東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.103

九州「壱岐の島」と「真鍋儀十」

青木行雄
 日経新聞に時々「壱岐の島」の一面広告が載っていて,麦焼酎発祥の地とか,大陸文化の架け橋,壱岐独自の風土が育んだ偉人たち,等との見出しを目にする事があった。九州に生れながら,同島は北九州博多や唐津から程近い所なのに行った事がなかったので,新聞の切抜きを貯めながら,機会を狙っていたが,平成20年の6月,ついに叶っての島行きであった。
 30分も車で縦・横走れば海岸に出ると言う小さな島だが,日本唯一,自給自足が出来る島と言われている。それだけ米をはじめ他の農産物も豊富で,海産品も誠に美味しい島なのだ。
 人口約3万人,唐津・博多から海上約70km。今回私は,唐津港からフェリーにての島行きで,約110分の行程だった。
  地図からお分かりのように,フェリーは博多港及び唐津東港から出ており,博多からは高速船も出ていると言う。そしてなぜか長崎からだけ,飛行機が飛んでいる。
 又,地図を見ると,壱岐は対馬と博多の丁度中間に位置しており,どちらに行っても同じ時間で行けるらしいが,島民の買物はやはり,繁華街のある博多が多いと言う。私が行った時も,島に帰る客が大勢いた。
 この船が,私の乗ったものだが,新しい良い船で大勢の人が乗っており,人車兼用のフェリーであった。
  同島を訪れる観光客は年間4〜50万人位らしい。島の人は大変親切で,色々と教えてくれた。島の歴史は大変古く,中国?韓国?対馬?壱岐?北九州と伝わった経路が分かる物も発見されており,歴史が奥深い。
  島内には,遺跡も何ヶ所かあって,原の辻遺跡等は,紀元前2〜3世紀から紀元3〜4世紀に掛けて形成されたと言われる。大規模な多重環濠集落があった場所も見る事が出来る。
 右の地図は壱岐の全島だが,自給自足の出来る島らしく,水を貯めるダムが4ヶ所もあって,大清水池もあり,水力発電所や風力発電所もあり,人々の生活に必要な水と電気,日本人の主食の稲作も十分であると言う。勿論,四方海に囲まれているので,海の幸は十分過ぎる程であろう。








■勝本町
 上図は,私が唐津港から着いた港・印通寺の港の地図であるが,町内には,信号機設置1ヶ所という小さな町であった。夜の食事は海の幸でいっぱいで,東京だったら,どの位掛かるかな〜と値を付ける,悪い癖があるが……。海の幸に堪能した満足な食事だった。
※印通寺港の旅館の2階の窓から写した写真だが,漁船がいっぱいである。
漁師の舟と観光用のつり舟もあるようだ。
 食事後,親切にも旅館の車サービスでホタルを見に連れて行ってもらったが,壱岐の島で見る,源氏ボタルの光も中々良いもので,何とも言えず,子供の昔を思い出し,郷愁にかられる素晴らしい一時であった。
 せっかく壱岐の島に来たのだから,夜の町も味わいたいと旅館の紹介で,一軒のバーに行くことになった。
 島の客人が二人程居たが,静かなバーだった。『いらっしゃいませ』と迎えてくれたママさんは,歳頃は50歳前後の色ぽい島美人のおかみさんである。東京に住んだ事があると言う。事情があって何年か前に帰島したと話す。純心な所を残すこのおかみ,東京の懐かしさも思い出し,商売ぬきのサービスに大変盛り上った。島の話や歌などであっと言う間に時間は過ぎたが,営業心を隠すおかみの振る舞いに,島民の純な心を感じた二次会だった。値段良し,サービス良し,マイク良し,地酒良し,別れ辛い,文句なし。やっぱり,旅先で,温泉の場合は,地元人の入る町営の温泉にしたり,また今回のような時は,こうした町のバー等で土地の人々に触れる事が,その町を知る秘訣かも知れない。ドアの外まで出て来て別れ辛そうに手を振るおかみの目には,涙が潤んで見えたのは,私だけではなかったようだ。東京に居た時の彼氏の事まで思い出したのかも知れないと想像したが,純な心か,営業心だったか。
※壱岐の島の焼酎工場の風景写真。壱岐の焼酎の製法は16世紀頃から
受け継がれてきたと言う。明治33年,壱岐の蔵元は55軒あったと言う
が,現在は7社。中々,うまい焼酎だった。
 別に観光的な場所も多く見る場所は事欠かない。古い寺,神社,焼酎工場も七ヶ所あると言う。その内の一工場を見学した。昼食にウニ工場のレストランでウニ丼を頂いたが大変美味しかった。

 私は以前江東区住吉の近く柳原町と言う所に住んでいた事がある。近くに「あそか病院」があって何かと縁のある病院であるが,すぐ近くに「まなべ幼稚園」と言う幼稚園があって,知り合いの子供が何人かこの幼稚園でお世話になった。この幼稚園が壱岐の島の出身の「真鍋儀十」の設立であると聞いていたので,少々調べ,壱岐の島行きに合わせ,記して見たいと思ったのである。

 「真鍋儀十」は明治24年(1891),長崎県壱岐市(当時は壱岐郡)芦辺町に生まれる。儀十は,わずか15才で小学校の代用教員となるほど優秀で,その後,長崎師範を卒業,島内新城小学校の首席訓導(現在の教諭)となった。
 まもなく世の中に「普選運動(男子普通平等選挙権の獲得運動)」の声が広がり始めた。
 日本の選挙制度は,明治22年(1889)の衆議院議員選挙法の公布に始まったと記されているが,当時の選挙権は直接国税(地租及,所得税)を15円以上納めている満25才以上の男性(全人口の1.1%)と,ごく一部の国民に限られていた。10年後の改正で,納税要件が直接国税十円以上の緩和されて,選挙権が拡大した。然し,それでも全人口の2.2%にしか過ぎず,依然として労働者階級や女性などには選挙権が与えられていなかった。儀十は,意を決して上京し,明治大学法学部に入学。「制限のない普通選挙法になってこそ,日本も一等国の仲間入りが出来る」と在学中から普選運動に身を投じていったと記されている。
 そして大正14年(1925)の選挙法改正によって遂に「男子普通選挙制度」を勝ち取り,満25歳以上の全ての男性に選挙権が与えられる事になったのである。
 ちなみに,現在のように満20才以上の全ての成人男女による完全普通選挙が行われるようになるのは,戦後間もない昭和20年(1945)になってからであった。
 この普選運動に築いた基盤をもとに,儀十は昭和5年(1930),東京都江東区から衆議院議員に立候補し,最高点で初当選を果たすと,以来,戦中戦後に掛け6期に亘って国政の場で活躍したのである。

※江東区住吉にある「まなべ幼稚園」の玄門である。入口の左側に「真鍋
儀十」の胸像があった。町中のビルの一角なので,分かり難いが,このビ
ルの奥に教室と中庭があって園児達が元気ではしゃいでいた。
教育目標は「お目目はぱっちり」「お口をむすんで」「お返事をはっきり」
と記されていた。

 その一方で,次代を担う子供達には幼児時代から教育が大切と考え,昭和20年(1945)後半に自宅の庭を開放して「まなべ幼稚園」を設立し,戦後の大混乱の中,時代の変遷の中にあっても「友達と仲良く交われるような豊かな社会人を作り上げる事こそ幼稚園本来の役割である」という信念を貫き通した人であった,と言われる。そして今でもこの幼稚園は当所の場所に「まなべ幼稚園」として,孫の池田文子さんが受け継いで,設立後63年になるが,卒園者数は7,000人以上に達し,立派な社会人として活躍しているとパンフにも書かれている。
 儀十にはもう一つ,俳人としての顔があった。高浜虚子に師事し,「ホトトギス」同人となる。松尾芭蕉研究家としても知られ,東京江東区に「芭蕉記念館」が開館する際には,長年に亘って収集してきた多くの書や短冊などの資料を寄贈している。当時,入院中だった儀十は病室で資料の整理に立ち合い,「娘を嫁に出すようなものだ」とその心境を語った,と言われる。資料ひとつひとつに深い思い入れがあった事と思われる。記念館の開館式には車椅子で出席したと言う。最近私も仲間と一緒にこの芭蕉記念館を訪ね,芭蕉と儀十の思いを堪能した所である。
 又,儀十の郷土愛はことのほか強く,壱岐の発展のために尽力している。在京壱岐出身者の「雪州会」では電力の鬼・松永安左工門翁の跡をうけて会長を務めた。昭和48年(1973)12月に発行された「雪州会だより」の創刊号に儀十はこんな発刊の言葉を記していた。「古風な表現を用ゆるようだが,人ひとたび郷関を出でなば,富めば富むとて貧しきは貧しとして,誰か故郷に憶いを馳せざらん。古里は良きかなとは文人の詩情のみでは無い。等しく吾等の感傷でなくてはならぬ。(後略)」
 故郷壱岐に対する熱い思いが伝わってくるようである。これが故郷を持つ人の心情かも知れないと思う。たとえ遠く親と離れて暮らそうと,いつも心の中にある原風景,大切に思える故郷,田舎を思える幸せ,儀十も幸せだったと思う。それに真鍋儀十がどうして,松尾芭蕉との縁があったのかについて私も不思議に思ったので,調べて記しておきたい。
 壱岐は,松尾芭蕉の「奥の細道」における奥州・北陸の旅に同行した弟子で,蕉内十哲の一人とされる,芭蕉と言えば曽良と言える程門下の主役,河合曽良の生れた土地とも終焉の地とも言われている。そんな壱岐に育った儀十は,後に儀十と俳句,そして松尾芭蕉を結びつけた大きなきっかけになったようである。俳号は「蟻十」と言った。虫へんに変えている所が分からないが,おもしろい。

 そして故郷,壱岐郡芦辺町にも「儀十」の像が少弐公園内に建っている。
 政治家として,俳人として,また生涯現役の幼稚園長として「真鍋儀十」は,昭和57年(1982)4月29日,91才の生涯を東京都江東区住吉町で閉じたのである。

 別に壱岐の島出身の,偉人,電力の鬼・松永安左工門。警視庁音楽隊を誕生させた初代隊長山口常光,團伊玖磨や芥川也寸志の生みの親と言われている。
 農業経営に全身全霊を傾けて他県に進出して「日本一の大地主と呼ばれた,能本利平。
 15才の時,島を出て明治25年39才で建仁寺派管長になり,集まった僧弟子4,000人と言う名僧侶・竹田黙雷,等,偉人輩出の多い島である。
 この島で生まれ育った人達が,何につけ故郷を思いこの島に生涯,愛着を持ち続けるというのも不思議ではない。自分のふるさとに深い思いを,私もその1人であるが。
 壱岐という島は,それほど懐が大きく,奥深く魅力を持っている島かも知れない。

平成20年9月7日記

 

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