東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(3)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 三月十四日は何んの日でしょう,と問えばほとんどの人は,ホワイトデー,と答えるでしょう。つまり,一ヶ月前の聖バレンタインデーと共に,若い男女が,本命だ,義理だ,と云って,心をときめかす日であります。
 「義理が廃ればこの世は闇よ」と,人生劇場で,吉良仁吉はうたっています。
 「風さそう花よりもなおわれはまた春の名残りをいかにとやせん」
 これは,播州赤穂藩主 浅野内匠頭が,江戸城松の廊下で,吉良上野介に刃傷し,即日切腹の命を受けたときに,詠んだ辞世の句で,時は春爛漫の三月十四日でありました。
 翌年の元禄十五年十二月十五日と云えば,「草木も眠る丑満どき,本所松坂町に響きわたる山鹿流の陣太鼓」主君の無念を晴らす大石内蔵助以下四十七士による討入りの日であります。
 本所松坂町は今の墨田区緑町に当り,京葉道路の南側一方通行路の辺りに吉良邸はありました。屋敷跡には二間四方くらいの小さな神社があって,吉良上野介が祀られており,今でもお詣りする人がいます。近くに隅田川が流れており,二つの国を結ぶ両国橋が架っていました。
 吉良家と云えば,鎌倉以来,足利尊氏の五代前,義氏を祖に仰ぐ名家であり,家康は吉良氏を重く用い,征夷大将軍の位を皇室から授与される際,働らいた功績により,禄高は少なかったものの,高家筆頭に任じ,儀式,典礼を司る役目を担わせておりました。
 家康は,信長,秀吉と違って,義理を重んじる人で,他にも,人質時代属していた今川氏が滅びると,今の杉並区に今川神社を建立しました。その辺りを今川町と云います。足利幕府は十六代義昭で終焉しますが,家康は子孫に小さな領地喜連川を与えて存続させました。
 六代将軍綱吉は,神君家康以来の吉良氏への義理を欠いて本所へ追放しますが,赤穂浪士は,主君匠頭への義理を文字通り,命を懸けて守り,見事本懐を遂げました。
 江戸時代の人々も,現代の若い女性達のように,義理と人情を両立させる器用さを備えていれば,歴史は変っていたことでしょう。




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