時代を見つめて No.54
“明けましてお目出度うございます”
今年も元気でがんばります。
「高橋尚子」(優勝おめでとう)2005(H17年)11月20日
「あの坂に負けたくない」2003(H15年)11月16日
時見 青風
東京国際女子マラソンで優勝。
勝った,やっぱり尚子は強い。2年ぶりにマラソンに臨んだ。2000年(平成12年)シドニーオリンピック金メダリストの高橋尚子(33才)が2時間24分39秒で,復活優勝を飾った。
右足の肉離れを抱えながら,35.7キロでスパートをかけ,2年前の同大会で遅れをとった「あの坂に〜〜」時点から,敗れた因縁の相手エルフィネッシュ・アレム(30才)(エチオピア)を一気にぶっちぎる圧勝ぶり。日本中が(オーバーかな)待ち望んだ復活劇で,2大会ぶりの出場を目指す,2008年(平成20年)北京オリンピックに向けた第一歩を最高の形で踏み出したのである。
報道や,資料,テレビ観戦等をまじえながら,当時の様子を記して見ると。
誰もがまさかと思ったに違いない。目を疑った。右足に3ケ所全治1カ月の重傷を負っている筈の高橋が,最初はスローペースで我慢のレース運びであった。そして先頭グループをふるい落としながら,前にも記したが「あの坂に〜〜」その場所が来るのを待っていた。35.7キロの水道橋付近で,一気にスパートをかけたのである。36キロから始まる“悪夢の坂道”の直前,2年前の同大会で失速し,敗れ,アテネオリンピック代表落選につながった所である。暗闇に続く上のぼり坂なのだ。坂の後で勝負する手もあったが「あの坂に挑みたい,負けたくない,自分自身の思い出との闘い」に,敢えてこだわったと言う。ゼッケンも2年前と同じ「31」。スピードを上げれば,誰も追えない。2年前に敗れた因縁のアレムは,あっという間にはるか後方に,1キロで約100メートルぶっちぎった。敵は自分だけだったと語る。
驚くライバルを尻目にぐんぐんと差を広げ,異次元のスピード,よみがえったダイナミックなフォーム,苦しみ抜いた2年間と訣別する為にひたすら突っ走ったのである。
心配になるのであろうか何回も後ろを振り返っていた様子が印象的であった。
又「大丈夫,いけるよ」と沿道のファンから声が飛ぶと,元気をもらったかのように,さらに差を広げたのである。
国立競技場のトラックでサングラスを外し,両手を広げて歓喜のゴールイン。ファンなら誰もが,ジーンと来るシーンである。
あの2000年,シドニーオリンピックを制したあの強い高橋がついに復活したのである。
月桂(げっけい)冠を授与されると目を潤ませた。「42.195キロ,途切れることのない声援を頂いた。暗闇にいた私が夢を持つことで充実した一日一日を過ごすことができた。
また,ここから時間が刻めそうです」。2003年大会で敗れ,アテネ切符を逃したことで高橋の時計は止まっていた。再び前に進むには東京で勝つしかなかったのである。
レース10日前に負傷した。主治医からは出場回避を勧告された。本人も「不安があった」と眠れぬ夜を過ごしもしたが,瀬古利彦氏(現エスビー食品監督)らを担当してきたマッサージ師を呼び寄せたり,痛み止めの薬も飲み,ふくらはぎにはテーピングもして,懸命の治療が奇跡的な回復を呼んだのである。(日本テレビ4チャンネル「24時間テレビ」の中で,マラソンのシーンがあるが,疲れた体をいやし,瞬時に回復させる場面など,プロと一緒には出来ないが,大変さは良く分かるような気がする。)
前半はストライドは狭く,腕の振りもぎこちなかった。給水では右足に水をかけ,消耗を防いだと言う。本人が言う「我慢の連続だった」35キロを乗り切ると,難所の坂に差しかかる前に一気に勝負を決めた。2年前は自分のために走ったが,今回はかけがえのない仲間のために走った。レース2日前,故障を公表した。本番への不安がピークに達したその夜,居ても立ってもいられず,仲間へ手紙を書いた。自分の素直な気持ちを伝えたかったのである,「どんな結果になっても,私はみんなに感謝している」,小出義雄代表と訣別し,6月に立ち上げたチームQのメンバー宛てであった。
レース当日の午前3時,ホテルの自室で目を覚ますと,ドアの下にメンバーから激
励の手紙が差し込まれていることに気がついた。「一緒にやれたことを誇りに思います。明日は楽しんで走ってください」と西村礼トレーナー(32才)からの手書きであった。
「うれしくて涙が出た」すべてを受け入れてくれた仲間からの温かい気持ちが,高橋の心にしみわたったのである。
今大会は,来年2006年12月のアジア大会(ドーハ)のマラソン代表選考会にもなっており,そのアジア大会に優勝すると,2007年,夏の世界選手権(大阪)の出場権が与えられ,更にそこでメダルを獲得すると,北京オリンピック代表権を獲得できると言う。
まだまだ北京オリンピックまでには,難問と3年と言う時間もあるが,これで北京までの道が1本できあがった。近くなったことはまちがいない。
本人は「次の扉を開けたばかりで,今日がすべてだったので,イチから考えていきたい」と記者に話したようである。
アジア大会からの北京オリンピックルートを選ぶと,2レースともに好成績を収めなければならないプレッシャーもある。
大阪世界選手権は,猛暑の中のレースになるかも知れない為,彼女の年齢からも負担が大きいと予想する人もいる。
2007年秋から行なわれる,オリンピック代表選考レースに出場し,一発勝負でオリンピック切符をつかむのが,妥当な北京への道になりそうだと言う人もいる。
高橋尚子,復帰までの経過を記して見る。
2003年(平成15年) |
11月16日 |
東京国際マラソンで2位 |
2004年(平成16年) |
2 月4 日 |
アテネオリンピック代表選考レースに再挑戦しないことを表明した。 |
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3 月15日 |
オリンピック代表落選した。 |
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7 月 |
米ボルダー合宿中に転倒して胸とひざを打撲する。秋の海外マラソンを断念する。 |
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9 月末 |
右足首骨折,11月20日 帰国 |
2005年(平成17年) |
3 月15日 |
春の復帰を断念する。 |
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3 月15日 |
オリンピック代表落選した。 |
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5 月9 日 |
小出代表からの独立を発表する。 |
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6 月1 日 |
チームQが本格始動する。 |
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6 月10日 |
ファイテンと4年で推定6億円の所属契約を発表する。 |
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8 月22日 |
東京国際マラソン出場を表明する。 |
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9 月4 日 |
米バージニアビーチのハーフマラソンで復帰,4位であった。 |
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9 月18日 |
米フィラデルフィアのハーフマラソンで又も4位。 |
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11月10日 |
帰国 |
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11月11日 |
右足肉離れを発表。 |
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11月20日 |
国際マラソンで優勝,復帰する。 |
では高橋尚子の略歴について記して見ると,
岐阜県岐阜市出身,血液型,O型
中学校から陸上競技を始める。
岐阜県立岐阜商業高等学校を経て大阪学院大学卒業後,1995年(平成7年)に小出義雄を慕いリクルートに入社,1997年(平成9年),小出の移籍に伴い積水化学に移籍する。2003年(平成15年),小出とともに積水化学を退社,スカイネットアジア航空と2003年6月から〜2年間のスポンサー契約を結び,佐倉アスリート倶楽部の所属選手として指導を受ける。
2000年(平成12年)9月24日にシドニーオリンピック女子フルマラソンにて金メダルを獲得,テレビ朝日系列での生中継の視聴率は関東地区で平均視聴率40.6%(瞬間最高視聴率59.5%)を記録したと報道された。
そして,2000年10月に,女子スポーツ選手として始めて日本の国民栄誉賞を受賞した。
2001年(平成13年)9月30日にベルリンマラソンで女性初の2時間20分突破となる世界最高記録(当時)をマークする。
しかしこの記録は一週間後にキャサリン・ヌデレバによって塗り替えられてしまう。
2005年5月,リクルート時代から約10年に及ぶ小出監督との師弟関係を解消。2005年6月,ファイテンと2009年5月までの4年間の所属契約を前にも記したが結んでいる。なお,同社陸上部とは別に「チームQ」として活動,また同年8月からは中日新聞社の客員に就任した。
女子マラソン世界歴代6位・日本歴代3位(2005年9月現在)の記録を持つのである。
愛称の「Qちゃん」は,リクルート陸上部の新入部員歓迎会においてアルミホイルを使ったボディコン風の衣装を着て「オバケのQ太郎」の歌を歌い盛り上がったことで,あだ名となったらしい。
遠い親戚にモーニング娘の吉澤ひとみとノーベル化学賞を受賞した白川英樹氏もそうらしい。
今までの実績を記して見ると,
1997年(平成9 年) 1 月 大阪国際女子マラソン 2 時間31分32秒 7位
1998年(平成10年) 3 月 名古屋国際女子マラソン2 時間25分48秒 初優勝
(当時の日本最高記録)
1998年(平成10年)12月 バンコク・アジア大会 2 時間21分47秒 優勝
(当時の日本最高記録)
2000年(平成12年) 3 月 名古屋国際女子マラソン2 時間22分19秒 優勝
2000年(平成12年) 9 月 シドニーオリンピック 2 時間23分14秒 金メダル
2001年(平成13年) 2 月 青梅マラソン(30km) 優勝
2001年(平成13年) 9 月 ベルリンマラソン 2 時間19分46秒 優勝
(世界最高記録(当時))
2002年(平成14年) 9 月 ベルリンマラソン 2 時間21分49秒 優勝
2003年(平成15年)11月 東京国際女子マラソン 2 時間27分21秒 2位
2005年(平成17年)11月 東京国際女子マラソン 2 時間24分39秒 優勝
上記のように優勝8回(オリンピック金メダル含む)している女子ランナー(日本では)は他にいないし,大変な走者であることは,まちがいない。
これからの北京オリンピックに向って,いくつかのハードルを突破し,勝ち進むことを期待して,今回の優勝をたたえたい。
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