見たり,聞いたり,探ったり No.61
「矢切の渡し」の情景
青木行雄
「つれて逃げてよ ついておいでよ,‥‥‥‥‥‥ 矢切の渡し」と隣りの大部屋から聞こえて来た。どこかの団体さんの宴会なのであろうか,ここは柴又帝釈天近くの川魚料亭の大広間の一室である。
今日は帝釈天におまいりして,柴又でうなぎでも食して“渡し舟”でも乗り,普段のつかれを癒やしたいと思い,出かけて見ることになった。
京成柴又駅を出るとフーテンの寅さんの銅像がそっぽをむいてむかえてくれる。そこはもう柴又帝釈天と呼ばれる日蓮宗題経寺の参道であった。草団子や佃煮を商う店,昔からの食堂等が道の両側を埋め,東京の下町ならではの風情をただよわしている。人垣の中をそぞろ歩いて行くが実に楽しい。
帝釈天に安全祈願をして,食事をすることになったが,今日は奮発して,うなぎを参道の店ではなく,川岸の料亭ときめたが,予約なしの為,1時間30分待ちと言う。この間「矢切の渡し」に行き,先に船遊びをしようと出かけてみた。
帝釈天の裏手を通って江戸川の堤防に登った。河川敷には広場,グランド,駐車場などが配置されている。太陽の光をいっぱいに浴びながら運動する人や散歩する人でにぎわっていたが,中でも目を引いたのが,たこ上げである。ぐんぐん高くあがり,楽しそうにおよぐたこ,6連たこなど,小さい頃の事を思い出したり,寅さんの映画の世界をのぞいているような気がして心がはずむ。
河川敷の向こうに数本の木が葉を落して立っている。それが矢切の渡しの船着き場である。
ここから江戸川を東に渡ると千葉県松戸市下矢切である。昔は矢切村と言った。
「野菊の墓」では「僕の家というのは,松戸から二里ばかり下って,矢切の渡しを東へ渡り,小高い岡の上でやはり矢切村と云ってる所」とあるが,実際の位置関係は違う。松戸の中心部から矢切までは地続きである。読みも戦前までは「やぎり」ではなく「やきれ」と言ったようである。
江戸川は,中世まで「太井川」あるいは「太日川」と呼ばれ,利根川の本流であったと記されている。
江戸時代初期に銚子から関宿を経て行徳に至る船運路を開いたり,洪水の防止,新田の開発などのために徳川家康の命による上流の大改修が行われ,その後江戸市中に物資を運ぶ重要な内陸水運ルートとして「江戸川」と呼ばれるようになったと言う。
大正時代のころまでは,川岸に川魚を扱う料亭が数軒あり,多くの文人が訪れていたと言うが,今でも川魚を扱う料亭が1〜2軒あって,今に受け継がれているようである。
いろいろ能書きを記したが,堤防をおりて直進すると先程の落葉樹の木のある船着場についた。ちょっとたよりない木のさん橋から,船頭さんに100円手渡して乗った。
30年程前までは80円であったが,大宮デン助と言う喜劇役者が20円の釣りは面倒だろう,100円にしてしまえと言ったので料金を改定,それ以来30年100円を通していると言う。
又々少々能書きを記して見たい。
江戸川の渡船は江戸時代初期に始まった。当時,江戸の出入りには厳しい規制があって,幕府が架橋を認めない一方で,川岸に田畑を持つ農家は耕作のため,自由に行き来する権利が与えられていた。
1616年(元和2年)に,幕府が利根川水系河川の街道筋の重要地点15ヶ所を定船場として指定し,それ以外の地点での渡河を禁止していたと言う。その後時代は変わってこの渡し船は大切な交通手段となって行ったが,戦後,少しずつ姿を消して行った。
そして,東京都と千葉県の間を流れるこの江戸川を渡す,「矢切の渡し」ただ1ヶ所になってしまったのである。
また,もとの続きにもどります。この江戸川の幅は約150メートルあり,対岸にも「渡し場」という木を組んで作ったさん橋があった。
現在,使われている船の長さは,9メートルと言うことで,一度に32人乗れるそうである。船は手でこぐ,手こぎ船で,モーターもついているが,モーターで4〜5分,手こぎで8〜10分と言う所だろうか。
今日はモーターを使用した,休日なので客はけっこういる。両岸からほぼ同時に出船する,ほぼ満員の船は静かに水面を進んだ。両岸の木々の緑は冬のためうすいが,天気にめぐまれ,すみきった空,水面には,カモが楽しそうに泳いでいる。モーターなので遠回りをしたが,4〜5分で対岸についた。多い時は1日1000人の客を乗せるときもあるそうである。
対岸でおりると,「矢切の渡し」の石碑があった。1983年(昭和58年)石本美由起作詞,船村徹作曲,細川たかしの歌による「矢切の渡し」の大ヒットによって突如として脚光を浴びた,冒頭での宴会から流れて来た歌,「つれて逃げてよ,ついておいでよ」と,手に手を取っての駆け落ちをした悲恋の歌である。
「矢切の渡し」の船頭さんについて記してみよう。
船頭の杉浦正雄さん(3代目)は,大正12年生れで81才,川岸の農家に生まれた。父親は渡し船の船頭も兼ねていた。小学校を卒業後,仕事の合間には父親に従ってすでに櫓を漕いでいた。戦前は水上交通全盛期で,江戸川も醤油や味噌などを積んだ船がひっきりなしに通り,水上生活者も多かったと言う。
しかし,本格的に漕ぐようになったのは突然,父親が病で倒れたためだった。
時は終戦直後の混乱期,都内から買い出し客や衣類などを売る行商が,松戸からは野菜を売る農民らが船着き場に列を作っていたと,又「闇屋」と呼ばれる当時禁制品だったコメや肉を売る行商まで殺到したと回顧する。
早朝から夜遅くまで櫓を漕ぎ続けた。渡し船が最も意気さかんな時代だったのである。
渡し船は,昭和30〜40年代にかけて低迷期を迎える。
幕府の時代から時代が変わり明治末期には江戸川の上流から下流まで数えると渡し船も40近く数えたとあるが(前と数がちょっと違うが),橋が次々に架けられ,主要の交通手段を追われていった。
そんなこんなで,平日の運行を一時中止し別の職業の造園業に力をそそいだと言う。
しかし,渡し船に興味を持つ著名人もあって乗ってくれたと話す。特に永井荷風,山下清,等よく来たらしい。
記事が重複するところも多少出て来ますが,伊藤左千夫の小説「野菊の墓」や映画「男はつらいよ」などの作品で取り上げられ,さらに昭和51年,ちあきなおみが歌謡曲で歌い,「矢切の渡し」の知名度が急上昇した。
しかし,渡しを全国区にしたのは何んといっても前記細川たかしの歌の大ヒットだった。そうゆう訳で石碑まで出来たのであろう。
「毎日毎日お客が殺到し,遠方からバスで大挙しておしかけてくれた」こともあったと話す。
忙しさは終戦直後に匹敵するほど一時忙しさが回復したと言う。
モーターボートや水上バイク等の往来で,川の状況は大きく変化してきたが,昔をしのびながら,ゆっくりと,まわりの風景をながめ,ありし日の荷風や,なき寅さんを思い出し,心地よい冬風に身をまかせ,しばしの渡し船を楽しんだのである。
往復の渡しをおえて,川岸の料亭についたら,ちょうど1,30分の時間だった。会場に通されたら,和室の大広間にそれぞれのグループ膳が用意されており,食事中に冒頭の歌を聞く事になったのである。
川魚の膳を食し,遅い昼食をすませて,幸せな一日を過ごせたことに,帝釈天に感謝して柴又を後にした。
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