日本の文化 「日本刀」…Japanese
Sword…
「♪一家に一本 日本刀 一家に一本 大黒柱♪」
其の43(妖刀・村正 II)
愛三木材・名 倉 敬 世
さて,「村正」は刀としての実力が抜群の為,前回に記した如く,(1)祖父清康の守山事件,(2)父親広忠の岩松事件,(3)と(6)の自身の不注意での怪我,(4)嫡男信康や正妻築山殿の事件がたて続けに起り,流石の家康も「村正は当家に不吉なり,残らず取り捨てよ!」で「村正廃棄令」となり,これが勝手に一人歩きを始めた訳です。併し,これが意外に曖昧で守られたり無かったりで,どうも解釈がマチ〃〃だった様でござんす。
大体ご本人の遺品の中に暦とした「村正」が有り,この村正は御三家筆頭で第七子の尾張義直公に譲られている。尤も,尾張家の刀剣台帳には「潰し物になるはず,用たち難き部類に入れ置く事」と書き込みがされているが,現物は潰されずに今日まで残っている。(現在,この刀は名古屋の徳川美術館で時に応じて展示されている)。
徳川一門で之だから,外様の各藩は憚ること無く愛蔵をしていた。準親藩の仙台藩の三好家の「狐切り村正」,肥前小城藩主・鍋島家の「題目村正」(前号掲載),これ等は当時より有名であったが,別段,何の咎めも無く現在まで継承されて来ている。
だが,逆に運の悪い御人も居る,その筆頭は豊後府内の城主,竹中采女正重次であろう。彼は寛永九年(1632)に長崎奉行となって,切支丹禁令の時に威力を発揮した「踏み絵」の発案者でもある。この重次と元は堺の商人で長崎に移住してきた平野屋三郎右衛門とが,その妾を巡り大騒動となる。挙句の果て平野屋は江戸に登り,〜恐れながら〜と訴え出た。そして重次の密貿易他の悪行が次々に暴かれたが,その中に徳川家に「捨てちまえー」と云われた「村正」が大小24腰も隠匿されていたのが露見した,さぁ〜大変。不届千万で,お家は断絶,家財は没収,重次は息子の源三郎共々切腹,という重罪になってしまった。寛永11年(1634)の事である。
これは普通ならば遠島,罰金で済む罪であるが,どうも重次の魂胆が良くなかった様だ。幕府にヒビが入ったら,徳川家に仇なす村正は必ず急騰すると読んだ事が裏目に出たあ〜。 |
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桑名住村正作
(大永〈1521〉
ごろの作) |
(重要刀剣)
刀 村正,地鉄大
板目,刃文五ノ目
れ。匂深く足入り
典型的な村正の作
風である。 |
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刀 村正
妙法蓮華経銘
刃長 二尺一寸九分
重要美術品
永正十天 酉癸
十月十三日(1513) |
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「田沼折紙」と云う用語が刀剣界には有るが,この語源は徳川幕府十代家冶のお側用人田沼意次より発祥している。要するに賂が(賄賂)全盛という世相(明和・1775)で,全ては贈り物で「カタ」が着くと云う大変に判り易い時代であったが,やはり剥き出しの金品はご法度でありやした,では如何なればセ〜フだべと呻吟して出した答えが「武士の表道具」。この贈答ならOKとなり刀剣や馬や鷹が遣り取りされた。この贈賄システムは実に巧妙に出来ており,説明に少し時間が掛りますので興味の有る方はご連絡下さい,後程ソ〜ッとお教え致します。
この「田沼折紙」のお陰で,以後の刀剣鑑定に於ける折紙の評価は天・地の差となる。さて,この意次の倅を意知と云うが,この意知も親の七光りで若年寄りとなっていたが,天明四年(1784)三月二十四日,意知は同輩の酒井忠休,米倉昌晴,大田資愛,と共に肩を並べて江戸城中の桔梗之間に差し掛かった時,新番士の佐野善左衛門政言に呼び止められ脇差で袈裟懸けに斬り付けられ,次に太々(メタボのヘソの意)を払われOUTとなり果てる。同輩の三人は仰天動地で雲を霞と逃げ出したが,その後を歩いていた松平対馬守忠郷は,政言が抜刀したのを見ながら,意知を倒す迄は知らぬ顔の半兵衛で,二の太刀を浴びせた事を見届けてから,初めてムンズと組み付いた。そこえ柳生主膳正が駆けつけて,政言の刀を奪い取った。この時の脇差が狆の血を塗った一尺七寸五分の「村正」であったそうだ。
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狆(チン) |
(1)当時は殿中では一尺八寸以上(大脇差)の刀は佩用禁止であった
(2)狆を斬った刀で斬られると助からない,と云う迷信があった。
佐野政言が刃傷に及んだ理由は七ツほど挙げられているが,現代では余りピーンと来ない。(1)系図の問題。(2)領地侵犯。(3)昇格斡旋。(4)鷹狩り問題。これらが主な理由であるが,殿中の抜刀は理由の如何を問わず「お家は断絶,其の身は切腹」と云う事は,武士たる者全員すべからく合点承知なのだから,バランス感覚で申せば親父の意次と刺し違えてこそイーブンと云う気がするが,倅の若年寄では少々役不足であったろう。
結局,政言は意知が四月二日に落命したので,城中の揚げ屋敷で翌三日に切腹となった。
次は文政六年(1823)四月二十二日の午後,今度は城中の書院番詰所で大事件が起こった。下手人は新任の書院番であった松平外記忠寛,彼は若年ながら旧弊な部屋の空気の変革を試みた為に何かにつけて古参と意見が異なった。それは(1)勤務の順番,(2)婚儀の鞘当て,(3)将軍臨席の鳥追いの拍子木役(指揮),これらが原因で常に古参達のイジメに会っていた。
当日,彼は蒼白な顔で登城をして,塞ぎ込んでいるので同輩が早退を進めても取合わず,午後になる益々酷くなって油汗を滲ませ耐えていたが,突然,本多伊織に斬つけその頸をぶらさげて,伊丹甚四郎の前に立った。帳付けをしていた甚四郎はブッと云う音を聞いて顔を上げると,そこに伊織の頸が揺れていた。ワッーと叫んで甚四郎は階下に飛び降りた。間部源十郎は前日の鳥追いで疲れて,横臥している時に斬りつけられそのまんま,気絶!。神尾五郎三郎も寝ていたが飛び起きて逃げ臀部を斬られたが,2Fより転げ落ちてセ〜フ。戸田彦之進は深手を負いながら障子を持ち防いでいたが,二の太刀でバッタリ倒れアウト。沼間右京は外記を取り押さえ様としたが,一刀の元に斬り伏せられ絶命。侍として勇敢に立向ったのはこの二人だけで,その他の者は,布団部屋,厠,縁の下,に逃げ込んで息を殺して潜んで居た。井上政之助の如きは無刀の儘,袴も穿かずに自分の屋敷まで逃げ帰り,父に叱られ帰城した,と云う腰の抜けようであった。アウト3,ケガ2,セーフ5,=10。
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外記は二階に人影が無くなると,階下に下り縁側に出て手水鉢の水で血刀を洗いながら,悲痛な声で「安西を討ち漏らしたは,残念!」と独語の後,しずくの垂れる刀を2?3回打ち振った後,懐紙を取り出し静かに拭い,刀にキリキリと巻き付けたと見るや,エーイと云う掛声もろともグサリと頸に突立て,身体をくの字に折り曲げて倒れた。広縁に赤い血潮が這う様に拡がっていった。時刻は丁度七つ時(午後四時)のサンセットの頃であった。
この時の刀も「村正」だったと云う説が流布している,元来この松平家にはかねてから「村正」が伝来していて,父親の忠順は「村正は血を見ねば鞘に納まらぬというが,そんな刀は当家には無用なり」と佩用を禁止していたが,その日の外記はこの教えを守らず,敢えてその鉄拵えの「村正」を帯びて登城をしたと云う。これは覚悟の上の事であったのであろう。
この刀は事件後に菩提寺である,深川の「霊厳寺」に納めたが明治十四年の大火に同寺が類焼した際,灰塵の中に焼身となった脇差が一振り有ったそうだが,住職は気にも留めず古鉄類と一緒に売り払ってしまったと云う。どうもそれがその時の刀であった様である。
大分以前だが,当方の手許にも明治の始め頃に吉原田圃(遊郭)で六人斬りをしたので,村正から広正に銘を改竄したという豪刀が当時の記事が載った新聞と共に舞い込んで来た。刀屋の触れ込みは「かなり聞えた材木屋さんの持物でしたので」と「材木屋繋がりだから,どうです」,という口上であった。確かに然もありなんと云う顔をした村正であったので,何かの縁だと思い貰っておいたが,3年程逗留をした後,出世(鑑定書のランクアップ)をして出て行ったが,今頃はどこのお屋敷に納まっているのやら,出来たらもう一度そのアデ姿を見たいものである。
「村正」の妖刀伝説は前記の様にスタートしたのが実態であるが,江戸も末期になると庶民の刀工の知名度としては,我国の数ある刀鍛冶の中でも間違い無くダントツでござる。「火事と喧嘩は江戸の花」と良く云われるが,それにプラスして庶民の超大好きな娯楽に芝居がある。今も昔も戯作者は時の世情には殊のほか敏感であって,そのモットーは常に針小棒大を旨としている。「村正」は正にこの条件にドン・ピタリなのでござる。
因って,次回は「村正」を喧伝した芝居を中心に検証して見たいと思っておりますです。
訂正,七月号の14頁で家康の幼名を松千代と書いた様だが竹千代の間違い。〜ご免侯ぇ。
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