東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.96

江戸の香りが息づく町散策 No.3
谷中界隈の森鴎外と旧居跡

青木行雄

 日暮里駅から出ても上野から行ってもほぼ同じ距離にある鴎外旧居跡は,水月ホテルと言う結婚式場もあって料亭風の宿泊施設である。
 このホテルの中庭に木造の旧跡があって,この和室の間で食事も出来,鴎外の昔を偲ぶ事が出来る。
 すぐ近くの丘の上には旧寛永寺五重塔や,上野東照宮社殿がある。不忍池も遠くない。それに,今の上野公園は美術館,博物館と学校に会館と芸術文化には事欠かない。その上,動物園もあって,子供も大人も楽しめる,東京のオアシスとも言える場所であり,そんな場所で,鴎外は一時期を過ごしたのである。今でこそ狸は動物園の中だが,当時はこの上野界隈でも野生の狸も出たと言う。それ程,この辺は自然環境も良かったのであろう。
 鴎外が,この台東区上野花園町十一番地に移住し居を構えたのは,1889年(明治22年)であり,下谷根岸の御隠殿坂に住んでいた家が,庭の向こうに汽車が通るたびに騒々しいのに閉口して,この地に移り住んだと記されている。やはりここに縁があったのであろう。
 そして,森鴎外の文壇処女作,代表作「舞姫」が1890年(明治23年)1月3日,「国民の友」に発表されたのである。旧地名が上野花園町十一番地が現在は台東区池之端3-3-21となった。明治22年に移り住んで23年に「舞姫」を発表しているから,一年足らずのこの場所で全部書下した訳ではないが,確かに発表はこの場所に違いない。
 そして,ここに森鴎外文学発祥の地として近年ホテル内に「舞姫の碑」が建ったのである。

※森鴎外居住の跡と書いてあるが入口である。この横に見えないが「舞姫の碑」
が建っている。この中で食事が出来る。

 水月ホテルの中にあるこの「舞姫の碑」について,社長の中村菊吉氏よりコメントがあるので記して見た。
 「森鴎外は,明治23年(1890)この地において,文壇処女作の「舞姫」を発表しました。そして次々と文学作品を発表し,近代文学史上画期的な活躍をする基礎を築いた地でもあります。このような事蹟に因み,碑の製作に当たりましては,碑面に「舞姫」の題字及び「署名」「文章」を記してありますが,これはすべて,鴎外自筆の毛筆書き「舞姫」原稿から鴎外のご子息,森類氏に選定していただき,鴎外研究の第一人者長谷川泉博士に御尽力いただいたものです」と以上のような内容である。

 では,森鴎外とはどんな方か,かいつまんで,鴎外史より拾って見た。

 本名を森林太郎と言った。
 1862年(文久2年)1月19日,津和野藩の典医の長男として生まれている。現在の島根県鹿足郡津和野町町田には,今も生家が保存されている。
 1872年(明治5年)に11才の時上京した。1881年(明治14年)19才で,東京大学医学部を卒業し,軍医の道を進んで行くことになる。
 卒業したその年の12月陸軍に入隊し,1884年(明治17年)?1888年(明治21年)までの約5年間,衛生学研究のために「ドイツ」留学を命ぜられ留学したのである。留学中の体験は,後に「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」のドイツ三部作といわれる作品に結実されている。
 1889年(明治22年),赤松登志子と結婚,この年に今の池の端に移って来たのである。そして「舞姫」を発表,又訳詩集「於母影」を発表,さらに雑誌「しがらみ草紙」を創刊し,文学活動を開始した。
 1890年(明治23年),長男,於菟が生まれたが間もなく離婚,登志子とは2年足らずの生活だった様である。

※鴎外荘の中庭である。中が木造の和室で住んでいた所。

 1892年(明治25年),池の端を離れ,駒込千駄木町21番地,現・千駄木1丁目23番4号に移転しているから,この池の端には3年ちょっとの生活だったようだ。新しく移った千駄木は本郷台地の東端にあり,谷中・上野山及びはるか東京湾の潮路も眺められたといわれ,鴎外は自宅を「観潮楼」と名づけたと言うから,よほど新居が気に入っていたのであろう。そして,この観潮楼で次々に代表作を発表したと言う。その作品は,「即興詩人」「青年」「雁」「ヰタ・セクスアリス」「阿部一族」「山椒大夫」「渋江抽斎」などである。
 そして,小説家として夏目漱石とともに明治文壇に確固たる地位を築くのである。
 また,1907年(明治40年)45才,この頃から観潮楼にて歌会を催して,与謝野寛,伊藤左千夫,佐々木信綱,石川啄木,斎藤茂吉など多彩な文学者が集まっていたのである。
 その後,鴎外は陸軍軍医総監に就任し(軍医としては,最高の地位官である)多忙となった為,歌会は明治43年4月が最後となった,とあるから,約3年間歌会を続けた事になる。
 1916年(大正5年)55才の時,陸軍を退役するが,翌大正6年,帝室博物館兼図書館,今で言う館長に任ぜられる。
 「渋江抽斎」をはじめとする史伝,考証執筆に取り掛かっていたようだが,この頃より体調も思わしくなく,1922年(大正11年)7月9日自宅の観潮楼にて,亡くなった。死因は,萎縮腎・結核であったようだ,享年60,向島弘福寺に葬られたが,関東大震災の為,現在は三鷹禅林寺に移葬されている。
 森鴎外をもう一度簡約し再認識して見ると,

 鴎外は,軍医,帝室博物館総長兼図書頭,小説家,評論家,翻訳家,本名林太郎。
 別号,観潮楼主人,千朶山房。
1862(文久2年) 1月19日,島根県津和野に生れる
1872(明治5年) 11才の時上京
1881(明治14年) 東京大学医学部卒業(19才である),軍医の道を進む。
1884(明治17年)
〜1888(明治21年)
ドイツに留学する(22才の時)。この西欧体験は鴎外の教養と見識を深め帰国後医学界,文学界の改新の為に発言する。
1899(明治32年)
〜1902(明治35年)
小倉へ転勤を命ぜられ,35年まで小倉の地で過ごした。鴎外にとって不本意な転勤であったが,この地で自己修養に務め,やがて東京の第一師団に戻り,日露戦争に従軍する事になる。
1907(明治40年) 軍医総監陸軍省医務局長に就任し,軍医として最高の地位官となる。
1909(明治42年) 雑誌「スバル」の創刊,この頃から創作活動が活発になり「雁」「青年」等発表。小説家として漱石とともに明治文壇に確固たる地位を築く。
こんな訳で,鴎外は,作家と軍医という2つの人生を生きる事になる。
1912(明治45年)
(大正元年)〜
明治天皇崩御,乃木殉死を契機に歴史小説の世界を拓き,晩年には史伝文学という新しい分野を開く。
1922(大正11年) 7月9日,永眠する。60歳。

  鴎外が1884年(明治17年)22歳でドイツ留学して,「エリス」と言う,少女と恋をする。そして彼女と子供をドイツに残して日本に帰って来る筋道だが,この時の様子を記した小説が「舞姫」である。

 出会いと別れの切ない部分の一節を記して見たい。

"出会い"
 『ある日,古い石造りの家屋が並ぶ貧しい一角で,閉まった教会の戸にもたれて泣いているひとりの少女を見かけた。十六,七歳ぐらいか,かぶった布から淡い金色の髪がのぞき,貧しくも清潔な服を着ている。私の足音に驚いて振り返ったその顔。露に濡れた長いまつげに半ば覆われた青い清らかな瞳は私の心の底まで貫いた。
「通りがかりの私ですが,かえって力になれるかも知れません」と声を掛けた自分に私は驚いていた。彼女の名は"エリス"といった』

"別れ"
 鴎外は日本から来ているある大臣に帰郷を進められ,日本に帰ることを決意する。
 『"エリス"になんと言おう。私は家までの長く冷たい道を歩いた。私はゆるされない罪人だと言う思いが胸に満ちている。部屋に入ると,私は雪と泥にまみれた姿で震える膝を抑えられず,何も言えないままその場に倒れた。人心地がついたのはそれから数週間の後である。私の目に入った"エリス"はひどく痩せ,目は血走って窪んでいた。
 後に聞くと,"エリス"は見舞いに来た相沢から事のなりゆきを聞き,「豊太郎は私をだましたのですか」と叫んで倒れたそうである。相沢の手を借りて,私はエリス母子にいくばくかの資本を渡し,子どものことも頼み,日本に向かう船に乗ったのである』

※ 相沢とは,ドイツ時代の友人。
※ "エリス"はビクトリア座の踊り子「舞姫」である。

 森鴎外のことについて淡々と記して見たが,有名人の歴史や史跡を訪ね,人生の糧に出来る幸は,感謝と感動と知識の泉である。

 鴎外荘で昼食をいただき,近くの古い町並を堪能しながら根津に向う。谷中には,まだまだ古い建物が残っていた。

※木造3階建の住宅,明治時代の建物か?
  興味深く見学する人達。

20. 2. 10日記

 

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