東京木材問屋協同組合


文苑 随想

歴 史 探 訪 No.36


戦艦「三笠」の歴史と初の艦内墨アート展

歴史 訪人



 戦争を知っている年齢の人達には,戦艦「三笠」については説明の必要がないかも知れないが,幾多の年輪を重ねて,大正14年から,横須賀市稲岡町無番地,三笠公園に記念艦「三笠」として保存されていることは周知の事実である。
 艦内には,建造されてからの歴史や戦場での活躍,係わりある人達の詳細を知ることが出来る。
 日本海海戦100周年に至り,記念事業として,上記,艦上での「海翔」〜やがて,〜海の聲が聞こえてくる〜と題して,初の墨アート展が財団法人三笠保存会の主催,横須賀市,横須賀市教育委員会,横須賀商工会議所,神奈川新聞社,テレビ神奈川等の後援で開催され,大変好評を博した。

 では,知らない人の為に戦艦「三笠」について,三笠保存会の資料より,勉強してみた。
 明治31年(1897年9月26日)と言うから,今から,107年前の事であるが,この甲鉄艦を英国のビッカース・ソンズ・アンド・マキシム会社に発注(当時88万ポンド)したと記録されている。そして明治33年に完成・進水し,「三笠」と命名された。明治35年3月13日英国のプリマス港を出港し,5月18日に横須賀に到着しているから,約2ヶ月の航海であった。
 明治36年12月,中将東郷平八郎が常備艦隊司令長官に就任したとある。
 明治37年(1904年)戦地に出港,旅順方面において敵艦隊の攻撃,閉塞隊の援護,港湾封鎖などの作戦に参加する。
 明治37年8月10日,黄海海戦,旅順を脱出南下したロシア艦隊を黄海に迎え撃ち,7時間に及ぶ激戦を交えて相手に大損害を与えた。三笠も被弾20余個に達し,後部砲塔は破壊され,メインマストも倒れそうな損傷を受け,戦死33名,負傷者92名の被害を蒙った。
 明治37年呉に向け戦地発,旅順にあるロシア太平洋艦隊の主力艦全部の撃沈を確認した東郷司令長官は,戦況報告及び次期作戦打ち合わせのため上京した。その後,翌年1月2日旅順が陥落し,日本艦隊の有力艦隊が修理のため内地に帰ってきた。
 明治38年(1905年)2月鎮海湾に進出(江田島,佐世保経由),ロシア本国からの増援兵力たる太平洋第2,第3艦隊(通称バルチック艦隊)との決戦に備えて,連合艦隊は射撃・発射・運動など各種の猛烈な訓練を開始した。
 明治38年4月第2艦隊(司令長官,中将上村彦之丞)をもってウラジオストク前面に機械水雷715個を敷設,ロシア増援艦隊が4月9日シンガポール沖通過との情報を得て,要撃作戦の最終段階完成に必要な機雷原を構成した。
 明治38年5月東郷大将の率いる連合艦隊は,ロジエストウエンスキー中将の率いるロシア太平洋第2・第3艦隊(38隻)を対馬沖に迎え撃ち,翌28日にわたる数次の合戦により空前の大勝を収めた。この海戦での三笠の被弾30余個,戦死8名,負傷105名と記録されている。
 この戦いがいわゆる日本海海戦であり,この明治38年から数えて今年が100年になるわけである。
 三笠のことについてもう少し話を進めていくと…。
 明治38年(1905年)9月11日,三笠にとって,大変な事故が起きている。
 正午過ぎに後部火薬庫に火災が発生し,佐世保港内に爆沈,自爆して沈没,殉職者339名に上った。
 明治39年(1906年),爆沈して1年後の8月10日午前6時に引上に成功し排水開始する。引続き修理に着工する。
 明治41年(1908年),第一艦隊に編入(旗艦)
 大正3年(1914年)第2艦隊に編入
 大正5年(1916年)第3艦隊に編入
 大正7年(1918年)露領沿岸警備
 大正10年(1921年)一等海防艦となる
 大正10年9月16日沿海州方面の警備行動中,アスコルド海峡で座礁,富士春日等の救援により26日離礁し,ウラジオストックで入渠修理の上,11月3日舞鶴に帰着。
 大正10年11月12日ワシントン軍縮会議における「ヒューズ案」で廃棄艦リストに載る。
 大正10年12月1日,本籍を横須賀鎮守府に改定。
 大正12年(1923年)9月1日,関東大震災で係留岸壁と触衝し前部に浸水。
 大正12年9月20日,帝国軍艦籍から除籍,
 大正14年(1925年)記念艦として保存決定,
 大正14年8月,財団法人・三笠保存会設立,
 大正15年11月12日,三笠記念保存式(摂政宮殿下ご臨席),「記念艦三笠」と呼称。
 昭和20年8月20日,米軍より接収され,後日に兵装など撤去,財団法人・三笠保存会解散。
 昭和23年1月9日,米海軍司令官が三笠の転用を横須賀市長に許可。三笠は記念艦の性格を失い,以後極度に荒廃。
 昭和33年11月4日,三笠保存会を再建し,記念艦三笠復元募金開始。
 昭和34年4月1日,防衛庁所管となる。
 昭和34年10月7日,復元工事着工,
 昭和36年5月20日,復元工事完了。(工費,18,000万円)
 昭和36年5月27日,復元記念式(義宮殿下ご臨席)
 昭和42年(1962年)5月27日,東郷司令長官銅像除幕式(工費2,000万円)。
 昭和43年(1963年)6月17日,天皇・皇后両陛下行幸啓,
 昭和56年(1981年)より,復元20年目の大修理開始,
 平成4年(1992年),英国世界船舶基金財団から海事遺産賞受賞。
 平成17年(2005年)7月17日,三笠艦内にて初の墨アート展。

 以上が記念艦「三笠」の歴史を記念艦の資料より拾い書きしたものであるが,文中にもあるように,戦後復元が昭和36年に完了し,多くの人々が見学され,何年かは,来場者も多く,にぎわい,財団法人・三笠保存会も運営がスムースであったと思う。
 だが40年以上もたった現在では,聞くところによると見学者も少ないということで維持するのも大変だったのではないかと想像する。

 日本にもこんなに前向きで,世界を股にかけ飛びまわっている様な書道家も大変珍しいので紹介したい。

 父親が書道家で2〜3才の頃から書を始めたと言う彼女は,小さい頃から,多くの賞を貰っている。また下記のように活躍している。

 ※毎日女流展(グランプリ受賞)
 ※成田空港ロービーに「般若心経」(7m展示)
 ※サンスクリット文字研究でネパールへ
 ※     〃     でインドへ
 ※モンゴルにも行ってモンゴル語も研究
 ※フランス・オペラ座公演
 ※イスラエル・ハイファ公演
 ※アメリカ・ロサンゼルス公演
 ※書の奉納
    伊勢神宮,内宮・外宮・月讀宮
    橿原神宮
    明治神宮
    靖国神社
 個展は各方面で開催している。
 自衛隊には特に関係は深く,「イラク復興支援」でのサマーワのキャンプ地の看板「サマーワ」は彼女の書である。
 また,いろいろと活躍中の中で上記の「三笠」の話が持ち上がり,4年間をかけて,この100周年に合わせた,三笠として初の試み,イベント艦内展示墨アート展が開催されたのである。そしてこの展示会を皮切りに次々に計画が予定されていると言う。
 マンネリ化で見学者の減少にカツを入れることになった,「柏木白光」は三笠再生に貢献した立役者と言うことにならないか,期間中の2005年7月17日から8月28日の約40日の間,かなりの入場者があったと聞いている。
 北は北海道の知床から南は九州の南島・石垣島まで,現地で書いた書,百数拾点を一堂に展示,命を懸けた書に挑む様子が各書に垣間見ることが出来た。

「柏木白光」は書道家と同時に詩人でもある作品の中の一詩を記して見たい。

「夢」

一念の眠りの中に
    千萬の夢あり

風の声を聞く
波の声を聞く
星の声を聞く
鐘の響き 遙かに
  ただ無心に
  ゆだね祈る
  なえた心では
  前には進まぬ
  夢に向かい
  いま翔く
 
聞こえるか
  無限の祈り

 九州・大分を後にして,東京へ,そして海外へと夢を広げて行った彼女のいきざまが目に見えるようである。

 平成17年(2005年)6月のある日,一通の厚い手紙がとどいた。
 「柏木白光」・墨アート展の案内状である。場所を見るとなんと,横須賀の記念艦「三笠」内での展示となっていた。
 上記 記念艦「三笠」と「柏木白光」とのつながりは知る由もないが,先の多くの「夢」を心に秘めて大分からはばたき,縁あって,いろんな人々の支えがあったであろう彼女のこのイベント,文頭にも記したが,「海翔」〜やがて,海の聲が聞こえてくる〜は「三笠」の側面に大きく,横幕が下がり,7月17日に初日のオープニング・イベントには,横須賀市長を始め,自衛隊の幹部等数百人の出席のもと開会式が挙行された。又海上自衛隊の音楽隊,陸上自衛隊の武山自衛太鼓等又シャンソン歌手等も出演して,見事なオープニングイベントであった。

 日本海海戦100周年を迎えるにあたり記念艦「三笠」の存在を再認識し,維持存続を記念して,墨アート展が開かれたことは,深い意義があったと推察する。
 又この書道家が次にどんな手を打つか楽しみであり,期待したい所である。

 


平成17年9月4日記
※横須賀市三笠公園内にある「三笠」艦内には,いろいろな資料が山積である。
※「三笠」艦上,日本海海戦100周年の横幕と柏木白光・墨アート展・「海翔」
〜やがて,海の聲が聞こえてくる〜の横幕が見える。



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