東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.67


東京都「新島」見聞記

青木行雄


 伊豆七島の新島は東京から南西へ約160kmの洋上にあって,面積は24km2,東京諸島では4番目に大きな島らしい。あとで地図も記すが,集落は本村と若郷に分かれていて,人口は約2600人と聞く。ここには警察が20人,式根島も新島の管轄らしい。式根島には常時1人いるだけで,船で10分もかからない島なのでいつでも行ける体制とか。
 島の中央,やや北寄りで宮塚山の南にアラミ山(428.5m)と大峰(300.7m)の高い(島では)山がある。
 東海岸の羽伏浦は,サーフィンのプロ世界選手権大会のほかウインドサーフィンなど若者のマリンスポーツの島と言う。
 私達は夜11時,竹芝出船の東海汽船に乗ったが,サーフィンボード等を持った若者が,かなりの人数が新島で下船したので,初めての私には新島がマリンスポーツの島なんだと初めて分かった。
 産業の主力は観光と言うことであるが,新島港の船着場には観光みやげの買場もなく,すぐ近くの魚港に魚を買いに行ったが,対応はおろか,宅急便の準備も客側でとの話に閉口した。東京都でありながら,実際は遠い諸島なのである。だから,それだけ素朴なのだと言えなくもない気がした。
 民宿は,本村では48軒と記してあるが,ホテル・旅館なども10軒近くあって,全体で約1600人の宿泊が可能のようである。行島には夏季に集中し“一季型”と言うらしい。
 タクシーは9台ある,と運転士が言っていたが,女性ドライバーが3人いるとか,やはりこれも離島のせいかも知れない。
 水産加工も盛んで特産の「くさや」は全国的に珍味として有名らしい。2003年(平成15年)6月に「くさやの里」がオープンし,加工から販売までの工程が見学できて,試食まで楽しめるとパンフにあったが,日曜日・祭日は休みであった。
 昔は何十軒もあったらしいが,何の業種も同じで段々淘汰され,近年,町の中での製造は大変くさい為に迷惑がられて,10軒あまりの業者が村はずれに「くさやの里」を作り移転したと言うわけだ。
 知り合いの紹介で島一のくさやの店「菊孫」に立ち寄り見学が出来た。
 新島の飛行場から程近い所に「くさやの里」はあった。入口の所に石で出来た甲板があって,目を引いたのは,その句である,夏,真盛りの為に近くから,蝉の声が大合唱で普通の話声では聞こえない程の蝉の高声であった。

    「新島や
        くさやのにおう
           せみしぐれ」
                 森 繁 久 弥
と書かれた句の石碑があった。
 実に夏の新島の様子がそのまま分かる単純さだが,すばらしい句と感心した。
 また,そのすぐ近くにこんな句も書いてあった。

    「わたしや 新島
        くさやの干物
           めしに焼かれて 匂をこがす」

 「くさやの里」に入ると同時にくさやの匂がにおって来る。休みの為に作業はしていなかったが,工場内に戸をあけるとすごい匂いが充満していた。さすがにクセーヤ。
 「くさや」の名前はクセーヤから来たと言う。
 五代目「菊孫」の若手社長から「くさや」の極意を聞く。
 新島の献上品は昔「塩」であった。余った大切な塩の使い道や,島国の魚の長期保存の知恵から生れた保存食と言う。
 菊孫では300年余の伝統を守り,絶やさずにつかい残され,受継がれる「くさや汁」,「コリネバクテリユウム」「くさや菌」が,あの独特の匂いを発するのである。
 この菌が工場(店)ごとに違い秘伝となる。
 塩水に魚の味が加わり,時間とともに熟成され,独特の風味がかもしだされるのである。この菊孫では当店独自の「くさや汁」の秘伝の味で,伝統の味とコクが生きていると言う。
 くさやは新鮮な魚を開いて水洗いし,くさや汁に1枚1枚ていねいに一晩漬け込んだあと,十分に水洗いし,乾燥させてつくると言う。くさや汁に含まれる防腐抗菌作用(くさや菌)で保存性がよくなり,独特の風味が加わると説明があった。
 くさやの種類には,「青むろあじ」「とびうお」「かわはぎ」「さめ」「サバ」「イワシ」「さんま」「うつぼ」等がある。

 くさやは珍味ではあるが,あの匂のために食べない人も多い。やけば近所の人には大変めいわくな食品であるが,酒のつまみには,最高品の部類で珍味と言える。

※休日の「くさや」の工場,10軒ぐらいが共同で作った建物,それぞれの各社が秘伝の「くさや汁」で作る。

 旅行とは実に楽しい,初めて行く場所や見た事のない風景や,食べ物等,新鮮で新発見がいっぱいである。
 ここ新島もその一つであるが,知り合いから誘われて,チャンスを生かすか殺すかは,その時のスケジュールにもよるが,体調と好奇心にも大きく左右する。この新島は一度行って見たいと思っていた場所でもあった。
 下船して車で宿泊先に向かう途中,特産のコーガ石で彫刻したモヤイ像が道の両側にたくさんあった。芸術の町であると思うと同時に,ここも東京都なのかと疑う程であった。聞くとコーガ石とは,やわらかくて彫刻にあう石と聞く。モヤイとは共同でとか,みんなで(力をあわせる)と言う意味があると言い,みんなで一緒に作った像の事である。人の顔の彫刻が多い。異様な感じもあった。こんな時も先に記した,旅の新発見の楽しい一つでもある。

 昔,新島は流人の島でもあったとあり,多くの流人が流されて来ている。その流人の墓が長栄寺にあった。この寺,日蓮宗・三松山「長栄寺」と言う。1415年(応永22年)日英上人により開創の寺となっている。
 歴代住持の経歴や業績を詳細に記した「長栄寺歴祖次第」上巻下巻は東京都重宝となっていると言う。
 この新島には「天宥上人の墓」もある。
 天宥上人は出羽,羽黒山の中興の祖といわれ,天海和尚の弟子であると言う。
 羽黒山を真言宗から天台宗に改宗したため,反対派の陰謀で新島に流され,島で80才の天寿を全うしたとなっている。書画などの遺品があり,墓は村落のはずれにあると言うので,行く事は出来なかった。
 長栄寺にある島の各家に墓所には盆でもあったので,きれいに清掃され,花がはなやかに飾られていたが,年中主婦の日課で常に美しく掃き清めていると地元の人は言う。
 長栄寺の共同墓地に隣接して一段低い所に先に記した流人の墓地があった。刑死でなく流罪中に他界した数百人が眠っていると言う。江戸の霊厳島から島に流されるとき,流人船で一緒だった“同船衆”が酒の好きだった仲間には酒樽の形,賭博にはサイコロとツボの形をした墓を建てた。その墓が実際に見ることが出来る。

 史跡「流人墓地」の立札を見ると,下記のように書いてあった。
 「寛文8年(1668年)〜明治4年(1871年)の2百余年の間に新島に流された流人は1333名である。階層別には武家百姓,町人,神官,僧侶,無宿者に至るあらゆる階層が流されている。
 この中で赦免になった者は,489名であるが,流刑中に亡くなった者は,655名に達し,そのうち死刑,獄死以外の流人のほとんどが,この墓地に埋葬されている。
 この流人墓地は,となりの共同墓地より,一段低くなっていて,当時は植樹によっても区別され,通り抜けはできなかった。
 流人墓地へ通じる道は,不浄道と呼ばれ,墓地の西北側に今も残っている。
 流人が在島中,島民の教育,医療,緒技術の普及や民族芸能など,島民の生活や文化に貢献した流人も多いが,日々のくらしを酒や博打にまぎらわせた者も少なくなかった。その流人が,生前好んだものを仲間が酒樽やサイコロを墓石として刻み,その霊を慰めているが,村人は今なお,この墓地に花を手向け,流人の昔を偲んでいる。

昭和62年3月30日 指定
新島本村教育委員会」


  写真のように,なき流人達の為に花を絶やさないと言う新島の人達の人情味のある心情がうかがえる。
※一段低い所に墓所はあったが、きれいに整備されていた、流人墓地。
※大樹につつまれた、長栄寺の本堂、本堂の右側に共同墓地があって、その並びに流人墓地がある。

 新島にもすばらしい景観の湯の浜露天温泉がある。ギリシャの古代神殿をおもわせる展望風呂、その造形美に加え、太平洋の眺めも大変すばらしく、表現に困る程である。混浴だが水着着用であった。
 この露天風呂や足場を目当てに来島する人も多くなってきたと地元の人が言う。
 シャワー付きの更衣室、トイレがあり、入浴24時間営業で入浴無料がうれしい。
 いろいろ国内の温泉を歩いているが、こんな雰囲気の露天風呂は初めてであった。

※ギリシャ神殿風の露天風呂の景観もすばらしいし、温泉も良好。
※かなりの高所の露天風呂から見る太平洋は格別の眺めであった。

          「新島の夏」

       クヤサの島に         人口2600人の島に
          蝉の大合唱          オマワリさん20人
       コーガ石の島に        昔は流人の多い島に
          おしよせの波の音       人情はこまやかで熱ったかい
       マヤイ像の島に        そんな新島にも
          サーフィンの若者達      夏本番がやって来て
       コバルトブルーの島に     季節は通り過ぎて行く
          ギリシャ風の露天風呂

※東海汽船のコースガイドの地図をお借りした。


平成17年8月21日記
(行島17年7月15日)

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