東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.77

長野「小布施」,見聞録

青木行雄

 長野に小布施と言う町がある。正確な住所は長野県上高井郡小布施町となるが,有名な千曲川沿いの小さな町,美しい町でもある。最近めきめきと,全国にその名が知られつつある町,知れわたったと言ってもいいと思う。今,日本国内でも「村おこし」として,村の活性化を図り,なんとかこの村・わが町を食える町にしたいと懸命に頑張っている町村も多いが,この町もその成果が上がり,その努力が臭う町と言えそうである。
 町政に「ごみのないきれいなまちをめざします」とあり,「やめよう空き缶・タバコのポイ捨て!」どこにもあるキャンペーンではあるが,住民の意識の問題であろう。
 そもそもこの町の特産品を上げると,知る人ぞ知る栗がある。小布施の純栗菓子「栗ようかん」「栗かの子」等有名らしい。
 その栗がいかに昔から有名であったかを知るには,小布施が「一茶」の晩年の拠り所であったと言うが,町内に20数基の句碑が立ち,その中に「拾われぬ栗の見事よ大きさよ」と読まれているように,いかに栗が多いかその情景が浮かんで来るようである。
※いかにも山々に囲まれた山村の寺で、のどかさがうかがえる風景ではないか。ここが、別記するが、広島城(49万8千石)より長野に国替えさせられ最期の地となった福島政則公の霊廟のある「岩松院」である。

 そして1993年(平成5年)アメリカの大学を卒業して,再来日した。留学生の時,長野に来て小布施をこよなく愛したのであろうか。再来日してから,利酒師認定も受け,酒販に,小布施の町の活性化に奮闘中であるが,その間,1998年(平成8年)2月の長野冬季オリンピックでは英語が出来ると言うことで,英国選手団アシスタント・オリンピック・アタッシュに任命され,選手団の面倒を見,ホスピタリティープログラムを企画,運営して大変な人気を博したと言う。
 又,アメリカ人の見た日本的な企画等次々に計画し,桝一「蔵部」と言うレストランや酒の容器等,斬新な入れものに変えながら,良いものは高く設定して,経営に有利な方法を次々に取り入れて行った。そして「桝一」を長野での一流酒蔵の再建に成功したのである。
 今,彼女は,方々での講演会や会の出席などで大多忙の毎日だが,2001年(平成13年)12月日経ウーマン誌が選ぶ「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2002」に大賞を受賞している。
 この遠い長野の人口12000人弱の田舎町にはるばるアメリカからやって来て,酒蔵の再建,いやいや,小布施の町自体を再建した張本人,セーラ・マリ・カミングス女史は,どんな夢があったのかは知らないが,小布施町にとっては,神様以上の存在ではなかろうかとも思い感心する。

※セーラ女史が勤めている(平成8年取締役に就任した)桝一市村酒造場の表玄関である。
 又この町は,お寺の多い町で,キリスト教1寺も入れると12寺あると言う。1000人に1寺になるが,何と多い寺町であろうか。それだけ古い町とも言えるかも知れない。

  主力の寺について3〜4記しておくと,

※玄照寺 禅宗の古刹。町宝の三門は約200年前に建立された歴史ある門。
※祥雲寺 江戸後期,小布施の豪農商の文化サロン的存在・高井鴻山の墓所で鴻山愛用の筆や妖怪画などを所蔵,また,一茶句碑,智関尼の墓などもある。
※梅松寺 俳人一茶ゆかりの地。梅松寺住職知洞や大庄屋の寺島夏蕉は共に晩年の一茶の俳友。寺には句碑が建つ。
※岩松院 福島正則公廟処,北斉翁大鳳凰図などある寺。後日,別件で詳しく記す予定。

 私の友人にセーラ・マリ・カミングスのように,やはり長野に魅せられ,小布施町ではないが,隣村に住みついた男がいる。九州生れの彼は東京の大学を卒業後,就職したが仕事の都合で方々を廻り,この長野にも2?3年程転勤になって住んだ事がある。定年後,九州に帰るか,どうするか,考えた末,夫婦でこの長野に住みついたのである。彼はこの長野の魅力をこんなふうに表現した。
 まず,長野は四季の移り変わりがはっきりしていて,寒暖の差がはげしいが,大変魅力を感じると言う。春は山菜が多く,わらび,ぜんまい,竹の子,ふきのとう等,山の幸が豊富で,出掛けるのに事尽きないと言うのだ。又夏は涼しいから,ゴルフ,山登り,近くには温泉が方々にあって,野菜作りも大変楽しいと言う。秋には,きのこ狩り,果実はいっぱいで,庭には,リンゴ,桃,ぶどうなどが実り事欠かない。そして冬はスキーが楽しめる。こんな楽しい場所は他にはないので,ここに決めたと満足そうな表情は本物のようであった。
 今年の六月に同級会があって長野に行き,彼が案内してくれた先が,この小布施町であった。何十年の久方振りの再会に本人も皆も心が高なったが,皆に食べて貰おうと,無農薬のイチゴと,ねまがりたけ(ちしま笹),やまあざみ(珍味)を持参し,食べさせてくれた。久し振りの再会だが,彼の顔は日焼けした中に人生を謳歌している様子だった。別れて数日後,お礼の電話をすると奥様が出られ,今の生活が実に満足そうで,張りのある声だった。いつでもどんな時でも今の存在が最高と思える人生を送りたいものである。
 アメリカに生れ,アメリカの大学を出て,きっかけは分からないが長野の1町村の酒蔵の営業に生き甲斐を感じ住みついたセーラ・マリ・カミングスと,私の友人,九州の片田舎に生れ東京の大学を卒業し,定年になってから,2?3年住んだからと言っても,風土の違う見知らぬ長野の片田舎で人生を送る…。福島正則公は自分の意志ではなかったが,セーラにしても,私の友人にしても自分の意志で,この長野の地に住みついた,生れも育ちも違う2人だが,環境と内容は違うが何かの共通点があるような気がしてならない。何かは分からないが,2人には心を動かす長野の魅力があったのだろう。
 これが,私の長野「小布施」周辺の見たまま,聞いたままの見聞記である。

 
 

前のページに戻る

Copyright (C) Tokyo Mokuzai Tonya Kyoudou Kumiai 2005