東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(19)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 私は有明のまちづくりのお手伝いをさせて頂いておりますが,今臨海部は大きく変貌を遂げようとしています。
 石原都知事,山崎江東区長が推進している東京オリンピック招致運動や,築地市場の移転等が弾みとなって,湾岸地域は未来都市建設の槌音が高く響いております。
 世界に誇ることのできる都市を創るには,歴史に学ぶことが欠かせない,ということになり,長浜市,京都市の視察に出掛けました。
 東海道新幹線を米原で降り,バスで琵琶湖畔を走ると,長浜城が見えて来ます。
 豊臣秀吉が未だ青年武将のとき,ここで初めて城持大名に抜擢されました。以後トントン拍子で出世し,遂に天下人,関白,大閣にまで昇りつめました。よって「長浜城」は別名,「出世城」とも呼ばれました。
 琵琶湖は古代より,周辺地域に大きな恵みをもたらしました。天野川,愛知川,日野川,野洲川,安曇川,姉川などから豊富に水が流れ込んで来ますが,琵琶湖から流出するのは,瀬田川のみです。瀬田川は京都に入ると宇治川,大阪では淀川とその名を変え大阪湾に注ぎます。
 長浜は,北は北国街道,東は中山道,南は大津,京都に通じ,織田信長が「近江を制するものは天下を制す」と云った通り,交通の要衝で,陸路の他に水運にも恵まれています。
 長浜の三代目の城主は山内一豊でした。
 江戸期には縮緬の産地として栄え,秀吉が奨励したと云う「曳山まつり」などの町衆文化は粋を極めました。天秤棒一本で身を起こし,全国を歩いて財をなした近江商人たちもここから輩出しました。
 長浜城は寛永年間に廃城となりました。秀吉以来,400年も繁栄して来た長浜も,地場産業の低迷とともに陰りが見え始め,大型スーパーの進出が追い討ちをかけます。
 そこで,官民手を携えて知恵を絞り,窮余の一策として寄付を集め,長浜城を再建しました。昭和63年,第三セクター「黒壁」が誕生します。明治23年に建てられた第百三十銀行が黒漆喰の壁で「黒壁銀行」の愛称で親しまれていたことにヒントを得て,壁の色を黒で統一したことによる命名です。次に,目玉商品を何にするかで,議論百出,アイデアは出るが,仲々実行に踏み切れない状態がしばらく続き,結局,ガラス工芸を前面に出そう,ということになりました。八割を輸入し,二割を工房で制作,販売,顧客にも公開して,制作指導もした処,これが評判となって,自分の作品を持ち帰って自慢し,それを見た人が,それでは私も,とやって来て,平成8年には600万人の観光客を集めることが出来ました。平成6年,映画「男はつらいよ」第47作の誘致に成功。市民による「寅さんに会えそうな町づくり委員会」をつくって,湖北ロケに協力しました。
 数年前のNHK大河ドラマ「功名が辻」の放映で,長浜は一躍全国的に知られるようになりました。
 昼食,散策の後,開知学校で聞いた,まちづくりの中心人物,伊藤氏の熱弁には,我々参加者一同,つい引き込まれ,有明のまちづくりの参考となる多くのヒントを得たのではないでしょうか。中身の濃い視察の後は,築城400年で大変盛り上がっている「彦根城」の見学です。
 西暦1600年,関ヶ原の戦いで,東軍の急先鋒として活躍した井伊直政は,その功により,彦根藩35万石の領地を安堵されました。城の完成は1607年で,初代藩主直政は合戦の傷が因で亡くなり,城の雄姿を見ることは出来ませんでした。城は西軍の総帥として敗れた石田三成の居城,佐和山城の目と鼻の位置に建てられました。当然,佐和山城は解体,積石は彦根城の石垣に使われました。
 「三成に過ぎたるものが二つあり,島の左近と佐和山の城」バスのうぐいす嬢と城案内のボランティア氏から同じ俗謡を二度聞きましたので,すっかり覚えてしまいましたが,佐和山城もかなり立派な造りであったようです。彦根城は犬山城,松本城,姫路城と共に国宝に指定されました。まわりの堀を巡る遊覧船も動いており,城全体を見て歩くと半日かかるので,彦根城が如何に大きいかが分かります。ボランティア氏の要領を得た案内で,早足ではありましたが,彦根城400年の歴史を,天守閣まで往復しながら,短時間で検証をすることができました。14代藩主直弼は13代藩主の11男でした。本来ならば,他家に養子に行く所でしたが,兄達が次々に亡くなり,35才で当主になりました。不遇の時代を悶々として過ごした小さな屋敷を自ら埋木舎と呼んでいたそうですが,遂に幕閣の最高位である大老に抜擢,辣腕をふるいました。途中の石段はほとんどが築城当時のままで藤沢周平作,武士の一分の撮影で使われました。映画を見た人は,山形の海坂城と思い込み,まさか彦根城とは思わなかったに違いない。彦根城は明治維新で解体廃城の危機もあったようですが,大隈重信が明治天皇に取りなして,何とか廃城を免がれ,当時のままの威容を誇っています。世界遺産に推挙する案も出ているようです。日本の将来を考え,独断で日米通商和親条約を結んだ井伊直弼は,1860年,桜田門外の変で凶刃に倒れ非業の最期を遂げましたが,奇しくも100年後,学生達の反対を押し切って,1960年,時の宰相岸信介氏は,日米安保条約改定を断行しました。今は平和で,岸信介氏の孫,安倍晋三氏が,"美しい日本を創ろう"と呼びかけています。日本は今,多くの人の犠牲により,平和を保っています。経済の成長もまちの発展も平和があってこそのものであります。科学技術の進歩により,我々は超能力者ではないかという錯覚に陥り勝ちでありますが,これも,艱難辛苦の末,今の発展の礎を築いた先人達の賜物であります。そして将来の発展の為には,決して驕ることなく,謙虚に歴史に学ぶことがよいと思われます。


※彦根城天守閣



前のページに戻る

Copyright (C) Tokyo Mokuzai Tonya Kyoudou Kumiai 2007