東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.76

「江戸城再建を目指す会」について

青木行雄

※明暦3年(1657年)の大火で焼失した天守台の(高さ18メートル,一辺44メートル四方の石積み)上に高さ約60メートル,5層6階の天守閣を再現した,イメージ写真である。これに,松の廊下,大奥も再現出来れば,東京の(江戸)大変なシンボルとなり,最高の観光資源となるのではと,夢は大きい。

 平成18年4月25日,「江戸東京博物館」において,NPO法人「江戸城再建を目指す会」第1回総会,(NPO法人設立記念総会)に友人と共に出席した。材木屋は我々2人だけだったかも知れない。最近,ちょくちょくと新聞等にこの再建の話を見る事がふえて来た。私の会員番号がNo. 276番だからまだ会員は少ないと思ったのだが,総会は熱気に溢れ大変な盛り上がりで,会議室には会員がいっぱいで,恐らく数百人は居たであろうと思う。

 今から15年程前,皇居東御苑やその周辺を時間をかけて友人と一日ゆっくり探索した事があった。その東御苑の中に天守閣焼落後の台座のみが,335年経ったその時もきれいにその容姿を輝やかせていた。その姿を見た時,誰もが,この上に「天守閣」をと思わぬ人はいないのではとも思った。そしてある時,都会議員のある人にこの事を話し,きっかけの方法を相談し,組織・人材・資金などの方法を何人かの友人と,大袈裟にも考えた事があった。その議員からの返事は,「それはむり」の一言で終わってしまった。

 別に天守閣の公な再建話は20年ぐらい前,昭和天皇の在位60年の記念として,「昭和城」の名称として復元しようと中曽根康弘首相の時のアイデアとして自民党の有志議員が呼びかけたのが始まりで,当時の竹下登氏が蔵相の時,青写真まで作り大変乗り気であったと言うが,それが立ち消えになったとの話を聞いた事がある。その時の話では,大阪・名古屋には立派なお城があるのに,なぜ東京にはないのかということかららしいが,いつも私は,主要都市には結構,町のシンボルになっているのに,東京には何故ないのかと,関係者はだらしないなあと思っている1人である。

 それから約20年経った。一昨年,江戸開府400年と言う区切の年に再建運動が芽生え,関係者は苦労のすえ今日に至ったようである。今年の始め,この再建運動の記事を報道誌により1?2回,目にした事はあったが,友人の紹介で「江戸城再建を目指す会」に私も入会することになった次第である。

 入会した以上は「いつの日にか,幻の江戸城再建を…」…この壮大な夢に向って行動を,と言うことになった。
 「江戸城再建を目指す会」の代表小竹直隆氏の趣意書があって,その趣意書を要約して記して見ると下記の通りである。

 「いまなぜ江戸城再建か?」

何処に,何を・・・ 皇居東御苑に遺された台座の上に,「江戸城・天守閣」を再建する。
運動のねらい・・・ 「江戸城再建により,輝きを失った日本人の自信と誇り,"アイデンティティ"を取り戻し,日本を,未来に夢と希望を持てる国にして行きたい。
3 つの目的・・・ (1)世界が認める,日本固有の歴史と文化を再発見,再評価する。そこから「この国のかたち」を見直し,日本再生への道を目指す。
  (2)再建江戸城を,魅力ある国づくり,「観光立国」のシンボルにする。
  (3)嘗ての「江戸城天守」が長い戦乱の後に希求した天下泰平のシンボルだったことを想起し,再建江戸城を平和の砦として,人際,国際交流の一大拠点とする。

 小竹氏は,元JTB代表取締役専務をされた方で海外でも活躍された方と聞いている。又アメリカにも滞在された事があり,アメリカから見た日本の在り方や,江戸城に取組んだはっきりした考え方を記して見た。

※ 日本は嘗て,世界に比類ない魅力的な国だった!
 嘗て江戸期から明治にかけて来日した外国人は,日本が比類ないユニークな文化と風俗習慣を持った世界で最も魅力的な国の一つだと称え,貧しくとも心美しい日本人を等しく賞賛していた。その古き,良き時代はまさに「江戸時代」の歴史的,文化的風土の中に培われてものだった。「江戸城再建」は,嘗て光輝いていたこの国の,日々の暮らしの中に根付いていた古き,良き伝統や文化を再発見することによって,日本人自身が見失った日本の心,日本人のアイデンティティを取り戻す…これが「江戸城再建」の大きな目標の一つである。
※ 所謂,「箱もの」はつくらない
 「観光」は本来「国の"光"を観る」の故事(中国易経)に由来する。"光"とは,人々を惹きつけるに足る"光源体"ともいえる「磁力」に他なりません。再建江戸城は,このような「磁力」を持つ存在でなければならない,所謂「箱もの」や,まがい物のお城はつくらない。「江戸城」は,歴史や文化,人間のドラマを体現し,ストーリー性のある,内側から輝く,「磁力」があると信じる。それなくして「江戸城」は,真の意味での「観光立国」のシンボルにはなり得ないと考える。
※ 「江戸城」が再建されれば,
 「江戸城天守閣」が再建されれば,コンクリート・ジャングルが建ち並ぶ都市東京の景観は一変すると思う,「江戸城」が再建されれば,「物づくり大国」の道すがら,私達が何処かに置き忘れて来た日本の心・日本固有の歴史や文化を大切に抱きしめる心,人情を重んずる心優しい風土…を取り戻すきっかけになる,と思う。「江戸城」が再建されれば,先行き不透明で,屈した精神風土の中で,私達が見失って来た自信の誇り,夢と希望を取り戻せるかも知れない。
 このような動機づけから,
 「江戸城再建」が,いつの日にか必ずや実現することを信じて,私達は立ち上がった。

 江戸城の再建については,江戸城そのものについて予備知識が必要なので,簡単に要約して記して見た。

 江戸城(居館)は11世紀の後半,秩父重綱の子の江戸重継によって,その居館として誕生している。
 建久3年(1192年),源頼朝が征夷大将軍となり鎌倉幕府が創建された時には既に,江戸重長の守る「江戸城」は,堅城として認識されていたと言う。その江戸氏が居館としてから270年後,長禄元年(1457年),上杉定正の家臣,太田資清の子,太田道潅が江戸城改築,その頃はいまの日比谷から丸の内一帯には,まだ海水が湾入し,この辺に漁民が住んでおり,風光明媚な海岸線であったと記されている。
 その後,上杉氏,北条氏と居城主は変わり,平正18年(1590年)8月,関東八ヶ国(関八州)太守として徳川家康が江戸城に入居する。
 慶長8年(1603年)家康は征夷大将軍となり江戸幕府を開く。
 慶長12年(1607年),天守閣が完成する。
 寛永13年(1636年),家康が入府してから,46年後,日本の史上空前の巨城,江戸城大修築は竣工した。
 この時,家康は,城造りの名人藤堂高虎に「江戸城の天守閣は,武蔵野につくる新しい富士山だ」と,どこからでも目印となる大天守の造営を命じたのである。
 この本丸にそびえた五層,58メートルの大天守閣,当時は大変どでかい建物であったと想像する。因みに大阪城は30メートルである。広さも当時の大阪城の2倍あったと言う。それもそのはず,全国の諸大名に30年がかりで造らせたのであった。
 それから江戸城大修築竣工後21年経った明暦三年(1657年)の大火で大半が焼け落ち,雄大華麗な容姿を誇示した大天守閣も灰と消えたのである。それから約350年近く経った今も,前にも記したが,天守閣跡には高さ18メートル,一辺44メートル4方の石積みが(約200m2)残っているだけである。
 焼失当時から再建論争があって,資金は用意されたと言うが,町の再建の方へ先行し,台所の事情もあってか,シンボルを欠いたまま,時は流れ,天守閣の再建は日の目を見ないまま現在に至ったのである。
 前にも記したが,再建の話は出ては消えて,又今の話が再燃したのである。

※明暦3年の大火により焼失した後,天守閣の代用としたと伝えられる「富士見櫓」,皇居前広場からよく見える。

 人々にお会いすることは,実に嬉しく,楽しく,勉強になる。この再建の会に入会した事により,いろんな素晴らしい方々にお会い出来た。これからも期待したいと思っている。
 今年は太田道潅による築城から,550周年目になると言う。一会員として,この再建の会の運動に協力したいと言う。太田道潅十八代目の子孫,太田資暁さんにお会いできた。東京海上日動あんしん生命保険の社長さんである。この7月に発行予定の太田道潅520回忌記念誌の案内を頂いた。

 この「江戸城再建運動」が,多くの人々の共感を呼び,夢で終わることなく現実のものとし,甍ひかり,勇壮な白壁まぶしく,聳え立つ五層六階の大天守閣が再現出来ることを夢見つつ,一会員として微力ながら,頑張って見たいと思って記した次第である。

平成18年5月5日
 

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