見たり,聞いたり,探ったり No.83
群馬県・六合村「尻焼温泉」と「湯本家」の「高野長英」
青木行雄
いい旅にしたい為に,いい宿さがしも大変難しい。"思ったより満足した"とか,"今一だった"とか,"失望した"とか,旅には,必ずそんな言葉がつきものである。
事前の調査やパンフ等により,予め調べるのも旅の醍醐味であり,実に楽しいものであるが…。
最近の温泉はどこも清潔になった。保健所のお達しにより塩素殺菌をやりすぎて,長年の湯治客が入れなくなったという話も聞くほど,清潔になった所も多くなった。温泉の評判を左右するのは湯そのものは勿論だが,入浴の場を提供する宿の善し悪しが大きく影響する。ちょっとした気遣い,さりげない置物(花等)等が旅行者を癒してくれる。
昔,地方の温泉で露天風呂に行くと,先ず落ち葉をかきのけて,手ごろな石の上に尻を乗せて肩まで浸かった記憶もあった。うっかり無防備に足を入れたら,ゴミや湯垢,沈殿物,石についたヘドロに足を滑らし,ひっくりかえった思い出もある。
そんな温泉もいいなぁ?と思いながら,「日本秘湯を守る会」のメンバー川原露天風呂で名が知れる「尻焼温泉」に的を絞って見た。
今回の目的は群馬県六合村にある「赤岩集落」赤岩地区民家群の見学研修が主題であって出掛けることになった。
その民家群の中に「湯本家」と言う先祖伝説のある家に出合って,その湯本氏(40代目?)にいろいろ話を聞くことが出来て,建物まで見学させて頂き,「高野長英」と言う蘭学者の話も入手出来たので先に記してみたい。
湯本家について…
湯本家の先祖は「木曽義仲」に任えた人物と言うことで,義仲が敗死ののち,義仲の胤を宿した娘を守りながら草津に近い細野平に隠れ住み,細野御殿介を名乗った言う。
その後,源頼朝が1193年(建久4年)に浅間山麗で狩りを催し,その案内役に湯本家の先祖が召出された。そのおり草津の湯を発見され,湯本の姓と草津の地を賜った,と先祖伝説は伝えていると主人が話してくれた。
戦国時代になると,湯本善太夫という人物が出て,真田方に属して活躍したが,長篠の戦いで討死したと言う。
江戸初期,湯本長左衛門が赤岩に隠居,医業に手を染めたとあるが,江戸時代の薬箱や薬を作る昔の道具薬研等が沢山あって,大変興味が沸いた。又明治文豪,幸田露伴も愛飲したマムシ酒の「月桂酒」,河童より伝授したと言う「命宝散」などの家伝薬があると言うから増々興味がそそり,部屋の隅々まで案内をお願いした。
江戸末期には,湯本彦粛(筑前黒田藩侍医),湯本俊斎などの医者が世に出たと言うから,この湯本家はすごい家系,伝承なのである。
湯本家の建物を紹介すると,道路からちょっと上った高台にあり,建物は塗り家造りと称して,赤土を厚く塗り上げた防火造り(土蔵づくり)のもので,厚みがなんと25?30cmぐらいありそうであった。それに広々とした地下室がある。これは昔,薬草の保存倉庫として使用したと言う。
又二階への昇降は階段ではなく(隠し階段はあるが…),4間(約7.2メートル)近い長さの傾斜した廊下にするなど独特の造りになっていた。この家の建築は1806年(文化3年)と言うから,今から200年も前の建物である。
2階の一間には,「長英の間」と称した一室があって,ここは1845年(弘化2年)獄舎を逃れた「高野長英」を一時かくまったと言う部屋で,養蚕の拡大のため1897年(明治30年)に3階を増築したと言うが,「長英の間」は往時のまま保存しているとのことで,昔200年前の建築仕様木材を珍しく見ることが出来た。
では,「高野長英」について,ここ湯本家との関わりについて少々記して見たい。
「高野長英」は,幕末の蘭学者で蘭医,岩手県の水沢の生まれとなっている。長崎でシーボルトに学び,ドクトルの称号を受けている。江戸で開業し,医業のかたわら数十種の翻訳を行なう。また「二物考」では,飢饉の民を救うべく,ソバ,馬鈴薯の栽培を広く提唱したと言う。
又,時代を憂い,渡辺華山らと「尚歯会」を結成する。又米船モリソン号来航につき,「夢物語」を著し開港論を唱え,1839年(天保10年)(日本史年表を見ると,12月幕府,華山を蟄居,長英を終身禁獄に処する〈蛮社の獄〉とあるが,)獄中の身となった。そして1844年(弘化元年)獄舎の失火で脱出し諸国を逃避した。そして一時この六合村の湯本家にかくまわれていたと言うのである。
かくまわれた時の様子が以下の文章から,読みとれる。
「『……あれこれ考えました末,湯本俊斎殿の家がよいのではないか,ということになりました。あの家には,もしふみこまれても逃げることのできる座敷があります』
……………………。
暮坂峠にかかった。峠の頂きに茶屋があったが,灯はもれていずひっそりとしていて,その前をすぎた。須川(白砂川の旧名)の橋をわたると,左手の道をたどった。……前方に寄りかたまった家々が淡い月の光にうかび上がってみえた。『赤岩です』………。
順左衛門(注・俊斎の従兄)が大きな家の裏手に近づいていった。土蔵づくりの二階家で,畠の中をすすみ,家の裏戸をあけた。せまい階段があり,順左衛門につづいてのぼった。二階には多くの部屋があるようだったが,順左衛門は,その一室に長英をひき入れた。『万一の場合,今のぼりました階段をおりますれば,一階を通ることなく沢渡への間道に出ることができます』………。」
新潮文庫,吉村昭著「長英逃亡」より
湯本氏の案内だがこの部屋に通じる裏階段の戸は忍者の隠し扉を思い出させてくれた。
下の写真はこの湯本家の50代当主の湯本滋氏と「長英の間」にて,2ショットの写真である。
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※家系図は消失したと言うが、曾祖父さんが48代と言っていたと言うから、滋氏は50代目と言うことになる。
(平成18年11月26日写す)
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他に長英の書や書字を見ることが出来た。この隠れ家に長英が何年住んだのか,聞けなかったが,諸国逃避の後,結局,最後は江戸に舞い戻ったところを追手に発見され,自刃したと言う。
これが六合村の湯本家と「高野長英」との関わりであった。
※土蔵造りの3階建て、湯本家の正面から
見た風景、いかにも隠れ家風である。
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※薬研(やげん)と言う薬を作る道具
である、こんなものが結構残っていて、
実に楽しい思いをした
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そして六合村の赤岩地区民家群の集落を見学して,ここから程近い,宿泊目的の群馬県吾妻郡の「尻焼温泉」へと車を走らせた。
例年になく18年の紅葉は10日ぐらい遅かったようだが,ここ尻焼温泉は紅葉の峠は越えていた。
「尻焼温泉」とはこんな所である。
六合村の民家群とおなじ群馬県の西北端に所在する温泉地であった。
川そのものが天然の露天風呂で,川の側面に仕切っての露天風呂は結構見かける風景だが,川そのものが温泉と言うのは,本当に稀ではないかと思う。その川の川底の至る所から源泉が湧き出ているのである。
名の由来を旅館の主人に聞いて見ると,なんと読んで字の如く,川底から湧く温泉に尻をあて,痔や婦人病を治療した事から尻焼温泉と呼ばれる様になった,とのことであった。
全くの天然露天風呂なので,川全体では温度差がかなりある。源泉が湧き出ている所は熱く源泉から離れた所ではぬるい。
川底には大小様々の石や岩が転がっており,深い所では私の足の届かない深い所もあった。温泉で泳ぐ事は通常タブーだが,ここでは気がね無く温泉で泳げる。他の人に迷惑を掛けないようにしながら,とは言っても深い所と浅い所の落差が結構あるので,又石がぬるぬる結構滑るので注意が必要であった。
川の向こう岸に行くには浅い所を滑らぬ様に歩いて渡るよりも深い所を選んで泳いで渡った方が楽で早く行ける。スッポンポンのフルチンで泳ぐのは気持ちの良いもので,子供の時田舎での昔の頃を思い出した。
誠に残念だが,女性は殆どの人が水着を着用していた。それでも中には着けていない女性もおり,嬉しい限りである。ただ着がえる場所もないので川原の石の上で,裸になるので,11月はちょっと寒かった。
※川をせき止めて出来た「尻焼温泉」
温泉の中で、木材相場に熱中の仲間達。 |
※六合(くに)村までのアクセス、
往きは電車を利用した
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川遊びと入浴の両方が楽しめる此の温泉は子供となら一日居ても飽くことなく遊べる温泉だと思った。しかし今の子供には,人が人工的に造った健康ランドより楽しめるかは,人によると思うのだが,やっぱり自然が一番と言う事になるのではと感じるがどうでしょう。
尚,この尻焼温泉は,自然の川をそのまま使用しているので,川が増水している場合や雪解け水が増えている時は入浴は出来ないと言う。事前に川の様子は,観光協会や旅館に問い合わす必要がある。
※ 入浴料 無料
※ 開温時間 24時間,電燈,(太陽)
※ 源泉 川の中(550℃〜?)
※ 泉質 カルシウム・ナトリウム硫酸塩塩化物温泉
※ 湧出量 毎分1270リットル
この「尻焼温泉」には旅館も2〜3軒あり,ちゃんとした内湯もあって,旅館の露天風呂もあった。
と言う訳で,六合村の「赤岩集落」を見学し,「湯本家」の湯本氏に出合い,「高野長英」と言う蘭学者の六合村での逃避生活にふれて,自然の川そのものの尻焼温泉に癒された。旅館は素朴で人情味があって,山菜料理をたっぷり賞味することが出来た。
「日本秘湯を守る会」会員
尻焼温泉「関晴館別館」0279?95?5121
群馬県吾妻郡六合村入山1539
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