紀行文
ルネッサンスの都の旅(上)
−ミケランジェロを追慕して−
元(株)カクマル役員
酒井 利勝
目 次 |
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I ミケランジェロ |
III フィレンツェ |
1 ピエタ |
1 ウフィツィ美術館 |
2 最後の審判 |
2 ダヴィデ |
3 サン・ピエトロ大聖堂 |
3 アカデミア美術館 |
4 ローマ市内 |
4 フィレンツェ市街 |
5 ナイトツアー |
5 サン・ミニアトの丘 |
II アッシジ |
6 教会の音楽会 |
I ミケランジェロ
1.ピエタ
ローマのサン・ピエトロ大聖堂へ入って暫く進むと右側にミケランジェロ作 ピエタ像がある。私が初めてそれを目にしたのは,1984年だった。
「全身の悲哀の中に,崇高にして若き美しさに溢れる聖母マリヤ,聖母に抱かれるキリストの肉体に見る苦悶のあとの安らかさ,卓越した全体像のバランス,このように美しい造形が,かつてあったろうか。人間はかくも崇高な悲愁の美を創造し得たのであった。」
当時の感動を記した拙文である。
『サヴォナロラの殉教の1498年5月の直後,その8月にミケルアンヂェロは"ピエタ"の製作に着手した。1501年,26歳のミケルアンヂェロはこの製作を完成した。そしてこの"ピエタ"こそはミケルアンヂェロの最初の傑作となったものである。
"ピエタ"は古今の彫刻いな藝術いな思想のなかに第一義的の独自の美しさを表現している。悲しみにつつまれたマリアの衣のひだ,その膝によこたわる十字架よりおろされたばかりのクリストの全裸身,このコントラスト! そのクリストの裸体は,最も純眞なる人間性が最も邪悪な暴力にわが生命をあたえることによって,死せざる人類の希望を救ったその苦闘のかがやきを,解剖学的精密さのうえに,死して生ける肉体と皮膚の光沢として表現している。……ミケルアンヂェロはクリストとその母なるマリアとの年齢的関係というあたえられたる条件に全く拘束されなかったのみでなく,一つの独創的彫刻家としての彼があらゆる非彫刻的また彫刻的の諸条件のすべてを最も忠実に研究しつくした上にそれらをことごとく克服し去って全く自由に一つの全く新なる藝術的表現として,かれの偉大な芸術家いな人間としての独創が発揮されたのだ。』
今回の旅は,「ルネッサンスの都と聖地アッシジの旅」(06. 5. 10 成田空港発)と題されていた。ローマへ到着した翌朝,第一にヴァチカン宮殿を訪ねたスケジュールもそのテーマに見合うものだろう。
ラファエルの間(有名な"アテナィの学園""キリストの変容"等ラファエルの作品がある)四室を過ぎて,やがてシスティーナ礼拝堂へ入る。天井の大壁画はミケランジェロの作である。1508年の5月から1512年の10月まで4年余の辛苦の作でもあった。この仕事を完成した時,彼は37歳になっていた。
ジウリオ法王に礼拝堂の天井壁画を命ぜられたミケランジェロは,自ら"色彩に熟達していない"とし,その仕事をラファエロに依頼することを願ったけれどきかれなかった。
『ミケランジェロは"元来自分の専門に属していない"絵画の技術をその絵を描きながら独自の天才的絵画法にまでたかめねばならなかった。このカペラ・システィーナの天井の壁画の全体を,絵画と建築と彫刻との綜合において構図したミケランジェロのコムポジションには絵画史上に未曾有の独創が発揮された。天井の四方の周囲から中央に向かって描かれた柱の列は,それぞれの位置の美しい彫刻のような裸体および簡素な着衣の人物の像をともないつつ,天井壁画全面をみごとに立体的に構成し,その中心の天井の中央部は端から端まで天井をつきぬいてさながら開かれた大空のようである。何という自由なる構図であろう。与えられたる条件の何という超越的克服であろう。そして最後に,この立体的に区劃された各部分が有機的に構成する全面に"天地および人類の創造"を中心とする主題が,何というすばらしい簡潔と変化との綜合において,えがき出されているか。
この大作が完成したとき,まだその足場をとりはらったほこりの立つなかに全ローマはここに殺到し,この奇蹟的作品を絶讃したともいうし,今日この壁画の複製またはその部分,たとえば,左手をのばして全能の神の創造の生命をうけて左足をまげ右足をのばし,右手に上体をささえて起き上がろうとしているアダムの裸体,または予言者エレミアの坐像の右上に光を闇よりわかつ神を仰ぐ柱の下にみつめる青年の裸体のプロフィル,または,デルフィカのシビラの世にもまれなる美しき賢き女性の表情等は,全世界に今なおよろこびしたしまれている。』
2.最後の審判
『そしてミケルアンヂェロは約8年の月日をかけて,1541年"最後の審判"を完成した。これはカペラ・システィナにおいてその当時壮年35歳の彼が溢れるような希望に燃えて二箇年前後で描きあげた天井の大壁画につづいてそのカペラの正面聖壇の壁にいま65歳をこえた彼が悲痛をおさえてえがいた辛苦の大作である。
"怒れるクリスト",しかり,いまここに見るカペラ・システィナの正面に立つ"最後の審判"の壁画の中央にえがかれたのは,"怒れるクリスト"である。
バサリはいっている。"絵画を理解する人は,ここに他のいかなる藝術家もあらわしえなかったような思想および感動,若きまた老いたる,男性また女性の,人間のあらゆる表情と動作との描冩における恐るべき藝術の力を見るであろう。…これは一の現実の最後の審判であり,おごれるものに対する永劫の悪魔的罰であり,悩めるものの人間的復活である。"
1541年12月25日 クリスマスの日に,この大壁画は除幕された。全イタリアから,いなフランスから,ドイツから,オランダから,群衆はローマに集り来ってこれを仰いだ。
見るものはみな驚倒した。バサリは記している,"そのとき私はヴェネチァにいた。私はこれを見るためにローマに行った。これを見たとき,私は雷にうたれたように感じた。』
システィーナ礼拝堂は,立錐の余地もない程の混みようであった。ヴァチカン宮殿をめぐる大行列と同じく,かつて見なかった状態だった。空前絶後ともいえる偉大なミケランジェロの藝術の前に長い間私は立ち尽くした。
3.サン・ピエトロ大聖堂
感動さめやらぬまま,システィーナ礼拝堂を出ると,それはそのままサン・ピエトロ大聖堂に連なっている。
ミケランジェロは1548年法王ジュリオの委嘱によってサン・ピエトロ大聖堂の建設或は再建に努力した。大聖堂は1506年,ブラマンテがその礎石を置いてから,その壮大な建築の容易に解決されがたい困難のゆえに年久しく完成せずにいた。
ミケランジェロは先輩ブラマンテの設計を新に復活させ,サン・ピエトロのドゥオモを完成にみちびいた。『後にヴィクトル・ユウゴオは,"この巨人はパンテオンの上にパンテオンをつみあげ,われわれにサン・ピエトロを残してくれた。これは実に建築そのものが生みいだした最近最後の独創的事業であり,大藝術家の表徴であり,永遠に伝うべき唯一の傑作である"といった。ミケルアンヂェロは,真にサン・ピエトロにゆるがぬ建築の最大の典型を実現した。驚くべく簡潔にして力強い基礎機構の上に,あの高さ,あの明るさ,あの調和をもって,びくとも動かぬ緊張の上に,なにものにもとらわれざる自由そのものをもってのびあがっているこの壮大無比のドゥオモのクーポラの円と直線とに,あれらはミケルアンヂェロその人の偉大なる悲痛の生涯,自由独立のために辛苦したその藝術そのものの姿を見る思いがするのである。……
ローマは,老いたるミケルアンヂェロ?このさまよえるフィレンツェ人に同情をもって生活の地を与えたがゆえに,この稀有の天才によって,その古代に対してさえ誇りうべき藝術的美化を得た。カペラ・システィナの大壁画に加えてサン・ピエトロとカプトリノとがそれ以来ローマを世界に輝かせた。』
4.ローマ市内
サン・ピエトロの広場をあとにして,バスはローマ市内を東西に横断するような径路をたどり,サンタンジェロ城の黒くまるい城壁を右手に,テベレ河を渡り,ヴェネツィア広場で壮麗な白亜の建築ビットリオ・エマヌエル二世記念堂を仰ぎ,古代ローマの建築が最もよく保存されているというパンテオン神殿を眺め,コロッセオ(円型競技場,AD80年に完成した市内最大の競技場)傍に駐車する。
ローマ市内の交通規制はきびしく,車はなかなか目的観光物の近くまで行けず,かなり手前に駐車してあとは歩くしかない。
行く先はサン・ピエトロ・イン・ヴインコリ教会である。それほど広く,大きい教会ではないがここには,ミケランジェロの"モーゼ"像がある。
サン・ピエトロ大聖堂の"ピエタ"像の10?15年あとの制作である。人体大を一まわり大きくした程の白い大理石像だ。完璧に整ったモーゼ像,威圧的ではないが静かにきびしく迫ってくる。
昼食後は自由行動の時間だが殆どの人々は添乗員の案内する一般的コースに随い,私は「フォロ・ロマーノ」をひとりゆっくりと回った。従来,高みから眺めるだけで足を踏みいれる時間のなかった場所だ。古代ローマの宗教,政治,軍事,経済の中心となった広場の遺跡群。カピトリーノの丘とパラティーノの丘にはさまれた谷間に位置し,さまざまの市民集会が持たれた。石畳の道,古い石の階段を二時間ほど歩く。煉瓦造り二階建ての元老院。あちこちに残る凱旋門,教会の石柱,神殿のさまざまな柱。シーザーが元老院で刺されたのは紀元前44年,コンスタンティヌス大帝がローマ帝国の都をビザンティウムに移したのはAD330年。ビットリオ・エマヌエル二世によってイタリアが統一されたのは1861年だった。発掘は今も続いている。
長い,長いローマの歴史を回想しながら遺跡をさまよい歩いた。日は漸く傾むきかけて来た。
5.ナイトツアー
ローマのナイトツアーを…ということになって希望者6人,タクシー2台で夜のローマの名所めぐりをした。折しもローマは満月だった。
トレヴィの泉,四大陸の四大河を象徴する巨人像から泉が流れ出るナヴォーナ広場,流れる泉に月光が躍った。ヴェツィア広場のビットリオ・エマヌエル二世記念館屋上,三頭の天馬像の上にかかるローマの円月。やや暗くひっそりと佇むパンテオン神殿の16本の円柱,コロッセオのライトアップされた壁,窓々の輝きと闇。等々,書間既見の地域として訪ねなかった名所群の概ねを,明月下に歩み得たのは望外の倖せだった。昼間と全く表情の異なる,静かな陰影を持つローマがそこにあった。
過去と現在が,みごとに溶け合った町ローマ。
2000年の間,常に世界の中心であり続けた。世界に類例のない「永遠の都」ローマ。
この都の持つ文明と文化の厚みに人は去り難い思いをつのらせる。数限りないローマの名称,旧跡。だが思えばその中に聳立するのがミケランジェロの大作品だった。
II アッシジ
アッシジの町はスパシオ山の裾野の,少し高くなったところにあって,ウンブリヤ平原を遠くまで見晴らすことができ,たぐい稀なる景觀を持つ。アッシジを聖地たらしめているのは何といってもサン・フランチェスコ聖堂である。それは,生涯清貧を貫きキリストの聖痕をわが身に受けるという神秘的経験をして聖人となった聖フランチェスコの墓の上に建てられた寺院である。
道がいよいよ登りになるその手前,往き帰りにアマポーラの花畑の傍にバスを降り立つ。
遥な丘の上に聳え立つ聖フランチェスコ聖堂の塔を望むときに湧き上る敬虔な思いは忘れ難い。
まずはコムーネ広場を歩き,やがて上下二階建てになっている聖堂の下の入口から入場し,神父の案内に随って堂内を一巡する。
宿は聖堂のすぐ前を僅に下った「スパシオ・ホテル」だった。希望者は聖女クララを祀ったサンタ・キアラ教会へ回ったが,私は前回行っているので再び聖堂へ戻り,ジオットの壁画をはじめ寺院内をゆっくり拝觀して回った。聖フランチェスコの生涯を描いて堂内をめぐらす28枚の壁画は,初期ルネッサンスの名画とされている。やはり有名な「小鳥に説教する図」が最も感動的だ。背景の山の群青と白,少し紫がかった灰色の人物の衣,涼しくすっきりして澄んだ感じである。
回廊の一隅に掛けられたピストロ・ロレンゼッティ(シェナ派)の横長の聖母像も感動的だった。横2mぐらいの絵である。右にヨハネ,左にフランチェスコが立っている。背景の金色と聖母マリアの衣の群青の色のコントラストが何ともいえず爽やかである。
スパシオ・ホテルでの夕食後,階上のテラスで暮れゆくウンブリヤ平原の壮大な眺めをひとり楽しんだ。海のように見える大平原につぎつぎと灯がともされてゆく。翌日,朝食の前再びテラスに立った。すぐ右手にサン・フランシス聖堂の塔がそびえ,平原の霧は次第に晴れ渡ってきて,前回訪問時と全く同じように燕の群れが右に左に飛翔する。
III フィレンツェ
アッシジを朝発ち,トスカーナの丘陵地帯にある山上都市シエナへ向う。日本の城下町を思わせるふんい気を持つ町だ。ビザンチンの影響を強く受け,白・黒・ピンクの横ざまに並ぶ特異のデザインで内外装を貫くドゥオモの豪華さは,12世紀以来,商業と金融で蓄積したこの町の莫大な富を思わせるに充分だ。ひとによっては世界一美しいという,中世そのままの「カムポ広場」にしても然り,貝がらの形に広がり,淡い茶色の,ゆるい曲面が手前に向ってせり上がってくる。
昼食後,ほど遠からぬ塔の町サン・ジミニアーノを見学して夕近くルネッサンスの都フィレンツェへ入る。
中世,この町はフィオレンツァと呼ばれた。イタリア語でフィオーレは花。文字通りフィレンツェは花の都である。欧州の最先進都市を誇った文化と富と共和政体の輝かしい日々。
人間復権と自由を高らかに掲げて,フィレンツェは近世のあけぼのを告げた。
そしてミケランジェロは,そのルネッサンスフィレンツェの共和政体と自由を守る死闘の先頭に立って闘った偉大なる藝術家でもあった。
イタリア全土が生きた博物館であるように,フィレンツェは町中が,ルネッサンスの美術館なのである。
1.ウフィツィ美術館
メディチ家が富にあかせて集めた美術品を陳列してあり,世界最高の美術館のひとつ。シニョリア広場の正面,ベッキオ宮殿(現在も市庁舎として使われている)の右隣,アルノ川に向って長く延びる二列の回廊を奥でつないだコの字型の建物。
三度目の訪問である。一回目はボッチチェルリの「春」が,二回目は「ビーナスの誕生」が修理中だった。この度は両者とも鮮やかに蘇っていた。有名美術館は何度訪れても,余程重点を絞ってゆかない限り結局かけ足に終らざるを得ない。
この度も目安はやはり上記二点であり,ミケランジェロの「聖家族」,数多い聖母子像中最高の作と称されるラファエロの「びわの聖母子」(1506),ヴェネツィア派の巨匠チントレットの「ウルビノのヴィーナス」辺りに絞られてしまう。
だが,この美術館ほどルネッサンス絵画の頂点を極めた作品を数多く所蔵する美術館はない。14世紀のジオット(1267?1337)に始まり,チマブーエ,P.D.フランチェスカ,ウッチェッロ(1456年ころ)を経て,若き日のレオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知」(1472年ころ),ボッチチェルリの二大作品(上記),ラファエロ,ミケランジェロ等黄金期ルネッサンスの作品群のあと,けんらんたるベネチア派巨匠群の作品など,挙げてゆけばきりがない。
2.ダヴィデ
『ミケルアンヂェロは,いま生きている。疑うひとは"ダヴィデ"を見よ。』
昭和14年(1939)軍国主義下の暗い時代に自由への熱い思いを込めて,歴史学者羽仁五郎が書いた名著ミケルアンヂェロ。その冒頭の情熱的書き出しである。
ダヴィデの像は,フィレンツェのシニョリヤ広場に立っている。初めに見たのは1984年だった。長年の風雨にさらされてやや黒ずみところどころは汚れの筋もめだった。
『ミケルアンヂェロは,"ピエタ"の製作を終えるとともにローマから1501年春のフィレンツェに帰って来た。このときフィレンツェ自由都市は,重なり来る危機に果敢にも打ち勝ちつつあった。久しくつねにフィレンツェを離れていたレオナルド・ダ・ヴィンチもいまや五十歳にしてこの際フィレンツェに帰って来た。マキャヴェリがフィレンツェ政府最高機関シニョリアの第二書記局すなわち"自由及び平和のための十人委員会"の書記長として民兵制の確立に尽力していたのもこの時である。
かくの如き情況のもとに,1501年8月ミケルアンヂェロはフィレンツェ市民を代表する組合の一つである毛織物業者組合の選任をうけて,巨像"ダヴィデ"の製作を開始したのである。1504年正月,純白の大理石像"ダヴィデ"の大作は完成した。
このミケルアンヂェロの巨像"ダヴィデ"こそは,彼の最大の傑作となったのみならず,また,あらゆる意味においてかくの如きものは古今の彫刻いな藝術に未だその比を見ないといってよい。……
…"ダヴィデ"が立っているところの場所は,この"ダヴィデ"の意義についてさらに重要である。…それは他の何処でもなく実にただフィレンツェ自由都市共和制の最高政治機関たる議会の前面に,その民会の広場のまっただなかに,そのフィレンツェ自由都市共和制の純眞の自由独立をうかがうあらゆる敵に対して裸身毅然として立っているのである。』
3.アカデミア美術館
過去二回のフィレンツェ訪問の際もアカデミア美術館に収蔵されているダヴィデ像の,作品自体を目にすることはなかった。前回も道をへだててすぐ近くの,サン・マルコ寺院を訪れ,フラ・アンジェリコ画くところの「受胎告知」の清純な美しさに感嘆しつつも遂にアカデミア美術館を訪ねる暇がなかった。長い行列で暫く待たねばならなかったがようやくそのアカデミア美術館を入るを得た。
ダヴィデ像は,フィレンツェの自由の象徴としてシニョリア広場に置かれていたが,その損傷を慮って,のちここに移された。
高さ4.1m。シニョリヤ広場に置かれている像より4cm低い。実像は広場のそれよりかなり低いと想像していた私はまずその大きさに,ついでその汚れなき美しさに驚嘆した。
純白の大理石像は,像の頭上のキューポラから注ぐ円光に寂然と立っている。ついにミケランジェロの手になった眞実のダヴィデ像を仰ぎ得た感動は胸に溢れた。
「パレストリーナのピエタ」像は見るを得なかったが「奴隷」像四体は展示されていた。
メディチ家出身の法王ジュリオの墓の部分として,ミケランジェロが彫刻した奴隷像は六体。殆ど完成した二体は,いまルーヴル美術館にあり,未完成の四体が,ここアカデミア美術館に収蔵されている。
『あの"ダヴィデ"はフィレンツェ自由都市共和制の敵に対して戦いの決意に燃えて立ち,この"奴隷"は専制の束縄下の藝術及び人間性の自由の苦悶に身と心とももだえている。
ミケルアンヂェロはその中年時代から,その青年時代の作品の完成に対して,作品においてつねに未完成におちいる傾向をあらわした。青年の明朗をもってフィレンツェ自由都市共和制の希望のために製作し,完成し得た時代を過ぎて,ようやく成年の深刻な体験のなかにフィレンツェ自由都市共和制の悲運を眼前にその自由を圧迫する勢力のもとに製作せねばならなくなり,そうしてそれらの製作においてつねに未完成に終らねばならなかったことは,ルネッサンスの自由の藝術家ミケルアンヂェロの悲劇であった。』
4.フィレンツェ市街へ
フィレンツェの第三日目は自由行動の時間だった。
まず,サンタマリア・デル・フィオーレ(花の大聖堂)。ルネッサンス文化とフィレンツェのシムボルともいうべき存在。9時30分の開場を暫く待った。
先頭から三人目だった。世界第三位の大寺院,白,ピンク,緑の三色の大理石の配色が文字通り大輪の花のような美しさをつくり出している。
早朝で,まだひっそりしている堂内をゆっくりと拝見する。ゴシック式の堂内は整然として美しい。堂を出でてジオットの設計したゴシック式四角の鐘樓の傍らを歩み,ギベルティの作品で有名な洗礼堂の金の浮彫りを施した扉を眺めたあと,時計の針の逆回りに市内の主な寺院をめぐる。
(1) サン・ロレンツォ教会
メディチ家代々の家族が眠っている。街のど眞ん中にある教会。建築担当は有名なブルネルスキだが,これがルネッサンス史上余りにも有名なメディチ家累代の教会かと思うほど,特徴的ではあるが,つつましやかな外観である。内部は流石に広い。
『1530年,フィレンツェ自由都市共和制が遂に滅びたあと,ミケランジェロは10数年前からメディチ家に依頼されていたメディチ家廟墓の建築と彫刻にひたすら没頭した。55歳を過ぎたミケランジェロは,数ヶ月の間に4箇から7箇の巨大な大理石の裸体の像を製作した。「それは確かにメディチ家の墓であった。しかし,そこに,ミケルアンヂェロはメディチ家にへつらい屈服するなにものをも彫刻することはできなかった。…彼はフィレンツェの自由独立の倒れた闘いの後の,彼の内心の最高の感情を純粋の藝術的具体化において表現したのである。
三つの像とその下の四つの巨像。"夜""昼""夕""暁"これらはミケルアンヂェロの後期すなわちかの1530年以後の最大の傑作として,古今に卓越する。なかにも,"暁"(アウロラ)は最も美しい。かの若くして,"ピエタ"をつくり,そこから成長して,ついに"ダヴィデ"を起て,後,"奴隷"を彫り,1530年の苦悩からこの"アウロラ"をうみいだしたミケルアンヂェロは,なにによって,かくのごとく世界の古今の最高の藝術の天才を発揮し,これらの驚くべき創造をなすことができたのであろうか。』
なんとも最大に残念だったのは,祭壇が閉ざされていて,その何れをも見ることができなかったことだ。
(2) サンタマリヤ・ノヴェッラ聖堂
私達が宿泊したローマホテルからその前にひろがるサンタマリヤ・ノヴェッラ広場を距てて同聖堂がある。正面の完成は1470年,白と緑の大理石で調和のとれた代表的フィレンツェ風ファッサードである。
宏壮な内部は,ミケランジェロの師ギルランダイオらのフレスコ画が目をひく。
(3) アルノ川
暫く西へ歩めばアルノ川である。悠々たる川の流れ,五つの橋,両側の赤瓦の家々,アルノ川はヨーロッパの河の中で一番親しい感じがするのはフィレンツェへ来る度にその両岸をさまよい歩いているせいかも知れない。
河畔のレストランで昼食をとり,右へ折れて斜行し,サンタ・クローチェ教会へ。
この辺りはフィレンツェでも一番古い地区であり,教会外陣の礼拝堂群は,14世紀フィレンツェ画家達の傑作集と称される。
ギベルティ,ガリレオ,ロッシーニ等そしてなによりミケランジェロはここに眠っている。ダンテの像は教会正面の左隅に立っていた。
古い街のたたずまいを,西北の方向に右左して再びドゥオモ(花の大聖堂)へ戻る。大して広くはないフィレンツェの市街だが,昼食時を除いて朝の9時から夕べ5時近くまで約7時間,歩きとおしていたので流石にやや疲れた。街の三分の二ほどは歩いたことになろうか。
5.サン・ミニアトの丘
フィレンツェ自由都市共和制とメディチ家グループとの死闘の中,1529年4月以降その城塞防衛委員長として,最後までサン・ミニアトの丘にその部署を守っていたミケランジェロは,8月9日フィレンツェ政府が,ついに市民に武装放棄の命令を発するに及び,去って身を隠した。
フィレンツェ自由都市の中心シニョリ広場,及びパラッオ・ヴエッキオ(市庁舎)と,アルノ川を中に約1500mの間,指呼相望むサン・ミニアトの高地は,平和のときには全フィレンツェ市の美しい姿を眺める最もなつかしい丘であり,戦時においては背後に全市を守るにも,前進防禦地としても,フィレンツェ自由都市最大の戦略的地点を成していた。
ミケランジェロ広場は,フィレンツェを訪ねる多くの旅人が立ち寄る名所となっている。
初めてフィレンツェに入る旅人は,寫眞で,テレビで見慣れた,ドゥオモの美しいキューポラと市庁舎の特異な尖塔を中心とする絵のような,ルネサンスの聖地フィレンツェ市街の全景に胸を躍らすだろうし,フィレンツェを去る旅人は,この丘から数々の想出と共にフィレンツェへの別れを惜しむことになる。私は過去二回の旅で三度この丘を訪れた。
『フィレンツェ市民は,サン・ミニアトの丘がフィレンツェ市に接する高台をピアッツアレ・ミケルアンヂェロと呼び,"ダヴィデ"の巨大な複製をその中央に立てて,新しきフィレンツェ新しきイタリアいな新しき世界の未来えのかれらの希望をあらわした。』
6.教会の音楽会
フィレンツェでは思い掛けぬ収穫があった。
夜9時或は9時15分から毎夜のように教会で開かれる音楽会である。パンフレットによれば市内の3,4ヶ所で行われている。宿舎ローマホテルに近いサンタ・トリンダ聖堂ではオルガンとオーボエの演奏があった。ほぼ満席だった。オルガンがすばらしかった。教会の音響効果を更めて体感,天上から降り,地から涌き上がるバッハのパルティータの響きに心底から感動させられた。オーボエのソロも見事だった。翌夜はテノールのアヴェ・マリア特集,六曲の中,やはりシューベルトとグノーのそれが心に染みた。第三夜はフルートとヴアイオリンのソロ,前二夜より少し落ちたものの,ヴィヴァルディ,モツアルトを主とする演奏は充分楽しめた。同好の士は一行中3人ほどおられ,満足して語りつつホテルへの帰途を歩んだのだった。 |