東京木材問屋協同組合


文苑 随想

酒蔵めぐりNo.8

淡麗本格酒蔵「腰古井」
千葉(吉野酒造(株))

蔵見 雄作

 最盛期には全国に酒蔵が4,000蔵ぐらいあったらしいが,最近では1,500蔵ぐらいになってしまったと言う。理由はいろいろある。消費の多用化や,輸入による状況変化等がある。現在,酒と一口に言っても酒(アルコール製品)となると,大きく別けてもビール・発泡酒,ビアテースト(低アルコール)ドリンク,ウイスキー,ブランデー,スピリッツ,リキュール・カクテル,チューハイ,ワイン(国産,輸入),中国酒,日本酒(清酒),焼酎甲類,本格焼酎(乙類),等々の種類があるのだ。
 その1,500蔵の中にあって,古い伝統を守り,ひたすら名酒を作り続けていると言うこの蔵元,吉野酒造(株)が今回の「酒蔵めぐり」の探訪報告である。

 千葉の勝浦市街から西に興津越えして,少々山の方に国道297号から県道82号を行くと,植野という昔ながらの場所がある。一見して,とても古い集落があり,中には新らしく作った家もちらほらあるが,昔のままの田舎の光景を思わせる。この丘陵地の一角に,ぐるりと塀を廻らした瓦屋根の古風な建物がデエーンと建っていた。江戸時代の大きなお屋敷といった光景だが,酒蔵には赤煉瓦の煙突が必ずあった。この酒蔵は特別大きい物が天を突いていた。誰が見ても,この煙突を見ると,酒蔵と分る佇まいである。ここが今回の蔵めぐり場所,名酒「腰古井」,蔵元吉野酒造(株)である。
 休日の蔵めぐりの為に我々だけに蔵を開けて待っていてくれたのは,社長の吉野美江子さんであった。
 バスを降りて一番先に案内された場所は,なんと,敷地内にある代々伝わる(酒蔵)神社ではないか。
 いろいろ蔵めぐりを行って来たが,小さな神社はあったものの屋敷内にこれ程の神社を祭っている酒蔵はお目にかからなかった。我々の一行の中に祝詞の出来る人がいて,しばし,祈願で礼拝する。
 ここの女社長,成田空港から最近帰って来たような国際感覚溢れる話しぶりに,思わず(酒蔵の主人なのかと)勘違いするような雰囲気を持っていて,この片田舎でなんと場違いな人であるとも思ったのである。
 そこでちょっと話は長くなるが,美江子女社長の生い立ち等を聞いて記して見た。

 彼女は九州の久留米市に生まれた。生家は繊維問屋で多くの人達が出入りする旧家で,父は自民党代議士の後援会長を務め,地元では名士で有名だった様である。そんな関係で地元の小中学校を出てから,東京の高校に進み,大学を出て,ビジネス・スクールまでも勉学に励んだ。丁度その頃初めて開催された国際見本市で通訳に採用され,アメリカから来たバイヤーのアテンド役も務めたと言う。
 エール・フランスのスチュワーデス試験にも合格したが,両親の猛反対もあって,止めている。昭和30年代初めの飛んでる若い女性にとっては,海外へ行ける手立ては,この辺りかも知れない。彼女の海外への夢は小さい頃から育まれたのである。
 縁と言うものは不思議なものである。その頃,吉野酒造の御曹司は,大学を出てから,アメリカで学んだ商社マンであった。出会いは聞けなかったが,縁あって結婚し,新婚生活は,夢にまで見た海外生活,アメリカのハリウッドで始まったと言うのである。
 商社の海外駐在員の妻として,彼女は多くのパーティーで飲まねばならない役をこなしたと語る。
 当時はハードリカー全盛の頃で,アメリカ人もウイスキー,ジン,ウォッカと,強い酒を沢山飲んだ時代だったらしいが,吉野の御曹司はこれをこなしたと言うから,かなり酒豪だったのであろうと想像する。
 一般的には日本人は西欧人に比べてアセトアルデヒドの分解酵素が少なく,酒に対する免疫があまり無いらしい。
 それに対して西欧人は,前夜どんなに飲もうが,朝からびしっと仕事をすると言うから,日本人との違いもこんな所に多少あるのだろうか。
 夫君は素晴しい商社マンであったらしい,ヨーロッパもソ連も,アメリカも股にかけて活躍し,酒も経済もアメリカ流民主思想も,彼女はイコール・パートナーとして徹底的に叩き込まれた。アメリカでは(海外)日本と違い,妻は夫の仕事の半分を分かち合わねばならないのである。
 彼女は幼い頃から積極的で物怖じしないタイプで,昔の教育も受けており,九州女の女らしさもあって男性をたてる事も,しおらしさも,実家の祖母を見て育ったから,企業家の素質もあってすべて分かっていたのである。
 そんな訳で,彼女は通算10年に及ぶアメリカ暮らしの中で日本とアメリカの食文化,生活文化の違いをじっくりと体験したのである。そして間もなく,夫君は事情があって,商社を辞めて,千葉に帰り蔵元の社長になった。
 そして彼女は今まで培った性格から水を得た魚のように活躍し始めたのである。
 彼女はその海外生活で得たものを基盤に日米協会理事長の提案で米国でも日本酒の紹介を,と勧められた事が発端となり,世界市場への紹介が始まったと言う。
 平成3年(1991年),夫君が社長になってから彼女の肩書きは副社長,言うなれば「腰古井」の「女将」なのである。
 平成9年(1997年)秋,女性同志の友人たちと「酒を通して語る日本人のこころ」と題する文化シンポジウムを企画,北米三都市で展開することが出来たと回顧する。その時驚いたことに,利き酒会場に並んだのは日本料理ではない多国籍の料理で,その時の各地のレストランのボランティアであったとのこと。アメリカの人々の関心は予想以上で,その時,「女将」はハッピ姿で利き酒サービスに徹したと言う。
 翌年の平成10年(1998年)秋にはワシントンの日本大使館で「日本酒まつり」が催され,企画時から参加,会場では熱のこもった質問攻めに合い大わらわだったが,それに答えつつ日本酒が今グローバル化する確かな手ごたえを感じた,と語った。
 日本酒はあらゆる料理と馴染み,「料理の風味を余すところなく引き出す酒」として,世界に人気が広がるのではと言ってくれる有名な外国人も居たと言うのだ。
 これからの酒は食文化のもの,そして日本の気候風土に優しく培われてきた世界に共通する素晴らしい「酒」を味わってもらうために,「女将」は,海外に出掛ける時,「腰古井」の瓶を手荷物として携えて行ったと言う。
 「杜氏」が丹精込めて造り上げた日本の特産品を長時間かけて運ぶ途中,事故や気温の変化で味や香りが落ちては,試飲してもらう方々に申し訳ないと思うので,大変気を使う仕事である。
 「日本の酒とは,何とこんなに素晴らしい飲み物なのか」と海外の食文化紹介の席上で賛辞を受けるとき,「女将」は重い荷物を抱える旅の苦労が吹き飛んだといった。
 こんな努力を二人でやって来て,やっと,日本の酒も世界の「サケ」になりつつあった4年前,吉野酒造の社長夫晋氏が急死した。
 それからの「腰古井」の「女将」は,社長として吉野酒造の全部を担って,今,全力投球し奮闘中である。
 人の人生にもいろいろなケースがあるものだが,九州の久留米の遠い所に生まれ,千葉の片田舎の御曹司とふとしたきっかけで知り合い結婚,その後,夫の早死により,苦労を続け,今から約200年前もの天保年間に創業したと言うこの蔵元の13代目の社長として切り廻しながら,日本の「サケ」を世界に売る人間,その方が吉野社長なのである。
 東京国税局新酒鑑評会では最優秀賞,局長杯を受賞し,その上,受賞が最も難しい全国新酒鑑評会の金賞を,何んと10回も受けたという名醸蔵なのである。
 今回の蔵めぐりは,女社長物語風になってしまったが,こんなはりきり「女将」女社長も蔵元には,居ると言うことを紹介したかった。そして益々これからも良い酒,おいしい酒を造り続けて頂き,千葉名酒「腰古井」が,日本の酒,世界の「サケ」となって貰いたいと思う。

平成18年4月30日
吉野酒造の蔵と赤レンガの煙突
この瓦の蔵は100年以上経っていて,職人が居ないので修理に苦労しているよである。休みの日に訪問した。
敷地内にある神社,創業天保年間,約200年前からの神社かは,分からないが,大変古い神社と酒蔵である。
酒蔵の中野大釜。地下より,取り出す昔からの手作りのようだ。 我々を送ってくれる「女将」いや女社長の吉野美江子さん,がんばって欲しい。



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