『歴史探訪』(9)
江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎
『日光を見るまでは結構というな』という言葉がある。イタリアでは『ナポリを見てから死ね』と云われている。どちらも世界的な名所であることに変わりがないが,ニッコウ,ケッコウと韻を踏んでいるところが,日本独特の言葉の遊びで,但しこれは日本人にしか理解できない。日本の漢字は音読みと訓読みがあり,日光という地名は二荒神社を音読して生まれた。日光の元祖は二荒であるが,二荒にも元祖がある。インド半島の南に観音が棲むという霊山があり,サンスクリット語でポータラックと云い,それを漢字で補陀洛(ふだらく)と当てた。即ち補陀洛とは霊山とか仏教の発祥という意味であると思われる。鎌倉には補陀洛寺という寺があり,日光には名物補陀洛饅頭がある。つまり二荒神社(ふたあらじんじゃ)は補陀洛を分かり易い字に改めたものと考えられる。
八世紀,天平時代に,栃木県出身の高僧・勝道上人が蛇橋(今の神橋)を渡って,霊峰男体山の山頂を極めようとして何度か挫折したが,苦行十五年の後,宿願成就し,山嶺に二荒の神を祭祀した。
元和二年(一六一六)徳川家康が駿府で死去すると,遺命により駿河国の久能山へ葬られたが,翌元和三年,下野国日光へ改葬された。
三代将軍家光の頃,家康神忌二十一年に向けて社殿の大造営が始った。全国の大名に協力させ,木材や左甚五郎など名人級の匠を大勢集め,今の重要文化財三十四棟,国宝八棟が建てられ,作事奉行小掘遠州の指導により作庭がなされる等,世界に誇る名所と云われるまでになった。造営に多くの樹木を伐採し,環境破壊をした見返りに,東照宮に向かう日光街道沿いに,杉が植えられ,四百年近く経った今日,立派に育って,世の移り変わりを見下ろしている。
正保二年(一六四五)朝廷から宮号が授与され,それまでの東照社が東照宮に改称され,以降国家守護の「日本の神」として朝廷から,日光例幣使が派遣されることが恒例となった。
例幣使が通る道が決められ,今でも例幣使街道と云われている。今市で,日光街道と例幣使街道がV字型に交差しているが,二列の杉並木がW字状に交じわる光景は圧巻である。
明治十一年,イサベラ・バードという英国の旅行家が来日し,横浜から日光を経て北海道まで,日本で雇った少年が曳く馬に乗って探訪したが,その旅行記がベストセラーになった。
日本でも一九七三年,翻訳されて「日本奥地紀行」として平凡社から出版された。小生も平成十一年,日光街道を歩いているとき,上記の書籍を購入して読んだが,文明開化の頃から日光が世界中に名所としてPRされていたことを知り,大変嬉しく思った。
当時四十七才のイサベラバード女史は,先ず横浜に上陸し,江戸末期から,医師,宣教師として来日,のちに明治学院大学やフェリス女学院を創設したヘボン氏を訪ね,日本国内の事情を教えてもらったという。日光ではヘボン氏の紹介で金谷家に十日間滞在した。今の金谷ホテルの創始者である。
金谷氏は東照宮で儀式があるとき演奏される雅楽の指揮者を代々勤めていた。
私が感心したのは,バード氏の東照宮の建物や陽明門を見たときの感動を繊細なタッチで表現した文章の美しさである。
ところが金谷氏が指揮する雅楽には,興味は示したものの,西洋音楽と比較してかなり違和感があったのではないかと思われる。
言い得て妙だと感心したのは,ずばり「不協和音」という表現であった。読後十年近く経った今でも強烈な印象として私の脳裏に刻まれている。
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