東京木材問屋協同組合


文苑 随想

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「阪神大震災」10年目の回顧

青木行雄

 平成7年1月17日,朝6時頃,ニュースで関西の神戸近くに大地震が発生し,かなりの被災が発生した模様,と車中で聞き,すぐに大阪の友人に電話したら,かなりの揺れはあったが,こちらは大丈夫,との返事であった。すぐに神戸の友人に連絡を取ったが電話は,ツーツーの音ばかりである。被害はだんだん明らかになり,それから2週間以上たったある日,神戸の本人と電話で話をすることに成功した。そして,どうしても現況が見たいのと友人の見舞をしたかったので,震災から3週間以上たったある日,大阪の友人と共に再会の約束をとり,東京駅から新幹線に乗ることになった。

 下記は私の知人建築家の上村氏が1995年2月25・26日の2日間現地視察を致した報告レポートを記したものである。

 1995年1月17日午前5時46分,淡路島北東部を震源とする兵庫県南部地震(マグニチュード7.3)が阪神地区を中心に壊滅的な被害をもたらした。この地震は近代日本が遭遇した最大級の災害と同時に耐震工学が試されたのもはじめての事であった建物を支えていた地盤が建築構造物に甚大な被害をあたえたのか地震の驚異とツメ跡を検証する。

 兵庫県南部地(マグニチュード7.3)は5,200人以上の死者を出した戦後最大の震災は,建物や土木施設に総額10兆円以上の大きなダメージを与えたといわれる。
  金額的に最も多いのは,建築物の被害。11万棟近い建築物が倒壊あるいは損壊し,建築着工統計の単価から推計した原型復旧費用は,約5兆8,000億円にのぼるとみられた。又,土木施設の被害額はトータルで3兆円を超える。これは95年度の公共事業費の3分の1に当たる金額だ,鉄道関連では,500億円に近い補修費が必要な山陽新幹線をはじめ,JR・私鉄合わせて合計で3,530億円の復旧費がかかる見込みだった。
  道路では,3号神戸線が600m以上も倒壊した阪神高速道路の復旧に約5,000億円かかる見込み,又ライフライン関係では水道の復旧に520億円,下水道1,200億円,電気2,300億円,ガス1,900億円(2月1日に大阪ガスが発表した数字)の費用がかかる見込みだった,と記されている。莫大な金額である。
  上記は当時視察した時の予想金額であった。

 ジャンパーにリュックをしょい,作業靴で新幹線に乗りこんだ,今では考えられないが,当時はかなりの人が私と同じ姿を車中で見かける事が出来安心した。災害3日後の20日に運転再開した京都←→新大阪間,新幹線新大阪から神戸の元町までJR・私鉄又私鉄を乗り継ぎながら普通なら30分もかからない所を3時間以上かけて,たどりついた元町。大阪の友人の同行もあって早くたどりついたと思ったが,乗りかえ乗りかえの経路は大変で覚えていない。
  当日の4〜5日前,何がほしいかと神戸の彼に聞くと,水がほしいと言うので,大阪で持てるだけ買って持って行こうと思いながら当日連絡をとったら,2日前に水道が出るようになったから要らないと言う返事。
  当日,友人は我々の行くのを朝から首を長くして待っていた,と嬉し涙を流しての再会であった。
  再会一番先の言葉を再現すると,「うれしい」とにかく「うれしい」と連発した。今まで自分の結婚や子供の誕生・結婚等楽しい時もたくさんあったが,君達が来てくれた今日程うれしい事は外にないと心から言う言葉の裏には,恐怖と生命の危機にさらされた人間生死の瀬戸際を垣間見る思いであった。当時,彼は元町で5〜60人は入るラーメン店の店主で野球名のラーメン店では有名で阪神ラーメン名発祥店でもあった。そして,その時は1人暮らしであったが,彼は大変先祖思いで仏壇の供えに果物を絶やしたことがないと言う情の深い男である。その果実で3日間を過したと言う。4日目の朝に近くに炊出しがある話を聞き,その時始めて,生きのびられると言う実感がわいたとしみじみ話したのである。幸い住まいの方には大きな被害はなかったようだが,部屋は家具が散乱したままで,行った時には,何1つ手がかけられていなかった状態であった,柱の上を見ると時計が5時46分のまま止まっていた。
  あれから毎年1月17日,彼へ癒やしの電話をかけ続けている。

 あらためて記すと,10年目を迎えた阪神大震災は,正確に言うと6,433人もの貴い命が奪われた,そして,前記上村氏のレポートにも総額10兆円以上のダメージと記されているが,今までに復興事業費16兆3千億円もが費やされた。そして,街は着実によみがえり,被災地の人口も震災前を上回ったと記されている。
  だが,前記神戸の友人からは,「震災復興,再開発と年月は経過はして,ビル建築・道路・公園と見かけは復興したように見えるが,感激,感動がありません」との手紙もとどいた。
  このように一方で被災復興住宅の高齢者支援や地域のコミュニティーづくり,住宅再建をめぐる法整備などの課題も多く残されているようである。
  県内の復興住宅で,ひとり暮らしで亡くなった「独居死」が近年4〜5年で300人近くに達しており,60才以上が,75%を占め,ほとんどが誰にもみとられない「孤独死」だと聞くと,感激どころではない気持も,つたわって来る。

 2005年1月17日,午前11時45分から,神戸市中央区の県公館で「十周年追悼式典」が行われた。私もテレビを見ながら,あの日の事を思い出した。
  式典には天皇・皇后両陛下も初めてご出席,陛下は式典で「震災によって失われた多くの命を惜しみ,その死を決して無にすることのないよう,皆がさらに力を尽くしていくことを願います」と述べられる姿をテレビで拝見した。
  この日の天皇陛下のお言葉も記憶に残しておきたいと思い全文を記してみた。

 「本日,阪神・淡路大震災から十周年を迎えるに当たり,亡くなられた6,400余名の人々を悼み,改めて深い哀悼の意を表します。
  10年前の未明に起こった地震とそれに伴う火災の被害は誠に大きなものでした。震災地を訪ねましたが,街は痛々しく破壊され,訪れた長田区においては,がれきの中でいまだ行方のわからない人々の捜索が行われていました。家族を失い,家を失った人々の悲しみの姿が今も思い起こされます。被災地の人々はこの悲しみに耐え,けなげに励まし合い,助け合って,自己の生活を立て直し,さらに地域の復興へと力を尽くしてきました。
  被災後6年を経た平成13年,再び当地を訪問し,かつての被災地が緑のある街としてよみがえってきていることを誠に喜ばしく思いました。県民の努力をねぎらい,それを助けて来た行政関係者や全国から集まった大勢のボランティア,さらに外国からの協力に対し,ここに深く感謝の意を表します。
  この阪神・淡路の地域では震災の経験と,そこから得られた教訓を,広く人々に伝え,また,将来に活かしていくための様々な試みが進められてきました。国の内外において,地震の発生に備え,あるいは,災害から復興に当たり,兵庫県の経験に学び,それを受け入れる努力がなされていることは,誠に意義深いことと思います。また,近年,自然災害の発生に当たって,県や地域を越えたボランティアの交流が行われ,人々が,広くお互いに助け合う姿が定着してきていることを,心強く思います。
  震災から10年を経て,被災地においてもこの震災を経験しない人々の割合が増してきていると聞いています。私どもは震災の悲惨さを忘れず,我が国の,そして世界の人々の災害の実情を伝え,一人でも多くの命が不慮の災害から守られる安全性の高い社会を築いていかなければなりません。震災によって失われた多くの命を惜しみ,その死を決して無にすることのないよう,皆がさらに力を尽くしていくことを願い,追悼の言葉といたします」
「阪神・淡路大震災十周年追悼式典」より

 続いて下記のメッセージが「1・17宣言」として読み上げられた。この宣言もどうしても記しておきたい。

「1・17宣言」
1月17日は忘れない。   突然目の前が真っ暗になり
あちこちで真っ赤な炎があがっていた
叫び声が聞こえ
サイレンが鳴り響いていた
多くの人が貴い家族を失った

 
わたしたちは過信していた
科学技術を,近代都市を
わたしたちは忘れていた
  共に生きているということを
支えあうことの大切さを
皮肉にもそれを教えてくれたのが
あの震災だった

 
頼るべき家族がたおれ
自らも力尽きようとした時
手を差し伸べてくれたのは
地域の人々やボランティアの人々だった
手に持てるだけの物を持って
彼らは助けに来てくれた
  組織の思いでなく1人ひとりが
自分の思いで助けあった
子どもたちも自分の意志を持って
自分の責任で行動し,家族を支えていた
あのときのひたむきな人々の表情
人間のつながりの貴さを
わたしたちは決して忘れないだろう

 
あの日
海がさわぎ,山がないた
わたしたちが愛した風景
育ってきた環境は
一瞬で姿を変えた
しかし共に困難を乗り越え
10年にわたる復興を通して
この地に対する愛情は
より一層深まった

 
  震災から学んだ教訓は余りにも大きい
個人個人が持つ命あるものへの思い
わたしたちはかけがえのないものを代償に
身を持って痛感することができた
この思いを,その貴さを
地球上の人々に伝えなければならない
だから
1月17日は忘れない
 
   
   2005年1月17日
1・17人類の安全と共生を考える兵庫会議

この文面からひしひしと災害がおきてから経過の情況や人間の行動,人情や,ささえ合う人間の心情がつたわり,心がいたむ。

阪神大震災の主な被害
   1 人的被害  
  死  者 6,433人
  行方不明 3人
  負傷者 4万3,792人
  ピーク時の避難者 31万6,678人
  (兵庫県)  
   2 住宅被害  
  全   壊 10万4,906棟
  半   壊 14万4,274棟
  焼損床面積 83万4,663m2
   3 被害総額 9兆9,268億円
   4 復興事業の総事業費 16兆3,000億円
   5 義援金総額 1,793億円
   ※ 被害総額と義援金は兵庫県内  

震災から復興へ10年の経過
    平成7年 1. 17 午前5時46分 地震発生
  1. 20 新幹線「新大阪−京都」運転再開
  1. 22 政府「非常対策本部現地対策本部」設置
  2. 6 自衛隊による倒壊家屋解体処理開始
  3. 29 兵庫県内の下水道ほぼ復旧
  4. 8 新幹線「新大阪−姫路」81日ぶり運転再開
  4. 27 自衛隊全面撤退
  7. 21 中国自動車道復旧
    平成8年 4. 28 そごう神戸店,1年3ヶ月ぶり全面再開
    平成12年 1. 14 被災地の仮設住宅入居者ゼロに
    平成15年 8. 28 兵庫県「復興十年委員会」が発足
    平成16年 11. 1 神戸市の人口が152万581人となり震災前を超えた
    平成17年 1. 17 震災から10年

 厳冬の夜明け前,突き上げるような激震に襲われた「7. 1. 17」から10年がたった。そして神戸の人々は「がんばろうコウベ」を合言葉に復興に全力を注ぎ,ほぼ立ち直った。  自然の破壊力のものすごさを思い知らされた,だが世界各地でも次から次に地震が連発している。 1994年から2003年までに世界各地で発生したM6.0以上の地震は960回もあったとのこと,その内日本では220回を記録していると言うから日本は23%という高い確率でおきている。いつ我身にふりかかるか全く予想の出来ないこの地震,遭遇して見なければ分からない,真のおそろしさ。おきた時の処置,対処により自分,家族の人命にかかって来るのか,被害地を見て,自分の力ではどうにもならない,ある運命的なものをひしひしと感じる10年目の回顧であった。
平成17年1月3日 記
 
 
※無残にも焼けただれたアーケード商店街。西部劇に見る,焼き討ちにあった,町の残跡を思わせた。 ※あわれにも焼けはてた自動車の残骨,こんな光景はあちこちに見られた,だが友人の車は駐車場で20mぐらい移動していたが,キズもないと言う。近くの車どうしが一緒に動いたらしい。
※いたる所にこんな屋根の落ちた光景は沢山あった。 ※神戸港破壊後の姿,あわれな光景である。かなりの範囲にまたがっていた。

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