東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.89

「道後温泉」と「松山城」

青木行雄


道後温泉
  どこの温泉にも夫々いろいろの歴史がある。この「道後温泉」は西の有馬温泉,及び東の草津温泉と共に日本三最古(名湯)温泉の一つと言われている。其処へ行って見たのだが,さすがに歴史を感じる温泉本館の佇まいであった。

※道後温泉本館の前,早朝6時前の風景である。開湯時間
にはかなりの人が集まっていた。

 早朝,6時に開場と聞いてホテルを出掛けた。太鼓の音が6打,響き渡り,開湯の合図である。近隣に宿泊の観光客や近所のリピーターがその太鼓音と共にどっと入場する。なんとも言葉に言い表せない光景であった。入場料は一般「神の湯」階下400円也,地元の人も料金は同一とか。安いか,高いかは,入浴して見ないと分からないが,実に歴史を感じた一時であった。一般の湯には,西湯と東湯があって,夏目漱石の「坊ちゃん」が入ったのは,西湯であったとの事で,開場と同時に西湯が満員となり,なんと滑稽な現象では…と笑ってしまった。
 そこで我々は逆に最初に東湯に入浴し,ちょっと時間をおいて,西湯に楽々と浴した次第である。中には「坊ちゃん」縁の木札があった。この本物の木札が見られるのは,残念ながら男湯の「神の湯」のみで,女性は見ることは出来ない。
 それでは「道後温泉」について,歴史から,詳解して見ると…。
 その昔,足に傷を負った一羽の白鷺が,岩の間から湧き出ている温泉を見つけ,傷を癒やした事に由来している,と書かれている。
 そして,大国主命が重病の少彦名命を入浴させたところ快癒し,「玉の石」の上で舞ったと伝えられている石があった。


※本館の一角,側面にあったがこれが「玉の石」の神話
に出てくる石である。
 それにこの地を訪れた聖徳太子が霊妙な温泉に深く感動し,風光明媚な道後の風土と温泉を称えた,と言う碑が湯の岡にある。
 そして,約370年前の1635年(寛永12)に,松山藩主となった松平定行は,道後温泉の施設充実に着手して,地方から来湯する僧侶や,婦人,庶民男子などが入浴出来るように浴槽を整備し,入浴料をとる温泉経営を始めた,と記されている。
 このように,この道後温泉は白鷺伝説から3000年の歴史があり,多くの偉人・文人墨客が来湯している。この湯に浸かって病を治した少彦名命をはじめ,天皇や皇族,聖徳太子,また小林一茶,与謝野晶子等の文人や伊藤博文や板垣退助等の大物政治家も,当湯に入湯されたとの記録が残っている。
 とくに俳人小林一茶は,2度にわたって伊予路を訪問,残した句に「寝ころんで蝶泊らせる外湯哉」とあるが,のどかな道後の旅情がうかがえる一句である。
 又この道後温泉本館は道後温泉のシンボルであり,1894年(明治27)に建てられたと言う木造三層楼は113年経っているが,当時でも大変珍しい建築様式だったらしい。完成の翌年に松山中学(現松山東高校)へ赴任してきた文豪・夏目漱石も幾度となく通ったと言う。小説「坊ちゃん」の中に登場する住田の温泉とはこの本館の事を言った。そんな事で道後に行った機会に,今,改めて「坊ちゃん」を読み直した所である。
 また平成6年に,この本館が国の重要文化財に指定され,日本の貴重な建物となった。
 どっしりとした,落ち着きのあるこの木造の佇まいから,伝統の風格がうかがえ,現在もなお多くの観光客で賑わっていると言う。周辺の建物は殆どがビル化して,この本館のみがポツンと明治の雰囲気を残している。
 道後の朝の名物となった刻太鼓と一番風呂を味わった私達だが,一日平均3200人が入浴すると言う本館には,観光客の他に地元客も多く,私が文頭に記したように一番風呂を目当に訪れる人も少なくないようである。
 毎朝6時の太鼓を合図に開館するこの本館は,道後の朝の名物となり,環境庁の残したい「日本の音風景百選」に選定されたと言う「刻太鼓」がそれである。
 昔は,毎時間おきに鳴らした事もあったようだが,今は,朝6時に6回,正午には12回,夕方6時に6回,ドーン,ドーンと迫力のある音が町中にこだまする。

※木造3階建の上にある「振鷺閣」,この中にある「太鼓
」を1日3回,人の手で道後の町に時を知らせる。なんと
も風情があると思いませんか。

 行かれた事のある方は御存じだろうが,日本にここだけの皇族専用の優美な浴室がある。皇族の方が道後へ来られた際,温泉に入って頂くために造ったと言う特別室の湯室である。
 1899年(明治32)に完成したと言うが,造作は内地ツガ材を使用,道後では最高級材と言うことであった。畳や壁の仕上げも最高級品を使い,隅から隅まで優雅な造りで,入口の手前から奥へ「前室」「御居間」「玉座の間」と続き,その横には警護の人が控える「武者隠しの間」もあった。奥の「玉座の間」は天皇陛下だけの特別室である。別に御影石の浴槽,トイレなど特別に作った部屋もあった。入室料も掛かるが,時間があれば,見ておきたい。


※皇族専用の浴室の建物「又新殿」の正面。内地高級ツ
ガ造作と銅版で仕上げた屋根,実に優雅な木造建築では
ありませんか。
入浴料金
「霊の湯」三階個室 (1時間20分) 大人1500- 小人750-
「霊の湯」二階席 (1時間) 大人1200- 小人600-
「神の湯」二階席 (1時間) 大人 800- 小人400-
「神の湯」階下 (1時間) 大人 400- 小人200-
    「神の湯」には西,東と男湯が2室ある。女湯は1室である。
※道後に行ったら,一度は行って損のない本館・元湯の紹介でした。

松山城
 四国の松山と言えば,気候も温暖で台風の通過が最も少ない所と言われ,台風の被害が殆ど発生していない。そのような事で人情味のある風土のようであり,正岡子規等の文人も多く輩出しており,浪漫漂う街と言えそうである。
 道後温泉から程近い街の中心の城山に「松山城」はあった。町や市の中心に城・天守閣があると言う事は,その町のシンボルであり,その町の品格が問われるような気がしてならない。ここ松山にはその品格が備わっているような気がした。最近,年月を掛け,リフォームをして,ピカピカの立派な姿が蘇った。

※緑に映える,ピカピカの「松山城」である,日本を代
表する連立式平山城の一つである。どこの城も桜の名所
であるが,ここ松山城も有名な桜の名所である。

 では,「松山城」の沿革について
 松山城の最初の創設は加藤嘉明である。嘉明は1563年(永禄6年)に三河国(今の愛知県)永良郷加気村に生れた。父広明は徳川譜代の武士であったが,嘉明が6才の時に美濃国(今の岐阜県)で死去している。その後,羽柴秀吉に見出されて秀吉の家臣となった。20才の時に賤ヶ岳の合戦において七本槍の一人として武勲をたてた。その後,従五位下左馬介に補せられ,伊予国正木(伊予郡松前町)6万石の城主に封じられ,また1592年(文禄)・1597年(慶長)の役には九鬼・脇坂らの諸将とともに水軍を率いて活躍し,その功によって10万石に加増された。
 そして,1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いにおいては徳川家康側に従軍し,その戦功を認められて20万石となった。そこで嘉明は1602年(慶長7年)に道後平野の中枢部にある勝山に城郭を築くため,普請奉行に「足立重信」を命じて地割を行ない工事に着手し,1603年(同8年)10月に嘉明は居を新城下に移し,初めて「松山城」という名称が公表されたのである。その後も工事は継続されたが,時間が掛かり,24年後の1627年(寛永4年)になって漸く完成したのである。当時の天守閣は五層で見事な偉観を誇ったと言うが,1627年(寛永4年)に嘉明は会津へ転封された。嘉明の松山時代は25年間だった,と記されている。
 そのあとへは蒲生氏郷の孫忠知が出羽国(山形県)の上の山城から入国し,二ノ丸の造築を完成したが,1634年(寛永11年)8月参勤交代の途中,在城7年目に京都で病没した。嗣子がなかったので断絶となった。
 その後,1635年(寛永12年)7月伊勢国(三重県)桑名の城主「松平定行」が松山藩主15万石に封じられて以来,14代世襲して明治維新に至っている。
 なお,天守閣は1642年(寛永19年)に五層から三層に改築されたと言うが,1784年(天明4年)元旦に落雷で焼失した,となっている。その後,1820年(文政3年)から再建工事に着手し,35年の長き歳月を経て1854年(安政元年)に復興している。これが現在のリニューアルされたピカピカの天守閣であると言う。
 昭和に入り,小天守閣やその他の櫓が放火や戦災などのため焼失したが,昭和41年から全国にも例を見ない総木造による復元が進められたと言う。
 「松山城」は海抜132mの勝山山頂に本丸を置き,中腹に二ノ丸,山麓に三ノ丸(堀の内)置く広大な規模を持つ,姫路城・和歌山城と並ぶ典型的な連立式平山城である。
 「松山城」は廃藩置県により兵部省の管轄となったが,城郭廃止の令により大蔵省の所管となり,やがて大正12年,旧藩主久松定謨氏より,松山市に寄贈された。

 松山には何度か行く機会があって,温泉にも何回か入り,松山城も見て来たが,行く度に何か新しい変化を感じる町である。そして,町全体が古い物を残し新しい物に挑戦しようと言う意欲みたいなものを感じた。新しい事と古い昔の面影を残しながら,新旧共存の町を意識した,町や市民の取り組みが見えて来る。"「坊ちゃん」がんばれ!!"

平成19年7月8日記
 


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