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寛仁元年(1017・藤原頼道・摂政)。
十月五日,後一条天皇が宮中での弓の大会に昼御座剣を持って出御され,南側の机上に置かれたとの記述がさる公家の日記にあり,これが正式に確認された記録としての初見。 |
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承暦四年(1080・白河天皇・藤原師実・摂政)。
閏八月廿日,夜八時頃,清涼殿の昼御座剣が紛失,捜索するも不明,その後の記述は無。 |
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康和四年(1102・堀川天皇・白河法皇)。
五月二十五日,騎射会に堀川天皇が出御,先導は昼御座剣を捧持した右大臣中将忠教。 |
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大治四年(1129・崇徳天皇・白河上皇七月七日没→鳥羽上皇・前年,平泉初代・藤原清衛死去)。
五月五日,(端午の節句)午の月,午の日,午の刻,に白河上皇が「お守り刀」を打たせ,その内の一振りを崇徳天皇に贈られた。 |
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金沃懸地螺鈿毛抜形太刀 |
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天承元年(1131・崇徳天皇・鳥羽上皇)。
二月二十二日,白河法皇から贈られた昼御座剣が紛失,役人や陰陽師が探したが判らず,替わりに摂政の藤原忠通が後冷泉天皇の時に使用した昼御座剣を献上した。 |
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同年,十二月十八日の朝,清涼殿で新蔵人忠重が御剣の石突きが抜き取られているのに気が付き,四方八方,探したが見当たらず,正月も近く行事も多いため,納殿の蔵人に命じ新調させた。
尚,御剣の外装は,鮫柄で俵鋲は打たず,鞘は水模様の蒔絵に麒麟の螺鈿を施した物。 |
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仁平二年(1152・近衛天皇・鳥羽上皇,京中殺傷者多し,興福寺衆徒乱暴,天下大乱近し)。
三月九日,鳥羽法皇の五十歳の賀宴の折,平忠盛?清盛の父?翌正月59才で死去,が船を献上した,近衛天皇がそれに乗った折に頭中将の伊実が昼御剣を捧げて従った。 |
(8) |
久寿三年(1156・後白河天皇・四月改元・七月鳥羽法皇崩ず,同月保元の乱が起る)。
三月十四日,夜半に昼御座剣が紛失。但しこの剣は即位の時に新調された剣では無く,以前からの物との事。と云う事は,昼御座剣は天皇が替わる度に毎回更新されていた,と云う事である。 |
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永暦元年(1160・二条天皇・後白河法皇院政・義朝誅伏・頼朝伊豆へ流罪)。
十二月二十七日夜,内侍所で神楽を奏す。二条天皇が午後十時に出御,左少将通家が昼御座剣を捧持して先導。内侍所に着くと内侍が御剣を受け取って天皇の傍に置いた。内侍所での世話は女官がする決まりなので,賢所を内侍所とも呼ばれる事もある。 |
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金装花押散兵庫鎖太刀 |
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仁安三年(1168・六条天皇譲位・高倉天皇即位・後白河法皇院政・清盛剃髪譲位・京都大火)。
六条天皇は六歳で高倉帝に譲位。新帝誕生の場合,昼御座剣は関白が新帝に献上をして,その天皇が譲位をされると元の贈り主に返却をする慣例になっていた。その様な訳で六条天皇は初めに献上して呉れた関白藤原基房に譲位当日に返却されたが,その剣はその夜半に今度は基房より高倉天皇に献上された。 |
(11) |
承安二年(1172・埃及〜エジプト〜がクルド人の酋長サラジンに領有される)。
四月十二日,昼御座剣の帯執りを犬が噛み切った。天皇は摂政藤原関白基房邸である閑院に常駐し,清涼殿にはたまにしか還御されなかったので,警備が手薄であった様だ。これにより,昼御座剣は清涼殿の備品になっていた事が判る。 |
(12) |
治承四年(1180・二月高倉天皇譲位・安徳天皇即位・後白河法皇院政・清盛執政・頼朝挙兵)。
譲位した高倉天皇の昼御座剣は関白基房が献上した物のため,蔵人頭が安徳天皇に献上するのかと尋ねたが,新帝が清盛の孫の為に不承知!,となり高倉上皇が送った。 |
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菱作打刀 |
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養和元年(1181・高倉上皇・清盛崩ず・後白河法皇再度の院政・横瀬川の会戦,平家敗北)。
閏二月三十日,また犬が御剣の帯執りを食いちぎった,御剣の太刀緒は鹿革のために犬はその臭気に惹かれた様である。 |
(14) |
寿永元年(1182・安徳天皇・後白河上皇院政・法皇,藤原俊成に千載和歌集を撰せしむ)。
三月二十日,今度は御剣が盗まれた。天皇は閑院にいて宮中は留守が続いていた…。 |
(15) |
寿永二年(1183・安徳天皇・後白河法皇院政・平家西走・八月鳥羽天皇即位)。
前年の御剣の盗難後,昼御座剣は平宗盛が新造して贈呈。平家滅亡後この剣は神鏡・神璽と共に京都に還って来た。 |
(16) |
翌,寿永三年(1184・安徳帝・後白河法皇院政・正月義仲敗死・二月一の谷合戦・頼朝主権)。
五月,またもやカッパワラレル。併し,源蔵太夫頼兼の家人の久実が犯人を捕らえた,によって御剣も無事に取り戻した。この功績は大なりとして朝廷では,頼兼に従五位上(昇殿の位),久実に兵衛尉を与えた。 |
(17) |
文治六年(1190・建久元年・十一月頼朝入京・後鳥羽天皇・後白河法皇院政・西行没)。
正月三日,後鳥羽天皇の元服(11才)に際し昼御座剣を神剣の代理とした。因みにこの剣は摂政の藤原基通が拵えを付けて献上した物であった。ひょっとして(10)の剣かも?。 |
(18) |
建久九年(1198・後鳥羽天皇・三月土御門天皇即位・将軍頼朝翌年没・摂政基経)。
正月十一日,土御門帝の即位の折も,昼御座剣が神剣の代用となった。併し,天皇と移動する時は本来の神剣ならば神璽より先に捧持して行くが,代用なので後に行った。 |
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承元四年(1210・土御門天皇・将軍実朝・執政義時・十二月順徳天皇即位・往生要集刊行)。
十一月二十五日,順徳天皇の即位の日から伊勢神宮より献上の宝剣を以って神剣とす。因って昼御座剣は代用を解かれて天皇の「お守り刀」に復帰をした。 |
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菊一文字 後鳥羽上皇作 |
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安貞元年(1227・後堀川天皇・執権泰時・前年,京・鎌倉大地震)。
京都市中の大火が皇居にまで及び清涼殿が焼失す。以降,幕末に至る迄の数百年間は清涼殿の再建を見なかった。天皇は長暦三年(1039)の内裏炎上以降は里内裏,つまり摂政や関白などの邸宅に設けられた仮の御所に常住する様になった。里内裏としては藤原冬嗣の邸宅であった閑院が主に用いられ,そこに仮の清涼殿が設けられていた。 |
(21) |
寛喜二年(1230・後堀川天皇・執権泰時・康時徳政を行う・米価一石銭一貫文と定める)。
五月五日,その清涼殿でまたもや御剣が盗まれた,翌六日,女官と宿直の男を拘束し,十四日に自白する。御剣も回収なる。 |
(22) |
翌三年(1231・後堀川天皇・執権泰時・窮民の家を壊し薪にする事を禁ず)。
三月十六日には,子供が清涼殿より御剣を盗み出し,縁側で蔵人判官繁茂に捕まる。この時も御剣は無事だった。 |
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その翌年の貞永元年(1232・後堀川天皇・執権泰時・十二月四条天皇即位・貞永式目制定)。
正月二十三日,午後四時ごろ御剣の紛失が判ったとの事なので,昼間でも賊が宮中に入っていた事になる。 |
(24) |
それから六年後の歴仁元年(1238・将軍頼経入朝・鎌倉大仏起工・双六禁止)。
二月十八日,また御剣が盗まれた。度重なる盗難に懲りて御剣の保管方法を変えたら,それ以後は盗難は無くなった。 |
(25) |
寛元四年(1246・御嵯峨天皇・後深草天皇・執権時頼・名越光時流罪・前将軍頼経帰洛)。
正月二十九日,後嵯峨天皇が譲位された時は,勧修寺経俊が御剣を受け取り,一旦,藤原実経に返却の後,更に受け取って新帝の御深草天皇に献上した。その剣は実経がもと後嵯峨天皇に献上した物であった為である。 |
(26) |
元亭元年(1321・後醍醐天皇・執権高時・後宇多法皇還政→院政廃止・天皇訴を聴く)。
八月十五日,安福院(侍医の控所)に於いて,歌合わせが行われた折りに,御醍醐天皇は同じ御所内なのに,昼御座剣を携えて行かれた。 |
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沃懸地獅子文毛抜形太刀 |
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貞治五年(1366・南北朝終番・南朝?後村上天皇・北朝・後光厳天皇・将軍足利二代義詮)。
八月二十三日,後光厳天皇は方違で行幸する折り,神剣は北朝に無いので昼御座剣の代用の可否を前内大臣藤原公忠に下問した。公忠は文治六年に前例が有り何ら問題は無いと応答。よって,昼御座剣を神剣として携行して行かれた。 |
(28) |
応永九年(1402・後小松天皇・将軍足利四代義持・南北両朝合し十年,漸く世情安定す)。
十月十九日,土御門東洞院?現在の京都御所の場所,に新宮殿が落成し後小松天皇が移られた。それを祝い足利義満(室町幕府三代将軍・北山殿)が昼御座剣を新調して献上。
その剣を以後,現在まで幾多の歴史の荒波を乗越え無事600年以上も守っている。
この様な点が日本文化の奥深いところで,これを文化の伝承と云わずして何と云うか。 |
(29) |
応永二十三年(1416・称光天皇・将軍室町四代義持・禅秀の乱)
七月一日,上皇の御所炎上のさい紫宸殿も危くなった,称光天皇は自ら御剣を佩いて防火を指揮された,それを見て感動した多数の者共が屋根に登り火の粉を防いだので,紫宸殿は類焼を免れた。称光天皇は刀剣のほか武具類も大変お好きだった様でござる。 |