この所,妖刀「村正」や子連れ狼で名高い「同田貫」をご紹介致しましたので,今回はオーソドックスに古き伝来を重んじ神器となった「伝家の宝刀」を取上げて見ましょう。
寛治元年(1087)に源氏の棟梁・八幡太郎義家が前後十二年にも及ぶ奥州の大騒乱(前九年・後三年)を平定した後は長らく平穏な日々が続いていたが,突如として院政を巡り元天皇と現天皇との間に熾烈な主導権争いが勃発した。これを保元・平治の乱(1156?59)と言うが,この乱に公家も武家もドップリ浸かり,共に親子・兄弟が敵味方に分かれ殺し合いとなり,挙句の果てに勝った鳥羽上皇方が二つに割れて,又もや殺し合う,これを平治の乱と申す。
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鳥羽天皇画像 |
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平治合戦絵巻のうち院御所焼打の図
(ボストン博物館蔵) |
平治物語絵巻 凱旋の図 |
乱が終わって見ると,前九年・後三年の役で源頼義・義家父子が全財産を賭けて培った源氏がものの見事に壊滅,保元の乱では源氏の棟梁・源為義が倅の義朝に勅錠として切られ,義朝も平治の乱に破れ,落ち行く先の家来の家の風呂場で身に寸鉄を帯びずに惨殺された。この結果,有名な「平家にあらずんば,人にあらず」の世が出現し天下を一変させた。
(この名言?は太政大臣・平清盛の妻の時子の弟,大納言・時忠の言葉と伝っております)。
然らば,この時源氏は如何していたのかと申しますと,清和源氏の嫡流で摂津源氏の祖,鵺退治で名を馳せた源頼光の玄孫である源頼政がただ一人義朝に反し清盛に加担したので,その功により昇殿を許され公家として殿中に残り,「人知れず大内山の山守は,木がくれてのみ月を見るかな」と詠んで四位を賜り,次に「のぼるべきたより無き身は,木のもとに椎(四位)を拾いて世を渡るかな」と詠み三位となり,世間では源三位頼政と呼ばれて,文武に傑出した人物として高い評価を受けて居りました。
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平清盛肖像 |
清盛の花押 |
源三位頼政肖像 |
〜当時の平家は得意の絶頂で,清盛の妻の妹(滋子)を後白河帝の妃に入れ,その産んだ子が高倉天皇,そこえ自分の娘(徳子)を中宮として嫁がせ,生まれた子供が安徳天皇と云う訳で,一門も栄えに栄え,自ずから太政大臣となり位人臣を極め,公家16名・殿上人30余人,荘園は全国の半分を領し,屋敷は京の六波羅に延々20余町,一族の家を含めて5200戸余,他に摂津の福原に港を築き,富の源泉である対外貿易の独占を謀っておりました。
(1)源家の宝刀。
源頼政が名を挙げたのは,近衛天皇(1142〜55)の治世に宮中に鵺という得体のわからぬ化物が夜毎に現れ奇妙な鳴き声で,主上(天皇)を悩ませて不眠や失神をさせる騒ぎとなり,高僧の祈祷も効か無く殿上人は大騒ぎ,この時,源雅頼と云う公家が,「その昔,堀川帝の御代にもこの様な事が起ったが,その時は源義家公が鳴弦三度の後に「前陸奥守源義家」と大声で名乗ったところ病気が治った」との逸話を披露したので,では今回もやはり武家が宜しかろうと,弓の名人でもある頼政が選ばれた訳ですが,頼政は「目に見えぬ化け物を射るなど,まっぴらご免」と辞退するのですが,勅命と云う事でやむなく出かけた訳です。そして,見事に鵺を討取ったので事無きを得ましたが,若し失敗をしていたら余計な事を奏上した源雅頼を射殺するつもりで二本の矢を携えていたとの事でした。くわばらクワバラ。
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頼政の鵺退治図(橘守国『絵本写宝袋』より) |
結果,鵺を退治した褒美として「獅子王」という有名な太刀を賜わった次第であります。その後,「獅子王」は源家の相伝物として長い間伝えられて来ましたが,明治天皇が刀剣が大変にお好きとの事で宮中に献上され,現在は上野の国立博物館に保管されております。
☆鵺,頭が猿,胴体が狸,手足が虎,尾が蛇,声が虎鶫の鳴き声に良く似ている化け物。
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上;重要文化財[刀身 無銘(号 獅子王)]
下;黒漆糸巻太刀拵】 |
号「獅子王」,無銘,刃長77.3cm 反り2.7cm 平安時代(11〜12世紀),重要文化財。
〔刀身形状〕 鎬造,庵棟,鎬高く幅広く腰反り高く,切っ先はカマス状に近くなる。
生ぶ茎,やや伏し心で栗尻,鑢目乱れ勝手下り,筋違,筅鋤混る,目釘穴1ツ。
〔鍛え〕 板目肌立ちこころに柾目肌まじり,白気風の棒映り立つ。
〔刃文〕 匂口締まりこころの直刃の匂い出来となり,区上で焼落とす。帽子は僅かに残る。
〔刀装〕 総金具は山金黒漆塗り,柄は黒塗り鮫着せ,目貫は鍍金巴紋容彫り,(後捕)。
〔鍔〕 木瓜形練革黒塗りで大切羽が付く。
〔鞘〕 黒漆塗り,紺糸渡巻が付く。
作風に平安時代の大和物の特色が地刃に見られ,備前友成などに次ぐ体配で,後に僅かに茎を伏せているが,先伏しこころの古雅なものである。匂口の締まった直刃は上代に似る。
伝来=高倉天皇-源三位頼政-斉村正広-徳川家康-土岐頼近-東久世通季-明治天皇。
頼政はその後,以仁王(後白河帝の子)より平家打倒の令旨を受け,治承四年(1180)に挙兵,近江の三井寺に籠るが利あらず,興福寺を頼りに奈良へ向かうが途中の宇治で追いつかれ,(メタボの以仁王が何回も落馬する為,大幅な遅れとなり宇治の平等院にて籠城となる)
その結果宇治橋を外して応戦す。…これが有名な一来法師・筒井淨妙の活躍した橋合戦…。衆寡敵せず,本堂前に扇面を敷き詰めその上にて自害となる,嫡子の仲綱も追腹を仕る。
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鳳凰堂 |
本尊 阿弥陀如来 |
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扇の芝・頼政自害の処 |
頼政の墓 |
辞世は「埋もれ木の花咲くことも無かりしに,身のなる果てぞ悲しかりける」,でござんす。以仁王も流れ矢にてOUTとなるも,この挙兵がきっかけとなり各地の源氏が立ち上がり,平家打倒の嚆矢となった事を思えば以って冥すべしかと存ずる。
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鐔 無銘 橋合戦図
源平争乱の口火を切った戦い。
宇治橋の上で三井寺の僧兵が
奮戦している |
後白河法皇 |
鞍馬天狗図 |
頼政は前出の歌の他,左大臣頼長(保元の負け組)の「ほととぎす名をも雲井にあぐるかな」の上の句に「弓張り月の射るに任せて」と下の句を付けて詠み,これらにより文武両道の武士と賞賛を得ており,平家の世にあっても庶民の人々の人気は抜群に高かったとの事で御猿。それに引き換え,頼政に再三に亘り苦渋の選択をさせ,結局は敗死をさせた後白河法皇は後に頼朝に「天下の大天狗」と云わしめた程の怪物であり,当時の公家には珍しい策謀家でござった,然も乱世を六十六才迄生きられ,当時の天寿を全うされたのはご立派でござんす。
尚,日本に於いて武家の棟梁(幕府開設)になる事の出来る門流は,源・平・藤・橘,の四姓で,会員の皆様はどちら様もルーツ探しをされますとこの四姓から派生されているハズで御猿。
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