東京木材問屋協同組合


文苑 随想



ポナペ島 紀行

元(株)カクマル 役員
酒井利勝



1.ポナペ島
  平成16年12月,私達3人はポナペ島へ渡った。敢てポナペ島と呼ばせて頂くが,今はポナペ島などといっても知る人は少ないだろう。日本が太平洋戦争へ突入する少し前,南進論がもてはやされた頃の巷の歌には「北はマリヤナ 南はポナペ…」という歌詞を持った歌謡曲もあったのである。

 今はポンペイ島という。ポナペとは現地語のpohnとpehiが合わさったもので「石を高く積み上げる」の意味。独立国家ミクロネシヤ連邦を構成する四つの州の首都パリキルがあり,ミクロネシヤ諸島中第三の広さを持つ島だ。連邦は西からヤップ州,チューク(昔のトラック諸島)州,ポンペイ州,コスラエ州からなる。国土面積700平方km,人口105,000人。
  スペイン領,ドイツ領を経て戦前は日本の委任統治地,第二次世界大戦後1947年アメリカの信託統治下となり,79年ミクロネシヤ連邦建国,初代大統領はチューク州の日系二世中山トシオ。1986年独立して国連加盟。

 ポンペイ島の位置は,殆ど赤道直下だ。北緯6度54分,東経158度14分。フィリッピンのマニラとハワイのホノルルのほぼ中間に位し,グァム島の東南東1,600km。面積は約330平方km,淡路島(593平方km)の三分の二,琵琶湖(671平方km)の約半分でもある。1994年の調査でポンペイ本島の人口は31,572人,20歳未満の人口は55%と多い。1941年大平洋戦争勃発当時の島の人口約19,500人の内,地元民約5,600人以外は日本人(一部韓国人)で占められていたという。
  ほぼ円形のポンペイ本島の直径は約21km。約3kmの沖合には珊瑚礁が島を取り囲むように堡礁となって静かな礁湖を形成している。島の周辺はマングローヴ林が厚く発達していて,本島には白砂の砂浜はない。
  隆起火山島で,中央部には500m級の山々が連なり,最高は島のほぼ眞ん中にあるナナラウト山(790m)である。深い谷を形成し,至るところに玄武岩の巨岩,奇岩が顔をのぞかせている。豊富な雨のおかげで無数の熱帯植物が自生する。
  雨は中心街コロニヤで平均4,800m/m−5,000m/m,中央部の山岳地帯では10,000m/mを超え,世界有数の多雨地だ。極端な雨期,乾期の区別はなく,気温は年間を通して26度〜27度である。豊かな風土と穏やかな気候に育くまれて,温和で敬虔な島の人々がこの自然を守ってきた。
  ポンペイ本島は,ミクロネシヤ連邦の「花の楽園」と呼ばれている。

2.ポナペ島と(株)カクマル
  昭和18年(1943)の前半,私はカクマルの駐在員として半年をポナペ島に過した。
  島には桐にそっくりの材質を持ち,丸太の径も外見も桐に類似している南洋桐(
島ではトン丸太と呼ぶ)が多量に生育していた。下駄材としてカクマル他一社が不定期貨物船によって輸入(移入?)しており,その集材と積出の為3人の社員が常駐していたのである。
  既に戦中であったが,横浜港高島桟橋からサイパン,ポナペを往復する定期船山城丸はスケジュール通りに運航されていた。サイパン島へ寄港,ポナペ島に入港する十日間の船旅は快適だった。然し最も若い乗客として,対潜見張要員の一人として動員され,航海中二回,半日ずつマストの天辺近くの見張台に立って敵潜水艦の航跡を監視する役だけは楽なものではなかった。
  既にカクマルの,南洋桐を積んで内地へ向った貨物船松南丸は,魚雷を受けて航行不能に陥り,辛うじてサイパン島に辿りついて碇泊していた。その被害状況を調査すべく,本船のサイパン碇泊中に,松南丸に乗りこむという附帯業務もあったのである。
  山城丸は何事もなく,予定通りポナペ島コロニヤ港に到着した。以後半年の,比較的ゆったりしたテンポの丸太積出業務が続いた。
  大平洋戦争の最前線とも云うべき島ではあったが,それ程戦時下を強く意識させられることもなかった。
  民間人による対空監視哨というような組織はあって,そこでは若い島民(土人)とグループになって半夜乃至徹夜の監視に当ったりもした。島民の好青年と親しくなって部落へ招待され,豚の丸焼きや,パンの実の餅などを御馳走になったのも楽しい思い出だ。
 
  山へは,時々南洋桐の調査の為ジャングルへ入った。腰に帯びた山刀で下草を切り払いながら山中を抜捗するのである。伐採された丸太は藪出しのあと海岸までトラックで運び,礁湖内の貯木場へ浮かべ,筏にして本船が入ったら船側まで曵航する。

 貯木場の向うの離島には,海軍の通信施設もあったが,在島半年の間,空襲は一回もなかった。だが戦局は日を逐うて緊迫していった。4月18日,山本司令長官機がブーゲンビル島上空で撃墜された。現地眞近くで聞くその衝撃は強烈だった。
  半歳を経た昭和18年6月,往路と同じ定期船山城丸で帰国する時の船内の空気は,往航の平穏な気配とは一変していた。
  船室は決まっていても夜は室内へ寝るのは危険ということで,船客は皆デッキに出て,救命胴衣を枕にゴロ寝した。トラック島の夏島(連合艦隊の主要基地だった)に,船団を組むため一週間待機,無事内地へ帰還した。
  だが,定期船山城丸は私が下船した次のポナペ島への往航であえなく撃沈されたのである。

3.60年後のポナペ島
  グァム島をはじめとして,サイパン島までは多くのツアーが組まれ,ガイドブックにも或る程度載っている。だが,ポナペ島(ポンペイ島)となるとまずは見当らない。私にとっては思い出深い島だがツアーは全く組まれていないので,小旅行社を通じて個々に当るしかない。
  ポナペ島へ渡るのは週二便しかない。成田からグァム島へ飛び,コンチネンタル航空の定期便に乗り換えて,チューク島(昔のトラック諸島)空港に寄港,そしてやっとポンペイ空港に到着する。
  成田空港発20時45分。ポンペイ空港着は翌日の12時50分。実際の飛行時間は7時間くらいだが,何しろグァムでの待時間が長過ぎる。往復とも同じようなものだ。グァム空港着は深夜なので空港外にも出られない。
  ポンペイ空港では,流石に降りる人も多く,多少賑やかな出迎えもある。やヽ色は黒いが却々美人の島の娘さん達が,ブーゲンビリアの花で編んだ花の冠を頭上にかぶせて呉れる。ほのかに甘い香りが漂い,到頭ポナペへやってきたとの感を深くする。空港ビルなどはなく,JRのローカル線の駅舎のような建物が一棟あるだけだ。
  依頼しておいたガイドさんが迎えてくれた。
  山田さん。27−8歳の好青年,3日間の宿泊先であるザ・ビレッジホテル所属。数年前2年の契約でNGOによる高校教師として来島,ポナペが大好きになってそのまヽ島に居つき,今ではザ・ビレッジホテルで働いている。
 
  まずは,空港から車で約15分,小高い丘の中腹に展開するホテルに落ち着いて少し遅い昼食,山田さんと三日間のスケジュールを打ち合わせる。まずは旧市街コロニヤ,そして島内一周,最後に,主としてナン・マドール遺跡ということである。

 コロニヤ市街
  コロニヤは,かつて(60年前の在島当時も)南洋庁ポナペ支庁が置かれ,空港などは無かった当時,内地との窓口として多数の内地人が住み,賑やかな町だった。月二回定期船が入港する日は,港周辺はお祭り騒ぎだった。現在でもポンペイ島だけでなく,ミクロネシヤ連邦全体の政治,経済,文化の中心地であり,銀行,警察,病院,マーケット,レストランが集中する。そしてスペイン,ドイツ,日本,アメリカの統治を受けた歴史的名残りがいたる所に見られる。
  とは,いってもコロニヤ市街はもともと海岸に沿って一筋のメインストリートといっても幅10mくらいの道路が一本通るだけであった。懐かしいその街は僅かに道路が広がったと思へる程度で,殆ど何も変っていないといってもよい程だった。現在では産業らしい産業も持たず,漁業と,観光資源があるだけの町がそんなに発展する筈もない。それにしても60年前と家並が余り変らないのには驚いた。ポナペ島では,やはり時間が止まっているのだろうか。少なくとも昔はもっと活気があった。南洋興発(株)という拓務省傘下の準国策会社があり,それが島の開発,興産プランの中核を担っていた。
  砂糖の生産,砂糖黍からアルコールの醸造,鯉節の製造,そして私達のトン丸太伐採と簡易製材,等々,当時のポナペ島は現在のポンペイ島より遥に「産業」を持ち,活発に動いていたのである。

 メインストリートに面して,小さな資料館があり,先史時代から太平洋戦争までの数々の遺品,島の伝統的文化を伝える品々が展示されている。その対い側にはカヌー陳列館もあり,それぞれ型の異なる大小さまざまのカヌーが陳列されていて,カヌーこそが島の唯一の交通手段であったことを窺わせる。資料館のすぐ傍らには,なんと太平洋戦争当時の赤錆びた小さな日本軍の戦車が露天に陳列されている。こんなもので予想される上陸軍に対抗する心算だったのかと呆れるほどの玩具のような戦車である。
  メインストリートの北端には,スペイン砦とスペイン総督府のあった広場があり,その奥に1907年に建てられたドイツのカトリック教会の鐘楼もある。日本の統治時代を偲ばせる仏像等も広場には安置されており,小学校も広場の一角に建っていて芝生が広がり,歴史的ムードの漂う小公園でもある。

 バナナだけ,魚だけを賣る小さな店を連ねた長屋の棟が並び,その一方,日本関連のあらゆる日用品,食料品を賣っている中規模のコンビニもあることはある。そしてそうした,謂はば商店街の店の一角に日本の大使館が置かれてあった。

 島内めぐり
  宿泊先のザ・ビレッジホテルからの四輪駆動車で,ガイドの山田さん,ドライバー,一行五人で島内を回った。一周80kmだが南部の一部地域が舗装されていないのには驚いた。60年も経っているのに。道路は結構起伏があり,土砂降りの雨が降ると,道路は川のようになって修復してもすぐ流されてしまい,岩が露出してもとのガタガタ道に戻ってしまう。ということで未舗装道路がある所以だ。何しろ人口10万の国だからどこかの国と違って豊富な道路予算がある筈もない。

 
  島の中央を山脈が走り,800m級の山が4つもある所だから滝はたくさんある。滝の多さはポンペイの豊かさと神秘をそのまま表現しているといえるだろう。その中でも代表的な滝二つ。ナンピルとケプロイを観光する。
  ナンピル コロニヤから南西へ車で20分,入場料1$,上下二段になっている二子の滝だ。滝の高さはそれぞれ10m,30mくらい離れて二段になって落ちる。共に滝壷近くまで行けるが足場が悪くて一苦労だ。木立に包まれて二つの滝は同時には眺め得ない。
  ケプロイ 更に南東へ約60分,ポンペイで最も人気のある滝だ。高さ20m,幅30m,小山の全面から水が流れ落ちている感じで,水量豊かな滝の間からは,いたるところにごつごつした四角い玄武岩が顔をのぞかせ,神秘的な表情を見せているのはユニークな壮観だ。

 遺跡 ポーントラップ
  島のどこからでも目につくポンペイのソケース・ロック。それはハワイのオアフ島でいえばダイヤモンド・ピークに相当する存在だ。1943年当時はジョカージ岩と呼ばれていた。ジョカージと呼ばれる酋長があたり一帯を根據地としていたという。現在でもジョカージ岩の呼称は結構通用している。その背後にそびえるのがソケース・マウンテンだ。その頂上に至るまでの間に広い台地がある。ポンペイ語で「ポーントラップ」と呼ばれる台地だ。山のふもとから始まる幅約4mのJAPANESE BATTERY ROAD(砲隊列の道)と呼ばれる道が残っている。程よい勾配の道は熱帯の草木に掩はれて,名も知らぬ花々が咲いている。途中二ケ所ほど眺望の開ける場所がある。コロニヤの町,空港,環礁内の珊瑚礁,沖合の堡礁,大海原まで一望できる。台地に旧日本軍はあらゆる施設を築いた。現在はそのまま打ち棄てられた状態で,ジャングルの奥に静かに眠っている。半地下の広いトーチカ,貯水タンク,巨大なサーチライトの台座,127ミリの対空砲など多くの戦跡が散在している。
  人為的な破壊を免れて,特に二基の対空砲は今でも手入さえすれば使用可能ではないかと思われるほどだ。太平洋戦争中,唯一撃墜された米軍機は,この高射砲からの砲撃に依るものだった。草木に掩はれながらも中空を仰ぐ高射砲は今なお昂然としてさえいた。
  観光地点としての人手が全く加えられておらず,それだけに生々しい。

 木彫の村(カピンガマランギ村)
  コロニヤの町の西端,周りをハイビスカスの垣根で囲んだ家々が並ぶ一角がある。ポンペイ本島から遠く離れたカピンガマランギ島から移り住んできた人々の生活する一角だ。垣根で家を囲うという風習はもともとポンペイ本島には無く,彼らが持ちこんだものといわれる。
  彼らはここで木彫りの工藝品やタペストリー,アクセサリーなどを造って暮らしている。
  人気は木彫りのサメやマンタだが他にも椰子の繊維で編み,小さな貝をあしらった籠やタペストリーなど。作業現場の間を縫って木工製品の製作過程を拝見,サメ,マンタは大小さまざま,大変美しい木肌に仕上げて形も見事な出来だ。ポンペイ島の特産品,香りと風味豊かなポンペイペッパーと共に主要な土産品となっている。

 首都 パリキル(PALIKIR)
  中心街コロニヤから南西へ約10km,小高い丘の上に南国風のモダーンな建物が並ぶ。椰子樹をあしらった,広い庭園とも称し得る地域に,国会議事堂,大統領府,最高裁判所,各州政府等が入っている三階建ての堂々たる建物群である。高原に忽然と近代建築の官衙が出現したような感じだ。ミクロネシヤ連邦の首都パリキルである。私の在島当時(1943年)は春来村と呼んでいた農業地帯だった。
  カクマルの農場もあった。シトロネラ・グラスという,香料の原料となる植物を栽培していたのである。
  隣接するといってもよい程の地点には,これもモダーンな三棟,三階建の学校校舎が立ち並ぶ。ミクロネシヤ連邦大学だ。学生1,000人と云う。「新興」ミクロネシヤ連邦の意気込みを象徴するかのようなめざましい風景に一驚した。コロニヤ旧市街では,時が止まっていたと既に記した。ここでは脈々と現代の息吹きが伝わって来る。
  そして更に驚いたことは,国会議事堂から僅か離れた地域に四階建て黄色い壁の,かなり大きく眞新しい建物が,存在を誇示するように立っており,それが中国大使館だったことである。中国人が,ミクロネシヤ連邦或はポンペイ本島にそんなに多勢居住しているとは到底思われない。日本の公館はコロニヤ旧市街の一角,日本でいえば町中の小郵便局のようなおそまつなものだった。現在のポンペイ本島の邦人は100余名と伝えられるが,かつて南洋委任統治地としてポナペ支庁がコロニヤ市街にあった時,太平洋戦争中もポンペイ在留の日本人は10,000人と称された。
  そのポンペイ本島で,中国大使館と日本公館の建物の,余りにも激しい落差に私は愕然とした。南太平洋を視野に入れる中国の遠大な意図は鮮明であり,日本のそれは余りにも近視眼的で見すぼらしかった。

 ナン・マドールへの途
  ザ・ビレッジホテルの船溜りからヤマハ製のモーターボートが出る。8人乗り位だろうか。ガイドの山田さん,ドライバー,そして私達三人。礁湖の浅い所,砂の上,ナンマドールの水没箇所,それらを歩けるように各自が準備している。私は娘からビーチサンダルを借りてきたが,K君が富岡八幡のお祭りに穿く白い地下足袋だったのはお見事なアイデアだった。
  ナンマドールへは,島を一周する道路をコロニヤ市街から南下して,海岸から僅かな距離を島へ渡る方法もあるが,海岸近い珊瑚礁を大きく迂回するので時間は要するものの,モーターボートでゆく方が遥かに便利且つ快適だ。きれいな水だが殆ど黒に近いほど青い海をボートは快速で走る。ポンペイ本島を大きく囲む環礁に打ち寄せる南太平洋の大波は高くしぶきを挙げ,それは蜒々と島をめぐって連なり,恰も白い万里の長城を形造っているかのようだ。環礁の内側は所謂「礁湖」で澄んだ海が続き,そこと,5,6箇所ある環礁の切れ目,外海との連絡路とが絶好のダイバーポイントになっている。
  環礁の白い高波を望んで疾走するボートの中で,私は出発前夜まで読んだ『コンチキ号漂流記』を頻りに思った。
  主題から大きく迂回することになるので申訳ないが,以下その「漂流記」を概観させて頂く。

 コンチキ号漂流記
  南太平洋のタヒチ島やマーケサス諸島にも,イースター島のものとよく似た石像が残っている。
  そして不思議にも,これらの遺物は南アメリカ大陸にあるインカ遺跡の石像やピラミッドと,大変似通っているのである。
  「南太平洋の島々の遺物とインカの遺物とは,何らかの関係がありそうだ。」スウェーデンの人類学者,ハイエルダールは,こう考えた。南太平洋の島には,祖先は,遠い昔に大きな陸から渡ってきたという伝説があるのである。
  ハイエルダールが,インカ遺跡のペルーに行ってみると,筏にもってこいのバルサという木があった。
  「この木で筏を組み,海を渡ったに違いない。」
  ハイエルダールは,この仮説を証明するために,筏で大海に乗り出した。「コンチキ号漂流記」は,その貴重な記録なのである。
  トール・ハイエルダール。1914年ノルウェー生れ,オスロー大学教授,1947年 コンチキ号で実験を試みた,5人の協力者がいた。筏の全長は15m,横幅7.5m,その上の小屋は割り竹を編み,屋根はバナナの葉で葺いた。甲板にも割り竹を敷きつめ,二本のマストとかじは鉄より固いマングローヴの木で造った。

 これはインカ人が,その前から南米に住んでいた白人から習った筏と全く同じ構造である。コンチキが部下を率いて大海へ乗り出したのは,これと同じ筏だったのだ。
  筏は“コンチキ号”と名づけられた。
  四か月分の食糧はボール箱に詰めた。950rの飲料水も56箇の罐に入れた。
  南太平洋への生命懸けの大冒険である。
  危機は何回も訪れた。暴風と怒濤が一昼夜続く。強風と急流のために暗礁の上へ吸ひ寄せられるのを細心の注意を払って防がねばならない。暗礁に衝突したら筏はひとたまりもなくばらばらにされてしまう。まして海水を吸いこんでぶかぶかになっているバルサの丸太の筏だ。
  筆舌に尽くし難い,何回も死を覚悟した航海は4月28日から8月7日まで,実に102日を経過した。そして最後に暴風雨の夜,タヒチ島に近いラロイヤ島近くの暗礁へ乗り上げ,島民127人によって救われた。幾日かの後フランスの政府が派遣したスクーナー(4本マストの帆船)に依って,まだ修繕しきれないままのコンチキ号と共に収容された。タヒチ島では英雄的歓迎を受けた。
  遠い日,私はヘミングウェイの「老人と海」に感動した。それは,ひとりの老人と大魚との数日にわたる死闘の繰り返し,一箇の人間の勇気と尊厳をギリギリの線まで追求した名作だった。
  「コンチキ号漂流記」は,6人の男性による,南太平洋102日の,学術探検の為の,生命懸けの大冒険だった。老人と海とは次元を異にする,(フィクションとノンフィクションの差もある)人間の偉大さを謳い上げた実録だった。

 無人島にて
  ナン・マドール遺跡へゆく前に,その少し手前にある無人島へ寄る。ポンペイ本島はマングローヴ林にかこまれて殆ど白砂の海岸がないが,この島にはかなり長い白砂の渚がある。胴を赤く塗って,スマートで瀟洒な私達のモーターボートは,その渚へ乗り上げる形で島へ上陸する。無人島といっても所有主はあって,あとで「入島料」を払うのだそうだ。
  20mほど入れば,もはやそこは明るい熱帯林で椰子の樹は高い梢を海へ張り出している。
  ここで昼食を頂く段取りである。ホテルで造って貰った,大きなバナナの葉にくるんだお握りと肉の煮付けが美味しい。ビールもある。
  私達一行5人のほかは誰の影もない。かなり近くなったリーフ(環礁)に寄せる波が時に轟々たる音を響かせてくる。背後にはポンペイ本島の山々が近くそびえ立っている。低く,平らな離島が二つ見え,その向うに遠く堡礁の高波がしぶきをあげている。眞っ青な空,白砂,椰子,足下の透明な海,風は絶えて渚へ寄せるさざ波の音さえ聞えない。燦々たる太陽のもとで時は止まっている。
  又してもコンチキ号のことを思う。それが頭を去ると,あとは身体中が青く透き通って南太平洋の潮に漂よっているような感じになってくる。浮世のことはさらりと忘れた。私がかつて味わったことのない澄明な時間であった。
  小憩のあと明るい熱帯林へ入ってみる。ドライバーが小供の頭ほどの青い椰子の実を落して懸命に厚い皮を剥いてくれていた。昔,この島の山中踏査の時飲んだ椰子の実の中の果汁(ウープと呼ぶ)のおいしさを,私がボートの中で語ったのを聞いていて,ドライバーが再び味わせて呉れるというのである。実が少し若かったのか甘酸っぱい,サイダーに似た果汁は,やヽ酸味が濃かったが矢張り爽やかな味だった。実の内側にあるクリーム状の乳白色の果肉も少し固く,かつての甘い軟かさに欠けた。然し六十年振りのポナペ山中の,椰子の実の懐しい味を,ドライバーのご親切と共にしみじみと啜ったのだった。

ナン・マドール 遺跡
―ミクロネシヤ群島最大の遺跡―

1.ナン・マドールとは何だったのか
  ポンペイ島の南東部,隣接するチャムエン島との浅瀬に玄武岩と珊瑚で築かれた92の人工島がある。北東から南西へ延びる約70haの長方形のエリア。約1,200m×600m。丘陵を背に,周囲を浅瀬に固く守られ,外洋からの入口はただ一つ。
  これがナン・マドールの遺跡である。島々の間を水路がめぐり,サウテロール王朝の時代にはカヌーが行き交した水上都市だった。

 ナン・マドールの建造は西暦500年前後から始まったとされている。サウテロール王朝は1000年〜1600年頃まで続いたという。
  92の島々の多くは,まず浅瀬に水面から1〜2mの高さに玄武岩で外囲りを造る。その中に珊瑚を敷きつめて平らにし,大きいもので100m四方の島々としている。
  昔は,この平らな島の上にマングローヴやパンの木を柱に,椰子やパンタナスの葉を屋根とした木造家屋が建っていたものと推測される。
  さらに墓地や儀式用の重要な島では,五角又は六角の玄武岩柱を校倉造りのように「井桁」を組んで外壁を造った。最も象徴的な島「ナン・ドーワス」では高さ8mほどまで組み上げている。
  ナン・マドールとは「一大埋立事業による,海上に築かれた宮殿+葬祭場+高位者の墓地」みたいな複合施設だったらしい。都市としての機能は不明だ。発掘調査によると「石造りの島」の建造は,西暦500年代に始まり,1,500年代まで続いたと推定されている。

2.ナン・ドーナス島
  ナン・マドールの中では最も象徴的な島,ナン.ドーワスとは「首領の口の中」を意味し,代々のサウテロール王及び初期の酋長ナンマルキの墓がある。また精霊ナニソーンサップへの祈りの場所であり,審判の場であり,最後の避難場所としての要塞の役割を持つ重要な島。推定年代1,100年後期,内外壁二重構造で外壁は高さ8m,外寸は64m×54m,中央にある石室は6m×7m,高さ約1m。

3.ナン・マドールへのアプローチ
  無人島の椰子の大樹の下で,白砂に坐して時には静かに寄せる波と戯れつヽかなりの時が流れたように思えた。
  ボートはナン・マドール遺跡に向うべく白浜を離れた。
  再び青く透明な海の上を20分ほど走ったろうか。点々と小島が見えてきた。珊瑚礁の海は折からの干潮でいよいよ浅く,スクリュウがつかえるので,もはやその小島の群れを目指してボートを曵っ張るしかない。ガイドの山田さんとドライバー二人は降り立ってボートを曵き出した。浅い珊瑚礁の上を踏んでゆく。私達三人は申訳ないような気持になりながら空しくボート内に坐しているしかない。
  深いところで腰までくらいの,底まで透き通った海が続く。
  およそ20分くらい曵っ張って貰ったことだろうか。半裸体の山田さん達の背中に汗が光っている。
  ボートは小さい島々,海藻等をかきわけるようにしてナン・ドワース島に接岸した。小規模ながら舟着き場ができている。低い石段を踏んでいよいよ上陸だ。

 私達5人の他には誰もいない。強く,静かな日射しの下に水も殆ど動きを止めて眠っている。数段を上ると幅5mほどの,敷石の道が坦々と続く。それが一段と低まると祈りの場所である広い石室へ連なる。島の周辺は玄武岩を校倉造り状に重ねて高さ4mほどの,いはば城壁を形造っている。

 まずはその城壁に沿って島を一周,南東の角が望樓の役割を果していたものの如く遺跡中の最高点を形造っている。高さ8m,どこから上るとしても中ほどから下はかなり崩れている。
  一瞬躊躇した。珊瑚礁の海を歩くというのでこの日はビーチサンダルを穿いてきた。崩れた玄武岩の積み石を上るにはいかにも足もとが悪い。踏み外して転落すれば死なないまでもある程度の怪我は避けられない。緊張してよじ登った。若いガイドの山田さんが手をさしのべてくれた場面もあった。
  ナン・マドールの最高点に立つ。92の人工島は悉くといってもよい程点々と連なって見える。遠くのリーフには例の白波が白く高く輝やいている。澄んだ海の水が海中の灌木を浸して遠くまで続く。
  再び,三度,又してもコンチキ号とハイエルダールを思った。彼ら6人は,此の海を,このリーフの大波を,102日間も筏で渡ってきたのだ。
  そしてこのナン・マドール,主島ナン・ドーワスは何だろう。建造の技術はどこに由来するのだろう。イースター島の巨石像とは全く趣きを異にする建造物なのである。

 降りる時は,降り易そうな場所を探したせいもあったが,それ程の緊張はなく降りられた。再び石壘を半周して船着き場に戻る。潮が退いていてボートは直ぐには出られない。船着き場の石に腰を下ろして小一時間潮待ちしていた。先刻の,あの無人島の白い砂浜で味わった静かさが,今度は船着き場の石段の下,対岸の小島の熱帯林を前にして再び戻ってきた。何もせずに,漠として,時にナン・マドールの伝説等を思いながら,千年前の人工島の間の,小さな運河を前にして瞑想している時間は至福の時だったかと思う。
  潮が上げてきて,なお暫くの間は入ってきた時と同じように二人がボートを曵っ張ってくれた。
  ミスター・サカイの年齢で,ナン・マドールのトップへ上ったひとは,かつて無かったし,今後もないだろうとガイドの山田さんが誉めてくれた。

 ザ・ビレッジホテル
  ポナペを愛するアメリカ人建築家のアーサー夫妻が,現地の資材とポナペ式建築法で造ったホテル。海岸からゆるく登る林の中に26のコテージが散在する。どの部屋からもポンペイの美しい海と珊瑚礁を眺めることが出来る。パンダナス(バナナの葉に似ている)の屋根,柱も壁も床もすべて島の樹だ。大型のウォーターベッド,天井から垂れ下がる白く,まるい蚊帳に入ると,アラビアンナイトの王子様になったような気分になる。
  ビクトリヤ風の木製家具,天井に取りつけられた木製の民俗調扇風機も悪くない。 何しろ年間を通じて26〜27度,朝晩はそれ以下という島の気温だから空調の必要は全くない。部屋の窓にはガラスがなくて網戸が入っているだけだ。天井の両端から見える破風の隙間から青い空がのぞいている。つまり外の空気と全く同じ空間にいる訳だ。
  虫は結構入ってくる。シャワー室の傍の洗面台は一晩中灯しているから朝になると大きな蛾が二,三匹いたりする。机の上にも朝になると小さい虫は少くない。
  私のコテージからは,有難いことに,60年前のポナペ滞在中の印象を忘れ得ないジョカージ岩(現在はソケースロックと呼ばれている)の断崖がいつも遠望できた。
  私達3人で二つのコテージ。K君とT君が譲ってくれた御蔭で,私はひとりのコテージ暮らしを満喫できた。

 食事は散在するコテージの間の細い山径を下って5,6分くらいの所にあるレストランへゆく。三方へ海へ向って開くレストランの眺望は素敵だ。夜は径のところどころに点在するスポットの照明がたよりだ。樹々の梢越しに仰ぐ,降るような星が美しい。オリオンが東の空に低く,そのはてに全天第一の光をもつシリウス星が驚くほど明るく輝く。
  料理はフランススタイルだが結構おいしかった。鮪の刺身は,昔,私が在島していた頃から既に,そして現在もポンペイ語になっている。レモンを掛けて喰べるやヽ淡白な味のマグロは却々いける。
  ポンペイには,ザ・ビレッジの他に洋風ホテルが五つある。然し全く大自然の中で寝起きするような雰囲気を持つザ・ビレッジに三泊したのはほんとに幸せだった。もし再びポンペイ島を訪うとすれば,私はためらうことなくザ・ビレッジを選ぶだろう。
  レストランから更に樹間の坂を5分ほど下ると,島には珍らしい白い砂浜に出る。短いながらプライヴェートビーチだ。海中を沖へ向って遠くまで歩いてゆける珊瑚礁の透明な海だ。遠く環礁に打ち寄せる白い高波が見える。

 終りに
  ポンペイ本島への,私の,60年振りの訪問の旅は3泊4日で終った。「ノスタルヂァ」にも似た思いのあるポナペ(現在の呼称ポンペイなどというのは私にとって全くよその国のような響きだ。)へはどうしても行きたかった。その思いをカクマルの,若い仕事仲間だったK君に,一杯やりながら語ったことがあった。そしてその話の6,7年あと,私も行くからとて,遂にK君が旅行社の友人に計って実現して呉れた。話を聞いて同じカクマルのOB,T君も参加することになって,一行3人の旅とはなった。
  旅は,私の「望郷」の思いを十二分に充たしてくれただけでなかった。
  ヨーロッパと中国を芯に,ビジネス以外,観光対象の旅は十数回に及んでいる。この度はツァープランに乗った旅でないだけに全く型破りのものとなった。
  何よりも行動そのものが全く自由だった。
  何よりも時間が,実にゆったりと流れた。
  何ものにも拘束されない時間がそこにあった。
  本文中にも記したが,従来の旅では絶対に味わえなかった無限に静かな,澄明な時間がそこにあった。
  環境がまたすばらしかった。
  60年前,私の半年の在島はともかく仕事の為だった。
  ポナペにこれだけ豊かな自然があることさえ充分に知らなかったし,ナン・マドールのことも碌々聞いていなかった。
  観光地として人の手が加えられていない,みやげものやもない,多くの神秘に包まれたポナペ。これだけの自然が現在に至るまで残ったのは,なんといってもポナペの人々の,自然に対する敬虔さのゆえだといわれる。

 年長の私は,同行のK君,T君に大変御厄介を煩わした。三日間宿泊したザ・ビレッジホテルは素敵だったし,全行程を共にして貰ったガイドの山田さんには一方ならぬ御世話になった。以上の皆様には有難く厚く御礼を申し上げたい。
  この度の「ポナペの旅」の思い出は永く,強く私の心に残ることだろう。
(終り)
2005.7.20 T.S.生。

追伸 本文の執筆には,塚田清実氏 メール(kamisawa@mxg.meshnet.or.jp)のポンペイメール情報に随分助けられた。ポンペイでガイドを勤めておられ,現在は帰国中の同氏の,ポンペイに対する愛情は並のものでなく,ポンペイに対する凡ゆる情報はインターネット紙42枚に及んでいる。
深く,深く感謝申し上げる次第である。

 

 



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