東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(7)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 前回,東海道五十三次は,華厳の教えを学び,廣める旅である,と書いたが,今回は,自分が平成の善財童子になった積りで,日本橋から西へ旅立つことにする。
 『お江戸日本橋七ツ立ち』昔の旅人は,日の出前,午前四時頃,日本橋をスタートした。未だ暗いので提燈をぶら下げている。およそ二時間,二里歩くと,夜が明けて,提燈の火を消すと,品川宿高輪の木戸が開く。
 初日の宿場は十里先の戸塚泊り,二日目は小田原泊りとなる。このように毎日十里歩くと,約十四日間で京へ辿り着くことができる。
 小田原は東海道中最初の城下町である。小田原城といえば,北条氏が戦國時代の初期,関西から今川氏を頼って出て来て,関八州を統一し,五代,約百年支配していたが,秀吉に滅ぼされてしまった。天下統一がなされ,徳川家康によって平和な時代が到来する。
 平成の善財童子は,東海道を徒歩で歩いて以来,街道歩きにはまり,五街道踏破後も,月一度は,箱根探訪を欠かしたことがない。
 箱根の魅力は徒歩で歩かないと分らない。金時山等中高年登山,温泉あり,避暑地としても最適で,老若男女を問わず,いつ来ても四季それぞれの楽しみがある。
 私が箱根に魅せられたのは,何百年もの間,多くの人が歩き,流した汗や,馬の蹄の跡が未だ残っているような道を,現代人がタイムトリップして歩くことが出来るからである。
 先日も,石畳道を往く五十人程の中高年グループに出会い,全員喜々として元気に足を運んでいた。きくと,今日は湯本からスタートし,元箱根が最終地点であり,約二年半かけて京都まで行く,とのことであった。
 小田急線箱根湯本の少し手前,三板橋を渡ると旧街道があり,北条氏五代をまつった早雲寺がある。畑宿は合の宿で,寄木細工の里でもある。畑宿の一里塚を過ぎると,天下の険とうたわれた急坂があり,車道は七曲りのヘアピンカーブを描いてうねり,遊歩道はこれらのカーブの間を縫って登って行く。あまりの険しさに,旅人はドングリ大の涙を流した,というので橿の木坂(かしのきざか)と名付けられた坂がある。この先に,猿もすべるほどの坂といわれる猿滑坂,追込坂(ふっこみざか)と呼ばれるゆるい坂を行くと甘酒茶屋がある。江戸時代は数軒あったときくが,唯一残った一軒である。何百年の歴史が浸みこんでおり,決してきれいな店ではないが,客をもてなす伝統が息づいているのか,いつも賑わっている。この辺り,『神崎与五郎詫び証文』の言い伝えがある。赤穂浪士神崎与五郎が江戸へ向う途中,この付近で馬子にからまれたが,主君の仇討という大目標をかかえており,じっとこらえて,詫び状を書いて謝ったという。
 仇討ちといえば,鎌倉時代,曽我五郎,十郎による父の仇討ちが箱根を舞台に展開し,本懐を遂げたが兄弟とも命を落とした,という悲しい物語があり,兄弟と,弟と恋仲であった白拍子・虎御前の墓が一号線脇に仲良く並んでいる。
 箱根関所を越え,箱根峠へ向う途中は,多くの石仏,庚申塔,道祖神があり,これらの由緒を辿り,祖先が残した事蹟に想いを馳せれば,街道に対する興味は尽きることはなく,何度でも足を運ぶことになる。




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