『歴史探訪』(23)
江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎
年末が近くなると忠臣蔵の本が売れる。私も昨日,地下鉄の売店で,森村誠一著 忠臣蔵(上)を買って読み始めた。
何故年末になると売れるのか。クライマックスシーンの討ち入りが12月14日である事が最大の理由である。
江戸時代も五代将軍綱吉の時代になると,平和が続き,戦争体験のない武士が本分を忘れて怠惰となり,士農工商で最下位の筈の商人が,都市の発展,人口の増加,生活の向上に乗じて豊かになり,江戸市中の人は元禄文化を謳歌していた。庶民は天下の悪法と云われた生類憐愍令等で政治不信に陥っていた。
その様な時に,喧嘩両成敗という掟に反し,片や切腹,お家断絶,領地没収,片やお咎めなし,という公儀に反抗し,艱難辛苦の末,吉良上野介の首級をとり,正々堂々と凱旋し,主君の墓前に捧げた。この快挙に江戸市中はおろか全国に衝撃が走った。以来,300年以上に亘って今日まで多くの人の心を揺さぶり,感動を与え続けている出来事は世界でも稀である。
忠臣蔵には名前が知られている登場人物だけでも100人以上居り,浪士達とその家族,吉良家,周辺の町人等,関わった人達の足跡が今でも残っており,それらを訪ね歩けば,当時の人達の息遣いまでが聞こえて来るようで感慨も一入である。
順を追っていくつかも書き出して見ると,
?港区田村町 一関藩主田村右京大夫江戸屋敷跡 浅野内匠頭切腹の地の石碑があり,現当主町会長を務めている田村氏が居住
?門前仲町 伊勢屋 堀部安兵衛がよく飲みに行ったという蕎麦屋が今でも飲食店と菓子舗を営んでいる。
?箱根旧街道甘酒茶屋 この辺りで神崎与吾郎が身を窶して江戸へ下る途中,雲助にからまれたが身分を明かす事が出来ず,泣く泣く詫び証文を書いた。
?南部坂雪の別れ 港区赤阪七丁目,歌舞伎の名場面 内匠頭切腹後 妻阿久里が剃髪して瑶泉院と号し住んでいた。内蔵助が浪士の血判状を巻き物にして持参,明日の討入り決行を打ち明けようとしたが,女中が聞き耳を立て,吉良方の廻し者と判断し,ついに打ち明ける事が出来ず,「不忠者」と罵られて雪の中を去って行く。
?本所松阪町吉良邸 現墨田区緑町 小さな神社があり,お詣りする人もいる。
?高輪泉岳寺 浅野内匠頭,大石内蔵助以下四十七士の墓があり,線香を手向ける参詣者多く,12月14日討入りの日は行列をなし全山に煙が立ちこめるという。
12月は,ベートーベン作曲交響曲第九番の演奏会が全国到る処で開催されている。何故12日か。ベートーベンの交響曲は九番まであり,一年の最終月に相応しいという説もあるが,これは日本だけの傾向である様だ。
より説得力があるのは,楽団の経営上,人気のある第九で一年分の収支を償うという説。
ベートーベンが第九を作曲したときは,最終楽章に合唱を入れる事は当時としては斬新な試みであった。指揮者,楽団員(オーケストラ),4人の独唱者は高額なギャラが貰える。しかし合唱の人達は音大の学生が殆どで,しかもノーギャラで出演する。しかし,一流のオーケストラと共演する事は彼等の憧れであり,例えば300人の合唱団員が一人5枚のチケットを売り捌けば,ホールは満員となり大盛況となる。
しかし私は,こんな事では説明出来ないもっと深い物があると思う。合唱の人数は多ければ多い程,オーケストラと相和して美しく響く。但し,日頃からの厳しいリハーサルで,演奏会当日をピークに盛り上げて行く努力を見逃す事は出来ない。曲の構成も素晴らしい。第一楽章は,重い感じで始まり,どちらかと云えば暗い。第三楽章から幾らか軽快で明るい感じになる。最終楽章で,独唱が始まる。バスの歌詞は「これまでの様な古い形式でなく,もっと歓喜に溢れた歌を歌おう。」これを機に4人の独唱者,それに大合唱が呼応して,歓喜の歌声がホール中に響き渡り,聴衆も引き込んでクライマックスとなる。聴衆は一年間を振り返り,来年は希望に満ちた年を迎えよう,という気分となり,美味しい御馳走を頂いた後の様な,大満足を胸にホールを出て行く。私はこの雰囲気がたまらなく好きで,次の年も足を運ぶのである。
忠臣蔵は,三百年以上前の事件が現代に到るまで,人々の感動を促し,ベートーベンの第九交響曲は,二百年以上前に作曲され,今では全地球を感動の渦に巻き込む事について述べて参りましたが,最後のお話は,何億年も前からあった事象について述べます。
私は今は激しい運動は出来ず,時々,日帰り温泉付中高年登山を楽しんでいますが,昨年12月23日,家族で高尾山に出掛けました。年末にしては人出が多い感じでしたが,途中丸太で造ったベンチで休憩している時,カメラと三脚を持った初老の紳士に,「写真撮影が趣味ですか」と話しかけますと,「知らないんですか,今日は頂上から見る富士山が素晴らしいのです。」と云われ,こんなに曇っているのに何故? と思いつつ,登って行きますと,頂上に近づくに従って登山者は増え,狭い頂上の見晴らし台は,見えない富士山の方角に向いた人,人,人,の大きな塊になっていました。まわりの人達の囁きから判断すると,今日の夕陽は富士山の真上に沈むという事でありました。30分程辛抱強く待っておりますと,雲間から見事な太陽が将に富士山頂に落ちる様を把握する事が出来ました。ダイヤモンドサンセットというが恐らく1億年以上前から,この光景が1年間に1日だけ展開されていたと思われますが,登山者が気付いて愛でるようになったのは意外に新しい様です。日没後も富士山の輪郭が黄金色に輝いて,ほんの数十分でショーは幕を閉じます。下山は普段はケーブルカーを利用していましたが,満員で乗れず,暗い坂道を多勢の人が列をなして,ショーの余韻を胸に,喜々として下りて行きます。来年も我が家の年中行事にしようと,その日は大自然から貴重な宝物を賜った気分となりました。
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