『歴史探訪』(10)
江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎
本年,組合月報2006年2月号に東京湾埋立の事始めについて投稿し,掲載して頂きました。
その後,深川,砂町等,地名の由来となった深川八郎右衛門や砂村新左衛門の開発等があり,江戸は世界有数の大都市に発展して行く。
幕末,米提督ペリー率いる黒船四隻の来訪があった。
『太平の眠りを醒ます上喜撰 たった四杯で夜も眠れず』
江戸市中はおろか,日本国中は上を下への大騒ぎとなり,1860年,日米通商和親条約が締結され,尊皇,攘夷,倒幕に発展,江戸城無血開城により,1868年,明治時代を迎えるのである。
長州を脱藩した吉田松陰は,是非黒船に乗って見聞を広めようと,米艦に掛け合ったが,結局交渉成立せず,後に国禁を犯した罪で斬罪に処せられるのであるが,米艦が乗船を拒否した理由は,松陰は身体中皮膚病に犯されていて,伝染を恐れた為と云われている。
若し松陰の身体がもっと清潔であったなら,歴史は変わっていたかも知れない。
徳川幕府は外国船の襲来に備えて,東京湾の埋立地に砲台を設置した。今の御台場史蹟公園である。お上がお作りなる,と云うので丁寧に御を付けて呼ばれたが,幸か不幸か,砲台から外国船に向かって砲弾が発射されることは一度もなかった。
私が本年2月号で書いた,東京湾の開発は有明北地区141ヘクタールについてである。
有明の埋立ては戦前から計画決定されていたが,戦争で中断し,戦後再開された。昭和30年代,木工団地が完成,製材工場が進出,操業開始された。当地は現在,都市計画により未来都市の建設が進められている。臨海地区は,大きな時代のうねりにより大変革を遂げている。貯木場として使用されていた運河は埋め立てられ,晴海,豊洲,有明の間には5本の橋が架かり,ゆりかもめが延伸,豊洲には築地市場が移転して来ることになった。
東京都は,2016年にオリンピックを招致しようと,石原知事が先頭に立って,自分の政治生命を賭けているが,招致成功の暁には臨海地区は,選手村,メーンスタジアム,競技施設が建設される。
昨今の大規模開発は,地域の歴史をモニュメントとして残そう,という傾向がある。祖先が艱難辛苦して積み上げた功績の上に今の繁栄があるのだから,これは非常に良いことだと思う。
六本木ヒルズ開発では,長州毛利家の家敷跡の庭にあった池を残し,日本人初の女性宇宙飛行士,向井千秋さんが宇宙で孵化させたメダカの何代目かの子孫が元気に泳いでいる。
汐留の開発では,文明開化の頃の鉄道跡が発掘され,駅舎を再現して展示している。
数日前オープンした豊洲アーバンドックララポートでは,船の形をした建物4棟に,店舗190店を配し,ドック跡は船着場として浅草まで定期船が就航する。
有明開発でも,歴史を残そうという発案で,貯木場があった運河を一部残し,架けられた橋の一つを,木遣り橋(きやりばし)と名付けられて,間もなく完成し,11月23日に開通式が行なわれる。
木遣りについては,組合月報2004年に,我々の大先輩,酒井利勝氏(元(株)カクマル役員)が,随想「川並」考の第六章で執筆投稿されている。氏によると,木遣りは戦国時代から木材の伐出しや築城の折盛んにうたわれていたという。川並(筏師とも云う)という職業があり,四季を問わず厳しい気象条件の中で,丸太を筏に組み,力を合わせて搬送をする際,自然発生的に出した掛け声が,労働歌として定着したのが木遣りと云われている。
有明に於ても,最盛期は水面いっぱいに丸太が浮いていた。木材業者は川並の協力なくして丸太を一本も動かすことは出来なかった。従って,当時の川並達の貢献に感謝し,奇しくも,勤労感謝の日に,木遣橋の開通を祝い,木遣保存会のうたう木遣りに先導されて渡り初めを行うのは誠に意義の深いことである。
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