日本人 教養 講座 「日本刀」…Japanese
Sword…
「♪一家に一本 日本刀・一家に一本 大黒柱♪」
其の39(天下の名刀・小烏丸パート2)
愛三木材・名 倉 敬 世
…かくして,壇の浦の藻屑と消えたと思われていた,平家の重宝「小烏丸」は600年の時空をタイムスリップして,突如,花のお江戸のド真中にその姿を現わしました。
天明五年(1785・十一代家斉),幕府の有職故実を勤める伊勢家より「小烏丸太刀之図」と共に秘蔵との申請がなされ大騒ぎとなりました。それによると「当家の遠祖貞盛が将門を討った恩賞として小烏の剣を賜り,爾来,嫡子相伝して貞丈に至る,凡そ三十代」と有ります。…が,後述の如くこの点も少〃疑問符が付きます。
この図は老中・松平定信が編纂して寛政十二年(1800)に刊行された,「集古十種」にも収められ,為にこれ以降は「小烏丸」は晴れて公式に認知される事と成りました。
伊勢家は「寛政重修諸家譜」(寛政元年11月,桑原盛貞編纂の諸大名以下お目見え以上の系図や略歴を記した幕府公認の刊行物)に「平氏季衡流伊勢氏」とあり,「貞衡は江戸幕府に仕え,朱雀天皇より拝領の小烏丸を台命により上覧に供する」と記載されていて,確かにこの事は徳川実記にも載っており,三代家光を育てた春日局と伊勢家は姻戚関係のために,その縁で家光は小烏丸を手にとって実見している。献上すると云う伊勢家に対し将軍家は「…数百年の重宝なれば,そのまま持ち伝えるがよかろう,だが,必要な時にはいつでも提出する様に…」と申し添え返却をしている。伊勢家ではその後も貞丈の父の貞益と孫の貞春の時と二度に亘り時の将軍の台覧に供している。
明治維新後は平知盛の末裔という対馬藩主の宗家が伊勢家から買取って所持していたが,明治15年に時の宗重正伯爵より刀剣が大好きであられました,明治天皇に献上され現在は宮内庁の所有となっています。尚,皇室の所有物は国の指定物の対象には成りません。
さて,「小烏丸」は三種神器や安徳天皇を抱えた二位の尼と共に壇の浦に浮かんだ平家の軍船上に有った事は間違い無いとは云つてますが,その点も異論が生じておりますので,それらの見方をも紹介して参り度いと存じます。そしてそこからどうして復活出来たのか,そこのナゾ解きが一番の問題であります。これに就いては以下の如く2?3の説があります。
(1)「平治物語」(平家物語に否ず)によれば,平家にはお家代々の重宝として「小烏丸」と「木枯丸」と云う二振りの名刀があり,これらは本来,嫡流の清盛に伝えられるべき物であったが,清盛には「小烏丸」だけが伝わり「木枯丸」は異母弟の平頼盛に与えられた。「平治の乱」の時は小烏丸は清盛が佩いて出陣し,木枯丸は頼盛が帯びて戦闘に加わり,敵の豪勇で名高い八町次郎と激しく渡り合い,熊手を冑に掛けられ落馬の危機に瀕したが,木枯丸の一旋でその難を逃れた。そしてその切れ味の凄さまじさは後世まで語り継がれた。
結局,この事が原因で清盛に不満が残り両者は不和となり,平家が都落ちした(1188)際も頼盛は行動を共にせず,源平争乱後には鎌倉に下って頼朝に拝謁して許され,太刀のほか莫大なプレゼントを貰っている。さすれば,この頼盛の「コガラシ丸」と「コガラス丸」は1字違いなので,本来の「小烏丸」が海の藻屑と消えた後に,木枯丸が改称してその名を残したとする説が喧伝されている。この場合の伝承は,頼盛・保盛・頼清・保清となりその後も江戸期の伊勢家まで繋がるので可笑しくは無い。(塙 保己一・武家名目抄)。
(2)「平家物語」も幾く通りの写本が有るが,其の中の長門本「維盛高野熊野参詣」の条に「小烏の太刀と唐皮の鎧はさだよしが許に預け置きたり…」と云う記載が出て参ります。さて,このサダヨシなる人物は如何なる者かと申しますと,しかとは判りかねるのですが,多分,清盛の政所家令で筑前守と肥後守を受領し「専一腹心者」と評され,保元・平治の乱を共に戦い,源平合戦の初期には侍大将として参戦をしていた「平貞能」と思われます。
この貞能は平家の総領家の家令として当然,清盛・重盛・維盛にも仕えていた訳ですが,源平合戦の後半戦の平家の都落ちの辺りから戦線離脱をして屋島戦の時には,維盛の弟の平資盛と九州に逃れ出家をしたとされております。この資盛の家系は重盛・維盛・資盛と全て文人肌で武人としてはその影が薄過ぎた感があり,一門の中でも色目で見られていた様であります。この事は見方を変えれば武闘派では無い為に,お家の断絶の危機も少なくお宝は散逸せず継承されて行くとの思惑もあり,彼に小烏丸が預けられたとする長門本の説もかなり信憑性は高いと思われます。
確かにこの貞能も後に外戚であった宇都宮朝綱の許に身を寄せ,やがて頼盛と同じ様に頼朝に罪を許されたと云われております。
(3)時代は大分(350年)下りますが,細川幽斎の書と云われる「天文銘鑑」(剣掃文庫蔵)に,「和田三郎所持之後 足利武蔵守義氏所持伝〃」とあり,これは如何な事かと申しますと,壇ノ浦の戦に和田三郎義盛も侍所別当として加わり,小船に乗り得意の弓で盛んに敵を倒し活躍をした,その合戦の最中に敵船に乗り込み置き忘れられていた「木枯丸」を見つけスーベニア(ミヤゲ)とした。?と云う説があります。でな何故これが伊勢家に入ったのかと云いますと,以下の如くで少々そりゃ無理だんべ?,と思われる話が付随しております。
足利義氏は尊氏の五世の祖であり,母は北条時政の娘で,妻は執政・北条泰時の娘なので鎌倉幕府の名門なのである。よって建暦元年(1211),和田義盛が北条打倒の挙兵をした折は北条方に味方をして義盛を攻め激闘の末,敗死させその手の内にあった小烏丸を分捕った。
それが,350年を経て足利家に故実家として仕えていた伊勢家に伝来したから?であるが,以来代々伝えて来たが,室町末の永禄五年(1562)伊勢貞孝は三好長慶が将軍義輝に逆意を抱いているとして,討伐の兵を挙げたが逆に三好軍に散々に破られて嫡子貞良と共に討死。その時,貞良には虎福丸という五歳の子供が居たが,家臣が遺児と小烏丸を若狭の小浜に隠し,その後,小烏丸は盗難の恐れが有るとして貞良の弟である愛宕山の長床坊に預けた。
やがて,虎福丸は成人して貞為と名乗り,その子の貞輝は江戸に出て母方の伯母に当る春日局の口ききで,将軍家光に仕える事となり,前述の家光台覧の話と繋がる訳である。
さて,伝来はかくの如きながら,肝心の出来栄えは如何なるかと申せば,先月号にその斯界での評価を詳細に記載してありますので見て頂き度い。現在のところ,出来・年代・来歴・どの様な点から見てもパーフェクトでござる。ただ少〃問題があるのは銘であるが,皆様もご承知の通り,日本でも今より遙か昔に今で言うトレサビリティーと云う,製造者責任法が出来ていて,製造物には造った者の銘(サイン)を入れる事を義務付けている。
※ 大宝元年(701)8月「大宝律令」成る。明法博士を六道に遣わし新令を講ぜしむ。
當繕令「凡ソ軍器ヲ営造スル,皆須ラク様ニ依ルベシ。年月及ビ工匠ノ姓名ヲ鐫題セシム」
関市令「凡ソ出テ売ル者ハ行濫ヲナス勿レ。ソノ横刀,槍,鞍,漆器ノ属ハ各造者ノ姓名ヲ鐫題セシム」(原文はオール漢字)
当時の史書には,「この頃,剣工天国あり」と有すが,これは聊か時代の上げ過ぎであろう。
今は無銘だが昔は「小烏丸」には図の如く,「天国」の銘が刻まれていたらしいのである。その銘だが,持主の伊勢貞丈でさえ「無銘也,朽欠ケテ鑢目見エズ,無銘。本阿彌,其外目利者,皆見テ天国ノ作也ト云」と有り,400年前でさえ銘は定かでは無かった様ですが,流石,当時の刀剣鑑定の第一人者である本阿彌光悦は上記の通り,押形を採択している。それも,大宝八年の月日付きである。一見すると大宝八年と読めるが,大宝は四年迄にて八年は無い,すると弐か参の斜線が残っていると見るしか無いが,これも古来から意見の分かれる処である。
大宝弐年説は「長享二年目利書」(1487)や有名な貝原益軒の「倭訓栞」にも見えており,前者は大宝弐年八月二十五日と月日まで明記をしている。大宝参年説は永徳元年(1381)の「喜阿銘尽」や「宇都宮三河入道目利書」「長享二年銘尽」(安田本)「三好下野入道口伝」新井白石の「本朝軍器孝」にも採り挙げられているが,年号迄は記載されていない。
一年位の差はどうでも良い様に思えるが,この一年が前に述べた大宝令の関係で大きな意義を持つのである。
尚,當繕令の中にある「皆須ラク様ニ…」とあるのは,みなすべからく様式によるべし,と読み,様とは様式や法令の事であり,「試し切り」のタメシとは絶対に読まれぬ様に…。
又,行濫とはインチキの事で,インチキ防止の為に製作者は銘を入れて置く様にという,現在の製造者責任法と偽物防止法とを併せ持った中国伝来の律(法)である。
以上の如く「小烏丸」には未だ未知の部分がかなり有ります。例えば伝来に於いても,少なく見ても三通りもあります。皆様はドレだと思いますか。何かヒントが有りましたら教えて下され,前向きに検討させて頂きますによって…。
イ,平氏五代の祖,平貞盛が将門を討ち,その恩賞として朝廷(朱雀天皇)より賜った。
ロ,清盛と異母弟の頼盛が仲違いをして,源平戦で頼盛系はセーフで伊勢家に伝わった。
ハ,壇ノ浦で和田義盛が拾い,その義盛を北条義氏(平氏)が討ち,後に伊勢家に伝えられた。
但し,この三つとも以下の如く少々苦しい点がござるのでござるょ。
イ 平安期の貞盛と江戸期の貞丈では840年の差があり,ダイレクトに伊勢家へは無理。
ロ 清盛の小烏丸と頼盛の木枯丸とのすり替えも,頼盛と伊勢家の繋ぎもかなり苦しい。
ハ 「喜阿銘尽」(1381)・「長享二年目利書」には,和田義盛,足利義氏の物は別物と有る。
実は,我国には伝来の古い「小烏丸」という同名の太刀(剣)が,他にも何振りか現存しておりますので,次回は公平を期す為にこちらの名物もご紹介致して見ましょう。
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