近い所で,“U”ターンして稍く滑降である。スキーを揃えて滑るとスピードが出過ぎて尻餅をつく,今度は上りと反対にスキーの尖端を着ける様にして,スキーの後部を開く,“ハ”の字形にして矢張り内側に力を入れて“制動”を掛けつつ辷る。ここで感心したのは,皆さん本場の堀で筏に乗ったり“バラシタ”(1本1本にした丸太)丸太に乗って居るので平衡バランスの取り方が,年に似合わずに上手にやったので,流石,重心の取り方が旨かった。然し雪面に凹凸があるし,スキーを揃えると案外スピードが出て,バランスが取り切れない。初心者には無理だけど,初めての経験,皆さん楽しそうに,転んでは立ち,滑っては転びを繰り返して童心に返った様に楽しんで居た。
筆者は程々に指導して昼食を雪小屋の“ロッヂ”でカレーなどで済まして,帰りの「上り列車」を決めて居いて,皆さんと別れ中腹まで登って途中から,最も雪の深い場所として有名だった。「関」「燕」温泉への谷を下る。深い谷で山の雪道から落ちたら一寸上れない深い雪だった。独りで下って,妙高の一駅先の“信越本線”“関山駅”から極めた列車に乗り,妙高から乗った皆さんと合流して上野駅へと,70年前の楽しかった,スキー旅行,先輩の皆さん方に喜ばれた。余事乍ら当時の旦那連中(新興会)の皆さんは昼間は製材工場の製材の指示,仕分け,結束など監督して,工場が終ると,軽快な当時流行の“セブラ”,自転車で仲町の「三和銀行」の駐輪場に車を置いて,永代通りを横切って扇屋呉服店のビルの横から仲町,仲町芸者の花柳界へ行き,行きつけの待合,小料理屋に馴染の芸者を呼んでの“夜の部”のお楽しみ,木場の材木屋の「儲」かった良き時代だった。古くて新らしかった,お話しまで。
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