東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(20)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 今,日本列島は猛暑の中,夏祭りが盛んである。お祭りと云えば盆踊り,盆踊りの定番は東京音頭と炭坑節でした。
 『月が出た出た 月が出た ヨイヨイ 三池炭坑の上に出た あんまり煙突が高いので さぞやお月さんけむたかろ サノヨイヨイ』
 何故,九州,三池炭坑の歌が東京で流行るのか。いや,東京だけでなく,全国で流行っていたようです。
 戦争が終り,従来の富国強兵に替って,戦争放棄,国土復興が叫ばれました。即ち,炭坑節は,鉄鉱石を輸入し,石炭を掘り,復興資材を生産する,国土復興,再建の応援歌でありました。
 戦争中は全国から金物を供出させ,山から木を伐り出して軍需物資をつくり,山は丸裸になりました。戦後のスローガンの一つが,植林の奨励です。
 『昔々その昔 椎の木林のすぐそばに 小さなお山があったとさ あったとさ 丸々坊主の禿山はいつでもみんなの笑いもの これこれ杉ノ子起きなさい お日さまにこにこ声かけた 声かけた』 これはまぎれもなく,植林奨励の歌です。戦争で荒廃した山に,せっせと木を植え,日本は森林大国になりました。飛行機から俯瞰すると分かりますが,日本の国土 38万平方粁の三分の二が緑で覆われていますが,うち半分の12万平方粁が戦後植えられた,主に杉の林であります。
 ところが,現在日本で消費されている木材の80%が輸入によって賄われています。
 1950年,木材の自給率は100%でありましたが,2005年には何んと20%にまで下りました。この不思議を解く鍵は,1950年に勃発した朝鮮戦争にあります。
 太平洋戦争が終結し,日本領土であった台湾,千島,樺太,朝鮮は召し上げられ,沖縄は米軍が統治します。朝鮮半島は38度線で南北に分割,北はソ連軍の大尉 金日成(金正日の父親)が統治,南は 米国主導により,李承晩政権が誕生しました。
 1950年6月,38度線を突破して,突然北朝鮮軍が南に攻め入って来ました。これに米韓連合軍が応戦,朝鮮半島は戦場と化します。日本は,平和憲法によって戦争放棄しておりましたので参戦できず,在日米軍基地から米戦闘機とGIが飛び立って行きます。
 日本は俄に,軍需物資生産の基地となり,漁夫の利を得て,多くの企業がこれに関わって好景気に湧きます。戦争で焼け出された人達も,この際マイホームを,という訳で住宅需要が出て参りましたが,植林した杉が未だ育っておりません。成長の早い杉でも40年?60年しないと適材になりません。やむを得ず,急場凌ぎに世界中から外材を輸入することになりました。
 国内の主要港は外材の丸太で溢れ,輸入金額では原油に次いで2番目になった年もあります。まちづくりの仕事で,東京都港湾局発行の大册「図表でみる東京臨海部」を繙いておりましたら,有明に関して次の2件の埋立事業が実施されていたことが分かりました。
 1. 有明1丁目 40ha 昭和11年免許取得 竣功 昭和28年,32年 用途 木工団地
 2. 有明町  75ha 昭和11年免許取得 竣功 昭和28〜40年  用途 公園

 2番目の75haはゴルフ場,飛行場がありましたが,今は有明テニスの森となりました。
40haは今再開発中の元木工団地です。免許取得から竣功まで30年近く経っているのは,戦争による中断の為と思われます。私の推測では,当初の用途は重工業か倉庫であったものが,先刻述べたような事情で,木工団地として,外材の貯蔵及び製材等の受け皿と化したものでありましょう。
 この傾向は東京のみならず全国の港は外材原木が貯蔵されておりました。1959年名古屋港では伊勢湾台風が襲来,高潮で丸太が街に流出し,5千人以上の犠牲者が出ました。
 住宅着工戸数が未曾有の190万戸を記録した1974年は丸太の輸入もピークとなりました。
 あれから30年余り,時は巡り,2度のオイルショック,バブル経済の勃興と崩壊を経て,日本経済は緩やかに回復し,今は大きな転機にあります。少子高齢化,地球環境問題,資源問題,地産地消,BRICs諸国の抬頭等,内外共大きなうねりが渦巻き,問題は山積しています。
 臨海部の木工団地はその役目を終え,未来都市建設が進み,新木場も木工団地から物流の基地となり,将来に向かって,交通の要衝,水辺の景観を生かしたまちの再開発の企画立案が論じられています。
 今後50年,100年はどんな姿になっているのでしょうか。
 21世紀に活躍する次世代の人達に,見果てぬ夢を託し,期待するのみであります。




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