日本の文化 「日本刀」…Japanese
Sword…
「♪一家に一本 日本刀・スカッーと爽やか 日本刀♪」
其の40(天下の名刀列伝)
愛三木材・名 倉 敬 世
前回,「小烏丸」のネーミングの由来について,桓武天皇が奈良の都の南殿(紫宸殿)にて下界を見渡していた時,天空より巨大な烏が舞い降りて来て,羽根の間より一振りの剣を落として飛び去った故に付いた名前だと申しましたが,この鳥が「八咫烏」であります。
「八咫烏」とは本来は天照大神だけに仕える烏で,神武天皇が高千穂の峰に降臨されて山陽道を大和に向い東征中,岡山付近で土地の豪族の長脛彦に行く手を阻まれ,やむなく海路に変更して紀州の牟呂郡熊野に上陸した折りに,険阻な熊野の山中を先導して無事に大和まで案内した烏として有名であります。皇室ではこの時の恩義からか,近世までこの三本足の「八咫烏」を図案化して器物や衣服に菊紋や桐紋より多く使用しておりました。尤も,4000年の歴史を有する中国では古代から,「太陽の中に三本足の烏が住む」と云う伝承が色濃く語り継がれ信じられておりますので,その影響だろうとは思いますが…。
「小烏丸」の拵えや外装は,柄も鞘も金具も付けた上を「蜀江錦」で包るんであります。
この様に鞘に布を着せた様式を「鞘袋」と呼び,室町時代の将軍の佩刀は全てこの型式で,臣下の武将と差が付けられていましたが,室町中期になるとこれ等の決め事もかなり乱れ,
当時のイエローペーパーである「宗五大草子」の中に「近頃は軽微の走衆の中にも鞘袋を付けている者が目に付く様になった」と云う記述が出て来る様になって参りす。
そして乱れの先が「応仁の乱」なのであります。この11年にも亘る無益な大乱によって,京の都の歴史的建造物はほぼ100%壊滅し,同時に古い考え方も合せて刷新をした訳です。従って,今でも京都では新旧の基準がこの「応仁の乱」(1467?77)だと云われる所以です。その後が明治維新での東京遷都(1868)による明治天皇の遷座だそうでございやす。
因みに,日本サッカー協会のシンボル・マークも同じくこの三本足の八咫烏でござんす。
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日本サッカー協会のシンボルマーク |
日本代表のエンブレム |
八咫の咫は手を開いて親指と中指との間の長さにて,十柄の柄(握り拳)と同じ意味です。又,八とは古代の日本では,八咫勾玉・八咫鏡・大八州島・八十神・八十万神・八千代・等,古事記,日本書紀には「大きい,多い」,と云う意味での「八」が頻繁に出て参ります。
この平家の重宝であり,御物である「小烏丸」と同じネーミングの太刀が日本全国に他にもナンボかござるによって真偽は別として,他の同名の太刀も何振りか紹介をして置きましょう。
1) 「飛騨・国分寺の小烏丸」(「江間家譜」・「幽討余録」・「集古十種」・「刀剣図孝」)。
飛騨国吉城郡高原,現在の岐阜県吉城郡神岡町殿の豪族,江間氏の始祖は平清盛の弟の経盛と云う。壇の浦で経盛が討死した時に美貌の愛妾には二歳になる男の子供がいたが,頼朝の妻の政子の親父の北条時政が上洛した時,愛妾は我が物となし,子は自分の長子の江間小四郎義時に預けた。その後,子供は順調に育ち元服して江間小四郎輝経と名乗った。
併し彼は後に讒言に合い飛騨に流された。その時に小烏丸や青山の枇杷,経盛の赤旗,敦盛の母衣,等を賜りその地に土着をする。為に飛騨が江間氏の本願の地といわれている。
それから17代の後胤である輝盛は武田氏の臣になっていたが,天正十年(1582)に突然,徳川家康は金森長近に命じて江間氏を攻め討たしめた。長近はその折り小烏丸を分捕って家康に献上したが,家康は「これは平家伝来の太刀である,源氏の我等には不要である」として返却したので,長近は自分で持つ訳にも行かず困って飛騨の国分寺に寄進した。
また,別の説では,輝盛が天正十年に牛丸親正と戦い討死すると,帯びていた小烏丸と持っていた一文字の薙刀は親正に分捕られたが,親正は後に金森長近の配下となったので,長近に献上し小烏丸は国分寺に奉納したと古書では伝えているが,その後,何時の間にか同寺を出て越中・富山の人の所持となった様である。それを慶長七年(1602)に飛騨の住人が買い戻して同寺に寄進したが,今度は寺の坊主が「そんな名刀なら,江戸に持って行けばナンボか高く売れるだろう」と悪心を起し,河童らつて寺を飛び出して生き馬の目を抜く,花のお江戸に売りに出て来るが,そうは問屋が卸さず,仲介者に旅費にもならぬ手付けを貰っただけで見事にドロンされ,今度は刀が行方不明になってしまった。天罰,仏罰なり。
が,この太刀が何時の頃かまた国分寺に戻っていて,現在は国の重要文化財でござんす。併し,刀は出来が良いので兎も角としても,この伝承はおかしい。大体,平経盛の遺児は,無官大夫敦盛の他,経正,経兼,広盛,経俊,経光,の五人でこの兄弟は「尊卑分脈」に載っているが,輝経という名は無い。北条時政等と云う大物と関係が有る場合は先ず100%記載されているのにである。…と云う事はこれは多分に江間家の創作と云う事になる。
元来,国分寺では小烏丸を「小鴉」と書いていた模様であるが,物は江間家の小烏丸と同一太刀だと云われている節も有る。何分,古き事なので伝承もコンガラガッテ輻輳している為だと思うが,もともとは平家の重宝であるので,平維盛が寿永三年(1184)屋島を逃れて紀州に渡るとき,弟の資盛に小烏丸を託し,資盛はこれを維盛の嫡子の六代に送った。六代は出家をして三位の禅師と呼ばれていたが,やはり源氏の許しは得られず,捕らえられて鎌倉に送られる事になった。その途中の駿河で岡部権頭忠実に切られると判ったので,小烏丸は斉藤六入道阿請に与えた。阿請はそれを江間輝経に渡した。それから江間家重代となっていたが,十数代後の輝盛が三木白綱入道に滅ぼされた
ときに,輝盛の妻は小烏丸を円城寺の僧侶の春丁に預けていたが,越中の栂尾兵衛祐国邦が妻の兄に当たるのでそれに贈った。
天正十年(1582・武田勝頼自害・織田信長自害),川上小七朗忠尋は祐邦を殺し小烏丸をゲット。天正十五年,それを金森可重に贈った。可重は慶長七年(1602・秀頼・方広寺建立・翌年焼亡)本田正信を介し家康に献上し,徳川家は国分寺大僧都玄海の代に国分寺に奉納した。
現在,国分寺の小烏丸は国の重要文化財に指定されていて,刃長二尺五寸で古剣書の云う長さとは異なるが,伊勢家伝来の物より古いことは確かである。地鉄は無地の如く精美で,地肌に大肌が混じり,刃文は細直刃, 元に焼き落としがあり,豊後行平の様に見えるが,国分寺の伝来では表裏に太い棒樋が有るので,筑後の三池典太光世になっていると云う。
拵えの柄は皮で包み上を琴糸で片手巻きにて,目貫は付いてない,室町将軍家の太刀も琴糸で巻くことになっていたから由緒ある形式である。鞘は黒漆塗り,鐺は紛失して無い。
2) 「遠江の小烏丸」
遠江国榛原郡細江郷,現在の静岡県榛原郡榛原町細江の旧家である江間家は,飛騨国の江間家の分家とも,江間輝盛が牛丸親正に敗れた時にここまで逃れ来て土着したとも云う。輝盛は討死をしているので,当然この地に来てはいないが,この江間家にも小烏丸と申す太刀が有ったと伝えられている。併し詳細は不明であるが前出の国分寺の太刀とかなりの部分で伝承が重複している感じがする。これは後日もう少し調べなければなんねぇべ?。江間家の最寄りの方でご存じの方が居られましたら,お教へ頂ければ有難度き事でがんす。
☆(牛丸氏は飛騨より常陸へ移り佐竹氏の重臣となるが佐竹氏の国替えにより,秋田へ…)。
☆近江(近い海,琵琶湖)遠江(遠い海,浜名湖)。共に国府,国司在住,受領名ともなる。
3) 「成田山の小烏丸」。
安政(1854)の頃,千葉の成田山「新勝寺」に江戸麻布坂下町の柏木重次郎が寄進をした「小烏丸」があった,と云う説が有りますが,詳細はつまびらかではありません。
要は,歌舞伎にも「小烏丸」を題材とした出し物がかなり有ります。「有難御江戸景清」(河竹黙阿弥作,通称・岩戸の景清),「源氏模様娘雛形」(桜田治助作,通称・「田舎源氏」),同じく桜田治助の「文覚」の内,「大商蛭子島」なども大当たりをした様ですので,その
題材と演者であり歌舞伎界の大看板である成田屋(市川団十郎←深川住)の屋号がリンクし小烏丸という刀が結びついたのではないのかなと?,と推察する次第であります。
又,芸能の世界では「小烏丸」という八咫烏は「明烏」と呼び名が変わりまして,清元の「明烏花濡衣」,常磐津の「明烏」「新明烏」,義太夫の「明烏雪の曙」にも移され,歌舞伎化もされております。その他,新内の「明烏后真夢」(富士松魯中作,通称・「正夢」)等も大変な評判を取った様であります。これらは幕末の国学の復興と関係するカモ知れません。
明烏という画題は,本文で紹介した新内流行後の新しいものではないでしょうか。艶っぽい暗喩と同時に,無銘鐔のような旭日を背景にヤタガラスのイメージもダブリます。秀国の目貫は明烏・夕烏図で,三日月に重なるほうが夕烏。
※ 次回の名刀の紹介は何にするか思案中ですが,リクエストが有ればそれにしますので,ご連絡下さい。TEL 03 3521 6868 FAX 03 3521 6871でございまする。 |