東京木材問屋協同組合


文苑 随想


日本の文化 「日本刀」…Japanese Sword…

「♪一家に一本 日本刀・一家に一本 大黒柱♪」

其の41(天下の名刀列伝)

愛三木材・名 倉 敬 世

 日本「三大仇討」のトップとしてその名の高いのが,「曽我兄弟」でありますが,これは文治元年(1185)に念願の平家を壇の浦で滅ぼした,源頼朝が建久三年(1192)に鎌倉に幕府を創設し,そのオープン記念として翌年の三月に富士の裾野にて大デモンストレーションの巻狩りを行い,その時に曽我の十郎・五郎の兄弟が艱難辛苦の末に親(河津三郎)の敵の工藤祐経を討取ったのですが,それを物語りとして著わしたのが「曽我物語」であります。

曽我五郎像 (城南寺蔵の木像) 曽我十郎像

 この本は作者も成立年代も未詳なのですが,事実に照らしている為か大変に人気を呼び,当時のベストセラーとなっており,その中に日本刀の代表的な銘がタント出て参ります。何分にも日本刀の最盛期は「源平争乱」から「蒙古襲来の文永・弘安の役」迄位の鎌倉時代前期ですので当時の日本刀の情況を知る上で「曽我物語」は「平家物語」「源平盛衰記」と並んで貴重な資料なのであります。

 物語は,頼朝の「巻狩り」の布告を聞き,今迄,散々仇討ちの機会を探し求めていたが祐経に姿を隠され巡り合えずに居た兄弟は,幕府の行事なら今度こそ間違いなく姿を現す,そこを狙えば必ず本懐を遂げられると欣喜雀躍し,今迄,陰に陽に世話になり大恩のある箱根権現(神社)別当の行実の所に暇乞いに伺った。兄弟のうち弟の五郎時政は幼少の頃から行実の元で育てられたので取り分けその思いも格別であったと云う。その様な思いからか門出を祝う引出物には特別に箱根権現の宝物庫の中から,兄の十郎祐成には鞘巻の短刀を,弟の五郎には兵庫鎖の太刀が贈られた。〜当時は宝物庫の中の物は別当の自由になった〜。
そして,別当行実はこの二振りの由来を次の様に語った。
兄の十郎祐成が貰った短刀は「微塵」と云う源氏の重宝であり,元来は木曽義仲の持物で,「微塵」と云う名前は,何でも微塵に砕く事が出来,通らぬものは無いと云うところから名付けられたと云われているが,義仲が頼朝との不仲を避けるため,寿永二年(1183)三月嫡子義高を人質として鎌倉に送った。その時に箱根権現に義高の安全を祈願して奉納した短刀がこの「微塵」であった。〜結局,義高はその効も無く首をハネられてしまいます〜。
  弟の五郎時政が貰った太刀は,大江山の*鬼退治で有名な源頼光の愛刀であったという。

* 大江山の酒呑童子を切った太刀はこの国宝の「童子切安綱」が古来より定説であります。これは五郎の貰った刀とは別物ですが,当時の武将は名刀を数多く所持していましたので,その内の一振りだったと思われます。
 その太刀は伝来に拠りますと,頼光が唐から武悪大夫という名工を呼び,三月も掛けて造らせた二尺八寸の太刀で,それを入念に砥ぎ上げさせたので切れ味は凄かったそうです。
 ある時,にわかに風雨となり枕元に立て掛けておいた太刀が風が吹く度にユラ〃〃揺れ,刃先が傍らに積んであった草紙に触れてズバ〃〃と切れた,数えると七十枚も切れていて頼光はその切れ味に惚れ込み(1)「朝霞」と名付けて秘蔵していた。

 それを今度は弟の頼信が貰った,夏の暑い日に縁側で手入れをしながら眺めていると,小さな羽虫が刀の周りをブン〃〃と飛び交い,羽根が刃に触れる度に切られて落ちてきた。その切れ味の凄さに驚いた頼信は早速(2)「虫喰み」とネームを換えさせた。

 次に頼信はそれを嫡子頼義に譲った。その頃,御所では妖怪変化が跋扈して奇怪な事が頻繁に起っていた。或る日,又も激しい震動が起った時に「虫喰み」の太刀がひとりでに鞘から抜け出し地中深く潜って行った。すると震動がパタと止まったので頼義が不思議に思い地中を探らせたところ,九尋もある大蛇が「虫喰み」の太刀で四つに切断されていた。それからこの太刀の呼び名を(3)「毒蛇」とした。
因みに源頼義は陸奥大騒乱(1051・前九年後三年の役)の時の鎮守府将軍で義家の父でござる。一尋=大人の男が両手を一杯に広げた長さで約六尺(182cm),主に漁師が良く使う。

 「毒蛇」はさらに嫡子の八幡太郎義家に相伝された。その頃,宇治に橋姫と云う妖怪が出て人や馬を水中に引きずり込んでいた。或る日,義家が宇治橋を愛馬で渡っていると,十七〜八の美女が浪の間から忽然と浮かび上り,馬もろとも河中に引きずり込もうとした。
その時も腰の太刀がひとりでに抜け出て橋姫の左腕をバッサリと斬り落とした。すると橋姫は鋭い悲鳴を残して流れに飛び込み姿を消し,以来その姿は見られ無くなったと云う。今度はそれを記念して(4)「姫斬り」と呼ばれる様になった。

 義家の孫の為義の時代になると,「姫斬り」は(5)「友斬り」と又もや改名をする事になる。「姫斬り」と云う名のせいか自分より長い刀と並べて置くと,両刀が焼餅を焼いて喧嘩を始め,それが五晩も六晩も続いて,とう〃〃長い方の刀を五寸ばかり切り落してしまった。それで「友斬り」と改名した。…「友斬り」と云う異名が以来源氏に祟る事となる…。

 次の倅の義朝(頼朝の親父)の代になると,彼は鞍馬の毘沙門天に奉納をしてしまった。義朝が平治の乱後に横死の後,遺児である義経(牛若丸)が鞍馬山で修行する身となって,十三年の年月が経ち,いよ〃〃本懐を遂げるべく陸奥に下るに当たり,奉納された源氏の宝刀「友斬り」を鞍馬山&毘沙門天には無断で拝借をして,美濃の垂水の宿まで来た時に夜盗に襲われた。この時,義経は「友斬り」を揮って立ち向かい,十二人を斬倒し八人に手傷を負わせて,盗賊を遁走させるという大活劇を演じている。

 後年,兄の頼朝が鎌倉に平家追討の旗を立てると遠く平泉より馳せ参じ,黄瀬川の陣で劇的な再会を果した。以降,頼朝の代官として平家打倒の軍を率いて西国に向う事となる。その折,箱根権現に戦勝祈願のため参拝をして友斬りの太刀を奉納した,と云われており,後年,その義経が奉納した「友斬り」の太刀を行実が五郎に引出物として与える事になる。

 建久四年(1193)五月二十八日夜,豪雨の中で十郎祐成は積年の恨みを込めて工藤祐経を討ち果たした。その時に祐成が帯びていた黒鞘巻き赤銅造りの太刀は,「奥州丸」と云い
以前は平知盛の佩刀であった。知盛は新中納言と呼ばれた清盛の四男であるが如何な訳か屋島合戦の折に奥州丸を船中に忘れた,これを曽我兄弟の養父の曽我太郎祐信が見つけて大将の義経に差し出した。しかし,義経は受け取らず祐信に「〜功名として取らせる」となって曽我家に伝わっていたが,十郎祐成へは元服の時に引出物として譲られたという。

 祐成は敵の祐経を討取った後も寄せ来る武者をこの太刀で斬って斬って斬り捲くった。そして,最後に仁田四郎忠常と一騎打ちとなったが,奥州丸の柄は血潮で濡れよく滑った,その為,十郎の手の内が狂い刀の平で忠常の胄を叩き,刃こぼれして鋸の様になっていた刀身が鍔元から折れてブッ飛んでしまった,因って流石の十郎もこの世からブッ飛んだ。こうして,兄の十郎は仁田四郎の手に掛り討取られる事となったが,時に二十二歳である。
*仁田四郎忠常,巻狩の最中に突然に猪と出会うが咄嗟に猪に逆乗りをして討取った武将。

 弟の五郎時政も「友斬り」の名刀を振るって心ゆくまで戦ったが,女装をした五郎丸に抱き付かれて縄を打たれ頼朝の前に引据えられた。頼朝も「友斬り」が稀代の名刀であり,箱根権現にある事は知ってはいたが,ご神宝の為に手を出せずに居たとの事で,この度の騒動で結果として入手が出来,「八幡菩薩のお計らいである,忝い〃〃」と三度押し戴き,錦の袋に入れ源家の重宝とした。五郎時政は根性を賞賛されたが軍法により首が飛んだ。

 尚,祐経のとどめを刺した短刀は,もと五郎が箱王と呼ばれてまだ箱根権現に居た時に,敵の工藤祐経から贈られた短刀であった。その短刀で五郎は祐経を心いくまで刺しに刺し,口と耳が一緒になるほど刺したと云う。

  後世,悪口を言うと口が裂かれる,と云う語源になっているというが…。
蘇我五郎所用と伝えられる赤木柄の短刀

 現在,この短刀は箱根神社に現存しており,宝物殿に展示され一般公開されている。刀身は腐朽が甚だしく作風はまったく?で,拵え(外装)も現在はかなり失われているが,江戸時代の柄や鞘は木目の美しい紫檀製であったとの事。当時は神社も手許不如意で,兄弟の為に少々布施を包むと木の部分を少し削ってくれたので,この様な姿になってしまったとの事である。金具は,柄に縁や頭,鞘に鯉口,胴金,小柄,が残り,四分一の金に波と花菱の精巧な彫刻がある。頭と小柄には梅花を彫ってあり金着である。
 この見事な拵えから察すると,これは伝承の通り五郎の短刀の可能性がかなり高い。

 又,宝物殿には兄の十郎が使ったという三尺三寸の大太刀「微塵丸」の展示もしてある。作者は備前の長円との事で元の方に切込み傷が数箇所も有り,往時の激闘を物語っている,本来なら折れてなければならぬが,この点が少々?である。社伝では十郎が討死した後に頼朝が改めて寄進をしたと云われている。尚,銘が長円なら備前は豊前の間違いでござる。

 五郎時政の太刀(友斬り←朝霞)は,箱根神社の伝来では「薄緑」となっております。
この「薄緑」と云う名の太刀も日本の各地に有ります。
(1)「箱根神社」(2)京都・大覚寺(3)京都・安井門跡(蓮華光院)(4)江戸城の御宝蔵(5)三河・剣八幡社(6)宮津・本庄家 これらの全てに伝承が有りますが,今回はカット。
これらは,どれも源頼光の「朝霞」とは発祥が異なっており,ニックネームが同じでも銘とトレサビリティ(鍛刀地)が違えば完全な別物となります。

蘇我五郎所用と伝えられる赤木柄の短刀

 折返し銘「長円」 刃長 二尺四寸六分 反り 八分強 元巾 八分二厘 茎 五寸八分 尻切り。
 鎬造 庵棟 磨上ながら腰反り踏張りつき 小峰となる。鍛 小板目肌よく詰みネットリし地沸付く 刃文 中直刃 互の目小沸よくつき処〃に金筋かかる 帽子 浅くのたれ先小丸。
 彫物 表樋に素剣 裏に梵字 茎 大摺上 先切り 反り僅か 旧鑢目勝手下がり 目釘穴 1 折返して長円とやや太鏨の大振りな銘がある。
 長円は豊前の刀工で時代は永延(1046)と云い同名が数人居る。この太刀は磨上げで折返し銘となっているが,地鉄が如何にもネットリしている点,直刃調に小乱を交え小沸えが
付いて総体に潤んでいる点など,全てに豊後行平を連想させる。時代も行平を下らぬ物で現存する物の中で最も古い物である。源氏の宝刀「薄緑」はこれであると云われている。

「三大仇討」
(1)「曽我兄弟」富士の巻き狩り。
(2)「荒木又衛門」伊賀上野,鍵屋の辻。
(3)「赤穂浪士・忠臣蔵」本所松坂町吉良邸。
※ 実は日本最後の正式な…藩主の認可…,仇討ちは深川の猿子橋(六間堀←高橋)で行われ,願主の母子は本懐を遂げております。


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