東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 歴史を探訪する楽しみは,時間という縦軸と,地理という平面上の一点から過去へ遡り,その当時進行していた事柄や,関わっていた人物に想いを馳せることである。
  今,私は東京湾臨海部で行なわれている都市開発に関わって居り,一体東京湾の埋め立てはいつごろから,如何にして始まったのか,ということに興味を抱き始めた。
  東京都港湾局発行の大冊『図表で見る 東京臨海部』を繙いて見ると,文禄元年(1592)がそのスタートであることが分かった。江戸時代の幕明けの寸前である。
  豊臣秀吉と徳川家康の連合軍が小田原の北条氏を攻め,戦国時代が終ろうとする頃,秀吉が家康を誘い,箱根から関東を見下ろして,共に放尿した。有名な(関東の連れ小便)である。このとき,秀吉は『家康殿に関八州を進ぜよう』と云った。
  北条氏滅亡後,家康は江戸城を拠点とし,まちづくりを始めた。
  当時の江戸は一五〇戸程の漁村で,漁民は遠浅の入江に,細い竹を林立させ,海苔の原料にする海草を採っていた。その細い竹のことを(ひび)といったので,入江はひびや(日比谷)と呼ばれていた。
  江戸城は着々と工事が進み,西の丸周辺に堀を切り,堀った土を日比谷に埋め立てて,城下町が形成された。
  今の有楽町には,織田有楽斉という信長の弟の屋敷があった。有楽斉は,兄信長とは対象的な性格で,武将というよりは,実力者達の調整役に徹していたようだ。信長,秀吉,家康の潤滑油として,戦国時代をうまく泳ぎ,関ヶ原の合戦では東軍に従って出陣したようであるが,歴史に残るような戦績は一切記録されていない。
  千利休のような黒幕を志向していたかどうかは知る由もないが,武将というよりも,茶人として名高かったようだ。
  江戸時代になって太平の世を謳歌し,屋敷内に数奇屋風の茶室を造らせた。数奇屋橋はその茶室の跡である。





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