東京木材問屋協同組合


文苑 随想

真夏の夜の夢

パートU(パートTは昨年6月)

愛三木材・花筏

 八月初旬の或る日曜の夕間暮れ,珍しく居間でボーとTVを見ていたら,例によって突然,門戸が開いたと思った途端,玄関先で「パパいる〜!」の大音声。その声だけでタマ子が来たなと判るケタタマシサである。廊下で転寝をしていた犬が片目を開けたがフンと云い乍らまた寝転んでしまった。タマ子は其のままズカ〃〃と居間まで出張って来て,「パパ頼みが有るんだけど,フランスからサエ子の友達がミコシを担ぎに3人も来るんで,4〜5〜6日か7〜8日位,泊めてやってよね,…頼むょネ〜」とこうである。「お前,藪から棒にそう云われても,マロ(犬)にも嫁さんにも聞かんとアカンしな」と云っては見たが,「メシもフロもウチで用意するから,寝るだけで良いんだから…」と何時もの通りの強引さで,初手から決め込んでいてテンデ勝負にはならないのである。

 サエ子(彩絵子)とはタマ子の娘で10年程前にフランスに渡り苦学をして居たが,今は日本人の舞台装置の監督のK君とパリで結婚をして頑張っている,今度来たのがその友達で全員が日本は初めてとの事である,年は♂2名が29で♀が28才,名前はニコラとアレックスとペルティーユと云い,ニコラは一年の内の半分はアメリカに渡り今年はビールで有名なバドワイザーで働いているとの事,少しイタリアが混ざっている。後の二人は夫婦との事だが,特に奥さんは生粋のパリ育ちらしく小粋で垢抜けている。

 そもそも珠子(本名)とは年は大分違うが当家の斜前のイタリアン・レストラン即ちイタ飯屋の女将で,ガキの頃よりカン蹴りや駆逐水雷をして遊んでいた幼馴染である,そんな訳でお互いに言葉にも遠慮が無い。そのタマ子が一念発起して40を過ぎてからイタリアに渡り,パスタやマカロニやボンゴレの修行をして日本に帰り自宅を改装して「○○キャーノ」と看板を出したのが5年前,その後は順調に発展を続け今では驚くなかれ予約制である。これは口コミとタウン誌の効果だがヒマな時には自ずから電話を掛け捲くり脅迫モドキの強引な勧誘の効果が大きい。但し席は10人で満員御礼である。

 8月某日,真夜中に飛行機が5時間も遅れたとボヤキながら,そのフランス人の男と二組の夫婦はやって来た・先ずはマロ(番犬)が一喝してから匂いを嗅ぎに出向いたが,かなりの犬好きらしく5人とも全然動じない,それどころか尾っぽを振る始末である。それから,ボンジュール ムッシュー,コマン タレ ヴーと日仏親善のスタートである。翌日は流石に疲れていて夕方まで高イビキで寝ていた,時差ボケもかなりきついらしく何とか正常に戻ったのは3日が過ぎてからであった。
 元気になった途端,持前の旺盛な好奇心が首を擡げ始め質問攻めの様相を呈して来た,そして,その興味はどうやら現代の日本では無く,ウタマロ,ヒロシゲの浮世絵の世界,即ちゴッホやセザンヌに強烈な影響を与えた江戸期の文化に有るとの感触を得たので,それならお手のもんだワイと少々気が楽になった。前からサエ子が里帰りをした時に,こやつも「パパいる〜,カタナ見せて!」と良く上がり込んで来たが,その影響でかフランス三人衆も中々飲み込みが早い,「タチ」「カタナ」の違いは瞬時に覚えたが,実物を前にしての講義となって,各パーツの説明から「古刀」「新刀」の区分けの仕方,挙句の果てには数本の刀を並べさせ,時代による各刀の特徴と等級,プライス迄をこと細かく質問され往生した。価格のところで?となるが,これはやはり数の数え方が良く判らんせいなのかと思ったが,石原都知事の刷込み過ぎで実際はそんな事は無いやネ。そんな訳で夜遅くまで刀と日本史のレクチュアーをして翌日は一日潰しての東京案内。
 尚,K君の通訳は抜群に上手い,柿沢弘治先生といい勝負である,またサエ子も隣で助っ人の口を出すがこれは女の目線での見方となり中々イイとこを指摘する時がある。小生は前日に丸善で買って来た,ポケット版「カタカナで覚えるフランス語会話」での対応である,併しジェスチャーが意外に効果的であり,英語は三人とも全て通じた。

 8人乗れるバンを借りて来て小生の運転でスタートとなる,ものの1〜2分で近くの海辺橋の際を通ると,ニコルが大声で「バショウ」と叫んだ,見ると芭蕉が橋の袂にて旅立ちの姿で腰掛けている像を指差している。確かに此処は「奥の細道」の出発地だワ。お主は松尾芭蕉をご存知かと聞くと,ウィウィと言い「古池や,かわず飛び込む〜」とのたまい,俳諧のフランス語のテキストを振り上げた,これには全員「オッ魂消た!」。
 では,その句を詠んだ場所…即ち清澄庭園,当時は下総関宿藩久世大和守下屋敷。に参ろうと云う事になり,清澄庭園の菖蒲池とデカイ句碑を拝に行き,ついでに大川端の「芭蕉記念館」(入場料の100円は都内で一番安い割には中身が濃い)に立ち寄る,ニコルの喜ぶまい事か,「フランス人でここまで来たのはオレだけダー!」と云うわけ,云われてみれば確かにソウかも知れない,但し,短冊の文字は未だ読めない,オレでも読めない。併しニコルがこの調子で勉強すれば近い内には必ず読める様になると思う,三階に上ると「奥の細道」の全行程図が掲げてあった,ここでもニコルはポイント毎に〜夏草や兵どもの夢の跡,静けさや岩に染入る蝉の声,五月雨を集めて速し最上川,と目を輝かせながら指を差して嬉しそうにのたまうのである,とてもついて行けない。

 とんだ所で時間を使ったので,浅草は雷門の真ん前で車の中から,サンダーボルト・ゲート&ビック・チョウチンと説明して終わり。上野の国立博物館に向かうが昼も過ぎ腹もだいぶ減って来たのでフランス人にフランス料理を食わせてもしょうが無いので,精養軒の隣りの伊豆栄とか云う和風の割烹に入る,メニューの写真と隣の席の現物とを見比べているが中々決まらず,先ずは生ビールで乾杯となる,…小生のみがウーロン茶。
 そこでニコルに「バドワイザーと日本のビールとどちらが美味いか」と聞いたところ,即座に「ジャポン」という言葉が返ってきた,バドワイザーは世界で一番不味いとの事,そしてビールはドイツよりもベルギーの方が美味いと云っていたが,「下戸にはどうでも良いわぃな〜」。そうこうしている内にやっと食い物が決まった。オナゴはテンプラ定食,男は「うな重」,ところで「ウナギは食った事が有るのかと聞いたら」ウィ〃〃である。何でも丸のままブッ切りにして,オリーブ・オイルで揚げて食べてるのだそうである。併し「イール(鰻)は余り美味く無いので滅多に食べない」と云っていたが,出て来た「うな重」は旨い〃〃とパク〃〃と食べ飯はお代わりしていた,タレが合った様である。
 そして新しい箸袋を貰い,箸置と楊枝を合わせてゲットしてポーチの中にインである。

 それから,東照宮と動物園と東京都美術館…たまたまルーブル博物館展を開催中,の前を通りホームレス広場を抜け,因州池田家の黒門を見て「東京国立博物館」である。一階から回り始めアチコチで立止まり,日本文化のエキスの紹介をしている内に時間がどんどん経って2階に上がった時には五時の閉館迄あと僅か,半分駆け足で回り地下のミュージアム・ショップに着いた時にタイムアップ。併し如何しても土産は買うのだとギリギリ粘って買ったのが全員絵ハガキ10枚だけ,いい根性をしていると感心した。
 本館を出て噴水の横のベンチで休んで居たら,突然,ベルティユが前を通る美人に抱き付いて大声ペチャクチャと話し始めた。どうも他の4人も顔見知りの様であったが,何でもパリの友達で,彼女が日本に来る事は知ってはいたが,まさかここで合うとはビックリと云う事であった。その原因は元来フランス人とは知らない土地に行った場合,先ず,第一に必ずその土地の美術館か博物館に行くのが長い間に培われた国民性で有り,民族のDNAとの事である。それがこのトレビアンなマドモアゼルとの出会いのナゾで御座った。それにしてもジャポネの国民性&DNAとは随分と違うでは有りませんか〜。
 そして,この本物のパリジェンヌを乗せて,カンバック,深川 IN・タマキャーノでこの後,フランス人は六本木へ嬉々として遊びに行ったが,当然,帰りは午前様であった。

 連中は翌日から関西方面へハイクに出掛けたので暫くは姿を消していたが,ある日,突然「タダイマ〜」である。「何でも京都,奈良,大阪を回って来たよ」との事である。京都では竜安寺の石庭で日がな1日座禅を組み石と対話して,苔の西芳寺では茶を嗜み,洛北の高台寺では寝転んで北山杉の風で涼を得,それぞれバカンスを楽しんだ様である。
 それから奈良に行き東大寺のビック・テンプルを見て時代(聖武15年…743)の古さと手入れの良さに驚き,斑鳩の法隆寺では先日上野の国立博物館でレプリカを見た橘夫人の「玉虫の厨子」の本物を見たよ,と自慢しておりました。
 そして13,14とミコシを担ぎ「肩がイタイ〃〃」と泣きながら自国へ帰り行く。それにしても向こうのバカンスは長い,彼らは1ケ月取ってきたがそれでも短い方だと,長い人は2ケ月は休むそうだ。どうする材木屋さん,これは度胸の問題でござんしょう,一丁やってはみませんか2ヶ月程,「真夏の夜の夢」の目覚めは楽しみですぜ,ド屹度して。

 



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