東京木材問屋協同組合


文苑 随想


日本の文化 「日本刀」…Japanese Sword…

「♪一家に一本 日本刀 スカッーと爽やか 日本刀♪」

其の46(同田貫〜アゲイン〜清正加藤)

愛三木材・名 倉 敬 世

 九月半ばの三連休+ワン日で九州の西半国を回って参りやした。接近中の台風14号とのコラボレーションを覚悟して羽田を飛び立ったのですが,普段の心掛けが良いせいもあり,正面衝突にはならずモザイク型の天候でしたが,博多では名物の屋台にも立ち寄り,豚骨ラーメンも味わう事が出来,意外に淡白な味と値段の安さに家族一同ビックリ仰天でした。
道真をまつる太宰府天満宮 太宰府天満宮本殿
 翌日は今を去ること733年前の「文永・弘安の役」で蒙古(元)の大軍にコテンパンに負け,防衛線も突破され大本営たる太宰府まで押込められ,明日は全員玉砕と覚悟をしていたが,一夜明けたらビックリ仰天!,何と前夜の大風で全ての敵船が大破か転覆。因って日本は武運拙く全滅になる所を風神雷神(菅公)のお陰で奇跡が起こり九死に一生を得たので御猿。

太宰府と箱崎附近の地図 蒙古軍船(蒙古襲来絵詞)
 蒙古の襲来は文永11年(1274)と弘安四年(1281・太宰府陥落)の二度あり,そのつど二度も大風が吹いたのである。この風を後に神風と云う様になるのだが,お陰で日本は武力では無く,神風でモンゴル帝国(元王朝)の属国にならずに済んだのである。
元のフビライ汗(1215〜1294)
チンギス汗の孫,全中国を征服
して大帝国を作りあげた。
奮戦する肥後国の住人,竹崎季長
 併し,この時に吹いた神風が700年後の日本の運命を大きく変へる要素になるのである。以来,我国は「無敵である,イザとなれば神風が吹く」という,とても正気とは思えぬ説が罷り通り「神国・日本」の題目となり,代々の為政者に好き勝手に利用され,数多の戦争の金科玉条にされた結果,第二次世界大戦にも参戦し悪戦苦闘の日々となり,毎日〃〃「今に神風が吹く!」と祈ったが,毎年タイフーンは来るのだが,頼りの神風はチラとも吹かず,代わりにUSAのATOMBOMBが二度も降って来て爆発,とうとう昭和20年8月15日,
「神国・日本」は崩壊し,「無条件降伏」と云う前代未聞の結末を迎える事となった。
  その神国の高邁な思想であった「武士は食わねど高楊枝」も「ギブミーチョコレート」に敗れる訳だが,蒙古来襲の時に神風が二度も吹かなければ,結末は違っていたかも知れぬ。
  さすれば,あの時に神風を吹かせて日本を救った,天神様(菅原道真)とは何者なりや。彼は文章博士で東宮学士の菅原是善の三男として,承和12年(845)に京都に生まれている。流石にそのDNAはてぇ〜したもので,幼少より,トビ級・飛級・二回級特進,と進んで,アッーという間に右大臣。ここまで来れば左大臣(当時の双六の上がり)は目と鼻の先である。しかし,道真さんはここで初めて躓いた,それも左大臣藤原の時平の讒言によってである。(自分の娘が妃になっている斉世親王を天皇に立てる画策をしていると時平に密奏された)太宰権師として左遷となり二年後,太宰府のボロ屋で還暦まで数日の59才で憤死する。
醍醐天皇(885〜930) 溝口禎次郎筆【菅公左遷】 配所で都を思う
 冥土に行っても,道真は怒りに怒りとうとう怒り過ぎて,天満大自在天神という神様に,昇化してしまった。その手下(驚く無かれ,16万8千の眷属がいる)の三番目に火雷天神と申す雷を司る神が居て,連日連夜,宿敵の居る清涼殿に来て呼び出しを掛けて,とうとう左大臣時平とタイマンの勝負となったが,感電死させて火雷天神の勝ち。時に時平39歳。
 この時の死者は,時平,以下,大納言藤原清貫(全身火傷),右中弁希世朝臣(顔面火傷),是茂朝臣(踏殺),近衛忠包(鬢を焼く),紀蔭連(煙咽る)。殿上人だけでも6名を数える。
※時平は道真の手下の雷神を相手に良く戦った,衣冠束帯姿で抜刀し八双に構えた姿は,一歩も引かぬ烈々たる気魄が感じられ,流石に左大臣,て?えした者であるが,雷に対し太刀で立ち向かうのは如何なものか,雷の一番の好物は金物であり,このミスが致命傷。それにしても,時平の太刀は素晴らしい逸品である,今に残れば間違いなく国宝であろう。
  この事件は延長8年(930)6月26日に起きた実話であり,この後も道真の怒りは治らず,御所への落雷も数度に亘り,頻繁に起きた鴨川の洪水も全てが道真の怨念の仕業とされた。
  左大臣家は時平が39才で落命した後は跡取りも女御の娘も孫の東宮も全て亡くなり,この家からは40を超えて存命した者は一人も出なかったとさえ云われる有様であった。
 醍醐帝も日に日に体調が悪化し,帝位も朱雀天皇(11番目の皇子)に譲られ退位をされ,46才で出家をされるが間も無く逝去となる。
 ここで始めて朝廷も道真へのイジメを認め,三十年ぶりに謝罪し官位を右大臣に復し,降格した時の宣旨を焼却したり,モー大変な騒ぎ。階位も従二位から正二位に贈位をして更に正暦四年(993)には前代未聞の正一位・太政大臣とし,天満天神として崇めている。
(正一位は稲荷大明神のお狐様だけで,人間様はどんなに偉くても何方様も正二位まで)。
道真の佩刀と伝える(太宰府天満宮)
 天満宮では近〃着工する新「木材会館」の無事なる完成を祈願して多大な賽銭を投じ,宝物殿で菅原道真の佩刀と伝わる,平安中期の珍しい毛抜形太刀(重文)を見て参りやした,この太刀は天正6年(1578)の兵乱で罹災をし焼身となり,その後かなり補修をしているが,現状は残念ながら手入れも悪く黒サビに覆われ見るに忍びない代物で御座った。(上図)。

 私見であるが,道真という方は,学問の神様よりむしろ陰陽道のエキスパートとして,イスラエルのダビデの星マーク(マーゲン・ダビット)と同様の京都の平野神社に祀られている安倍晴明よりも古く,しかも遥かに優秀な陰陽師ではなかったかと思う。修験道の元祖の役小角や上空を飛行中に若い娘の太腿を見て落下した,久米の仙人にも優るとも劣らぬ,この道の先達であろう。擦れば突然の雷雨や地震や洪水の気候変動を伴なう謎も氷解する。
  これにより道真は「学問と天文と怨霊」の神様として日本各地に○○天満宮が創建され,ご神体になったのではないかと推考するが,如何なもんでござろうや。

 次に九州横断道路を南下して,別府に至り佐賀関の関アジと関サバを食したが,流石にトレサビリティー(原産地証明)のタグを付けて泳いで居るだけあり,かなりの美味であった。それから来た道をUターンして湯布院に向かい,倅の嫁が漸く取ったと言う評判の宿にて温泉と食事となったが,風呂の趣味は無いので,「こんな,モンダロー」と言って叱られた。
 食事は懐石で全くの京都風,板長の修業が京都との事なので然も有りなんの味であった。併し,年金世代はともかくとしても,この量では今の若人にはマッチングしなかんべー,それにオゼゼが少し高過ぎやしませんかと思ったら,あにはからんや年内は予約が満杯でフル稼働だと,それも客の大半が「若い女性のお客様でございます?」との事でござった。て?した,魂消た!,世の中変わった。外は雨,又,フロに入り,按摩を頼むがこれが下手。

  翌日は,天気晴朗ナレド風ツヨシ,外輪山と草千里を抜けて九州一の名門,阿蘇一族の「阿蘇神社」を参拝し熊本に入る。久し振りに熊本城の天守閣に登り暫し辺りを睥睨して,400年前の築城当時の加藤清正を偲び,明治10年(1877)の西南戦争の折りの熊本鎮台司令官・谷干城(後,陸軍中将・子爵)の心中を思んばかりながら暫し黙祷を捧げる。

 この城は開戦三日前の2月9日に原因不明の出火で天守閣や主要な建物の全てを焼失した。併し,明治新政府の谷干城少佐は西郷軍の猛攻撃に善く耐え,官軍勝利の原動力になった。本来,櫓が約50,櫓門18,城門30,面積98万m2,周囲5.3kmの巨大な城郭であった。
丁度50年前の熊本国体に出場して以来だが,当時より格段に城全体の整備がされていた。

 今夜の宿は雲仙なので三角港まで飛ばす,途中に同田貫の本拠地の玉名市を通るので,鍛刀地を尋ね線香の一本も捧げるつもりで居たが,カーフェリーの乗船の時間が雨で狂い目礼と手刀で失礼をした。因って,以下に最近目にした同田貫と加藤清正関係の刀剣類を紹介致して置きます。

九州肥後同田貫信賀

肥州住藤原清国作
(同田貫)

九州肥後同田貫上野介

九州肥後同田貫源左衛門

九州肥後同田貫信賀
 左;「備州長船祐定作
        永正十三年二月日」
 右;加藤清正が二条城会見の
      さいに懐に入れた短刀
     備前祐定の作(本妙寺蔵)
         【清正公拵え】
片鎌槍 無銘。
加藤清正の娘が紀州徳川家に入輿のさい持参した虎退治に使用し右半分噛み取られた槍
 加藤清正,関係の説明は先月号(11月号)で致しましたので,今回は省略させて頂きます。但し,虎退治の槍は本来は千鳥形なのですが,その片方の半分を食いちぎったと言う虎の大トラと小トラの2頭の頭蓋骨が名古屋の徳川美術館に展示されて居りますので,機会が有りましたらゼヒ奥様とご一緒にご覧下さい,さすれば,今後のお神酒の飲み方がチト変わるカモ知れませんぞ〜。


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