東京木材問屋協同組合


文苑 随想


日本人 教養 講座 「日本刀」…Japanese Sword…

「♪一家に一本 日本刀♪」

其の27〈入門外伝…研ぎの3〉

愛三木材・名 倉 敬 世

 古来より,弥生三月は花見月と申しますが,今年は年初から記録的な大寒波や豪雪が続き,気象庁もテンで当てにはならず,森羅万象,津〃浦〃三日先がテンで判りません。この様な時には美しい物(者)を見るのに限ります,それには「化粧術」がポイントです。これは見る者をして和み楽しませるというテンで,大変に大事なファクターであります。
 今回はその刀剣研磨の美の伝道師・エステシャンのテクニックをご披露いたします。但し,今回は中級以上の解説となり,噛み応えがありますので,そのお覚悟でどうぞ…。

「研の歴史」
 大宝令(701)…これは古い,養老令までの国家統治の基本法,藤原不比等の編集。に拠れば,諸国から徴集される兵士は自分で,太刀と刀子を一振りずつと,砥石一個とを用意する事になっていた。砥石とは荒砥の事だから,少なくとも実用刀の研ぎは研磨の研だけで,磨までは行っていなかった事になる。荒砥を都への往復や戦場へ出征にまで各自が携行する事になると,砥石は当然小型の物となる。小型であれば砥石を下に置き刀身を上に載せて研ぐ事が出来ない,刀を手に持って縦に鎬と平行に擦る事になる。
 現在の様に砥石を下に置いて研げば,刀身の下側は見えないから,素人は鎬を倒してしまうが,小型の砥石で上から擦る方法だとその危険は無い。従って上古はその方法を採ったと見えて古墳からの発掘刀には,その様な砥目を残したものがある。
  日本書記」(720)の〈天武記〉に「遣二忍壁皇子於石上神宮一以二膏油一蛍二神宝一」と記載がある様に,油を用いて刀剣を磨き保存する方法は早くから行われていた様である。

 奈良時代に入ると,研ぎの技術も進歩して現在の様に砥石を下に置いて,刀を前後に動かして研ぐ方法になった。正倉院の蔵刀を明治26年に研いだ石川周八の言によると,奉納した当時のままと思えるものは,砥目が切りで鎬と直角になっているのが微すかに窺がえたという。微かになっているのは,動物の脂肪をつけて磨く方法が採られていたからに違いない。

 平安時代になると「延喜式」にその事が明記されている。鳥装横刀一振りを仕上げるのに,まず荒砥で一日がかりで研いだ後,焼刃を渡しその後に荒い伊予砥で中磨き一日,細かい伊予砥で精磨一日,猪の膏をもって磨き一日と定められていた。そのほかに藁一束が用意されていて,これを焼いて灰にして灰汁を採り脂肪を洗い落とすのに使った。この時代までは研ぎ迄が刀工の仕事になっていた。
 専門の研師はすでに鎌倉初期の御番鍛冶に付随していたとする説と,建武中興の頃とする説とが有るが前者の説が有力である。研の実技については当時は勿論,その後にもテキストらしい書物を見ないが,江戸初期になるとようやく目にする。寛永(1624)頃に出た「如手引抄」十一巻本によれば,「昔は地を青く,刃を白くなるように研いだが,今は逆に地を白く,刃を青く研ぐようになった。地を青くするには青い砥石,白くするには黄色い砥石を使う」との記述がある。

 研師の本阿弥光甫によれば,以前は研も分業で,下研ぎ・中研ぎ・水仕立て・拭い・磨き,とそれぞれ得意とする工程を分業でこなしていた。将軍家の名物「三好正宗」を研いだ時も,下研ぎから水仕立て迄は本阿弥光由,拭いは光瑳,磨きは光甫が担当した。なかでも光瑳は全ての工程で名人の域に達していたと云われている。

 江戸期に於ける拭いの方法は,本阿弥光徳が慶長(1596)頃に始めたと云われてますが,水心子正秀は「目利きと云う事の始まった昔から,段々に工夫されたもので光徳一人の工夫ではあるまい」と光徳説を否定しており,当時の目利きの窪田清音も「慶長以前に研いだ刀を見たが拭いは既に入っていた」,と述べている。

 金肌拭いは本阿弥家の創始というので,“本阿弥研ぎ”とも呼ばれた。宝暦(1751)頃から一般にも流行していたが,寛政(1789)頃になると行われなくなった様である。併し金肌拭いは中国で古くから行われていた方法であり,「事林広記」には落鉄(金肌)三両・木炭一両・水銀一分の割合で混合した粉末を刀身に付け油布で磨くと記載されている。ひょっとすると本阿弥家はこの記述にヒントを得て,金肌拭いを始めたのカモ知れない。

※「金肌・鉄肌」酸化鉄の皮膜。火肌・スケールScaleとも云う。
 作刀の時に熱せられた鋼鉄と空気中の酸素が化合して出来た物で刀身が冷却すると
剥離する。金床(鉄を叩く台)に水をかけて冷却した上に刀身を載せて槌で叩くと容易に剥げ落ちる。これを拾い集めた物を砕いて研ぎの拭いに用いる。

 実際は「金肌拭い」は既に慶長(1596)から行われていて,“鞘店研ぎ”という安研に用いられていた。これは刀の錆びた箇所だけ上鏡寺砥石で研ぎ,その鑢目を中名倉砥で取り,次に小名倉砥で研いだあと,あわせ砥に簡単にかけ,最後に金肌で拭う,と云う手抜き研ぎを鞘店でやっていたので「鞘店研ぎ」の名が生まれた。

 明治になる迄の研ぎは,所謂“差し込み拭い”で地味な仕上げであったが,一部には“薬研ぎ”も行われていた。明治になると,本阿弥平十郎・琳雅父子によって薬研ぎを利用して刃を入念に拾う“仕立て拭い”の方法が確立されて,今日では差込研ぎは殆ど途絶え,一般に“仕立て拭い”が全盛である。
 因みに名古屋の徳川美術館の蔵刀は大半が江戸期の“差し込研ぎ”である。

 次に「研ぎの実際」を申し上げる。
刀の研ぎの実技は (1)整形研ぎ 刀の格好や凸凹や疵などをなおす最初の研ぎ。錆びや朽込みの酷い物は金剛砂砥も使うが,普通は先ず伊予砥を使う。右手で握る刀の部分に裂手と呼んでいる布切れを巻きつけ,左手で刀身を押さえつけ“切り”,つまり刀身を真横にして,砥石と直角になった形で刀の元の方から順々に切先の方へと研いで行く。
 その場合,まず平の鎬寄りの方を元から先まで一貫して研ぎ,次によれより少し刃
寄りを研ぐ,という具合に数回に分けて研ぐ,平地が終わったら鎬地をまず切りに研ぐ。ここ迄は砥面は平面であるが,次に鎬地を筋違いに研ぐので,砥面を心持ち中高にして置く必要がある。棟は筋違いか“引き”つまり刀身を砥石と平行にして,手前に引いて研ぐ。最後に切先は左手だけを動かして“切り”に研いでいく。

(2)砥目抜き 整形研ぎでついた砥石の跡を消していく作業。作業の順序は,(1)と同様で
A 平・鎬・棟・切先,の順で砥面は浅い蒲鉾形で大筋違に研ぐ。
B 名倉砥 砥面は浅い蒲鉾形で,初め中名倉砥,次で細名倉砥で縦にしゃくって研ぐ。
C 内曇砥 平には硬めの砥を浅い蒲鉾形,刃の方は軟らかめの砥を平面にして置いて力を入れ引き研ぎにする。ここで地や刃の働きが現れてくる。鎬地や棟も同様である。
D 鳴滝砥 これで砥目を完全に消す。研ぎ方は内曇り砥と同じ。

(3) 仕上げ これからの工程は昔から,秘伝や口伝があり個人差が大きい,普通の研は

A 刃艶を大村砥で摺り,葉書の二倍位の厚さにしたものを1cm程の大きさに切り,更に内曇砥で摺り平滑にし,内曇砥の汁をつけて刃の上に置く,それを親指の腹で抑えて刃の上だけを磨いていく。
B 地艶。これには刃艶と同様の使い方と,“砕き”と云う地艶を細かく砕いて使う方法が有る。砕くのは地艶を鎬の上に載せて押すと簡単に割れるので,それを縦と横に繰り返せば細かな破片になる,それを親指の腹で押さえて防錆用のソーダ液を掛け乍ら,先ず鎬地つぎに平地を磨いていく。尚,棟は磨かなくても良い。
C 拭い。地鉄に光沢を出させる為の作業。昔は“差込み拭い”と云って,対馬砥の粉末を拭い粉として使う方法が普通だったが,現在は“金肌拭い”と云って金肌の粉末を拭い粉にする。それに丁子油が椿油を混ぜたものを数枚重ねた吉野紙の上に垂らすと濾されて下から出てくる。それを刀身上に点〃と付けておいて,綿の球を親指の腹で押さえながら,刃と帽子を除いた部分を満遍なく拭うと地は黒光りする様になる。
D 後刃取り。拭いが刃縁にも幾分かかり黒くなったのを再び白くする作業。刃縁に角粉をつけて拭き油気を除いたのち,軟らかい内曇砥で擦った砥ぎ汁を刃先に付け,軟らかい刃艶で刃の部分だけを刃文の形に沿って磨いていく。この作業を数回繰り返すが,刃境をぼかすため刃境には回数を少なくする。
E 磨き。鎬地と棟をメッキをしたように光らす作業。角粉で油気を完全に除いた後,水蝋の粉末を布切れに包み,それで刀身を叩くと粉末が出てくる。その上を磨棒で根気良く磨いていく。
F 帽子の均るめ。これが最後の作業である。先ず横手の線を決めるために横手板を当て帽子の方に内曇砥の汁を付け,其の上に刃艶を載せ,それを均るめ棒で押さえながら動かすと横手板の境に横手が出来る。次に均るめ台の上に濡れた紙を敷いた上に大型の刃艶を置いて左手で切先を動かし乍ら研ぐ事で研ぎの全工程が終わる。


 天正期(1574〜91)に来日したルイス・フロイス宣教師の観察した研師のレポート。「日本では研師は高尚な職業とされており,大名を辞めて研師になった者も居る」,と述べている。実際,津和野の城主であった吉見正頼は大名を辞めて研師になっている。
 江戸時代に於いては幕府目利所の本阿弥家が研磨と鑑定を行った他,「国花万葉記」「京羽二重」等に伝統のある老舗の研師の名が見られ,社会的役割の高い職業であったことが知れる。

 鋼を何度も鍛え合わせて強靭な地鉄を作ると共に,鍛肌の美しさを愛でる習慣が生れ,また焼き入れにて生じた刃文は丁子・互の目・動乱刃と様々に変化し美感に訴えている。日本刀に於いて研磨と云う事は,切る為に刃を付けるだけでは無く鑑賞を目的とした,実用を遙かに超えた技術の発達をなしている。

 私が感心させられるのは,昔の人は実に物をよく熱心に見ていたな,と思う事である。「地の肌が欅木などの如くむら〃〃と杢なり」・「鍛は柾目が細か也,地色は底が黒めに青く見えれど上に赤き色有り」・「鍛え板目さらりとしたる肌也,地色青く輝きてきら有」これらは何れも主観的表現ではあるが,それぞれ鉄色の微妙な相違を特徴づけている。

 刀剣と云う酸化して赤く錆び易い性質の物が数百年を超え,今尚,健全な姿で輝いてる事は奇跡に近く正に世界に類を見ない。これは長い歴史の中で伝統が大事に継承されて来た事の証しであり,日本人の美意識の証明であり底力である。未来永劫この気持ちを持ち続けて参ろうではござんせんか。さすれば世界は日本を高く〃〃評価するでしょう。

図解 (1) 研師(職人尽絵・川越・喜多院蔵)
  折り烏帽子をかぶった研師は俎板状の研台の上で,左膝を折り右膝を立てた前屈みの姿勢で研いでおり,砥石は研台に載り研ぎ桶は円形で大きく,研師の左前に置いてある。この図で注目すべきは,研師の妻といえども研ぎ場には入れず,壁の後ろから手だけを出して刀を渡そうとしていることである。

図解 (2) 盥研ぎ(「職人儘発句合」より)
 丁髷頭で襷がけの研師が胡坐をかき,刀を手に取り見入っている図。
前には大きな砥石を入れた盥が置いてある。
御 刀 研                 とぎかるしとするとふ
    霜の剣水のごとく          いいつめしハ此職に応せし
      とぎすまし           仕立てなるべし

図解 (3) 研(職人尽絵・七十一番歌合 東京国立博物館)
 折り烏帽子を被り左肩脱ぎとなり,腰刀もない砕けた姿の研師で,研台も無く胡坐をかいた姿勢。細長い砥石の向こう側に枕をすけて,手前を低くして刀を研いでいる。研ぎ桶は四角で大きい。
 他に,健保二年(1214…鎌倉前期…順徳帝の御代)の堂上公家の「東北院歌合」の中にも「我やどのとみず(砥水)にやどる月影のあやしやいかにさびてみゆらん」の刀歌がある。

 さて,研ぎに付き説明すべき事は未だタント御座んすが,皆様もこれ以上ですと食傷気味になられ体調を崩されると,申し訳もござんせんので,この辺で終りと致します。最後まで読まれた方はタントはいらはらせんと思いますが,深甚なる敬意を表します。お申し出を頂ければ,ホワイト・チョコレートでもプレゼントを致し度く存じおります。ご遠慮なく,官・姓名を名乗ってご連絡ください。但し在庫の関係で女性を優先致し候。
  新木場 3?8?23 愛三木材(株) TEL 3521?6868 FAX 3521?6871 名 倉 敬 世


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