日本の文化 「日本刀」…Japanese
Sword…
「♪一家に一本 日本刀 スカッーと爽やか 日本刀♪」
其の48(天下の名刀・アラカルト)
愛三木材・名 倉 敬 世
謹賀新年
本年も日本固有の文化財でご猿,「日本刀」を宜敷くお頼み申し上げます。
それでは、今年の第一発目ですので,先ずは目出度く,「金杯」が当る様に縁起を担いで重要文化財の安芸・宮島に伝わる厳島神社の秘宝,「競馬太刀」のご紹介から参りやしょう。
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◎漆絵大小拵(陣刀)
広島 厳島神社 |
(大)総長149.7cm(約五尺)総反り20.1cm(六寸六分)柄長53cm(一尺七寸五分)
鞘長 103.0cm(約三尺四寸)鞘反り8.5cm(二寸八分) 刀身は木型。
柄 打出鮫金箔押,紫葦抓み巻,結び目表裏二つ。
鞘 尻鞘形、白檀塗龍黒漆蒔絵。
兜金 赤銅魚子地桐紋一文字三ツ星紋金色絵,金小縁。
縁 赤銅魚子地金桐文,金小縁
猿手 色絵。
目貫 金這龍容彫。
鍔 山銅木瓜形,四方猪目透,魚子地桐紋金色絵,金小縁。
大切羽 山銅木瓜形、金色絵。
この太刀は正式には「漆絵大小拵」と申し重要文化財の指定になってますが,一般的には「競馬太刀」又は「陣刀」と呼ばれており,「厳島図会」には「毛利輝元卿寄附」とあり,金具に毛利家の一文字に三ツ星の家紋が付いております。
鞘は白檀塗りの上に黒漆で龍を描いてあり,この様に鞘の尻を太くした姿は平安時代の「競べ馬」が起源と云われてます,長く中断してましたが桃山時代にまた流行った様です。(少)も(大)と寸法だけは違いますが,使用材は基本的には同じであります。
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太刀 号・高木長光 (上杉家伝来・上杉謙信・佩刀) 重要文化財 |
刃長 77.6cm(二尺五寸六分)反り3.3cm(一寸一分)。元幅3.2 先幅2.0cm
形状。鎬造,庵棟,身幅広く腰反りが高く猪首切先。踏張り付き,中峰。
鍛え。板目に杢目が混じり肌立ち気味の地鉄,鎬寄りに乱れ映りが立つ。
刃文。区上は焼巾が狭いが中程は広くなり,互の目の丁子刃,足葉よく入り
匂口締まる。
帽子。表は乱込んで先尖りごころに返る,裏はのたれ込んで大丸ごころに返る。
茎。生ぶ,先浅い栗尻,鑢目勝手下り,目釘孔二つ。
銘。鎬筋の目釘穴の上に「長光」と細鏨で二字銘。
トレサビリティー原産地)。備前国長船(岡山県)。
伝来,上杉家の台帳には「景勝公上秘蔵」とあり,景勝の選による愛蔵三十五腰の一。長光の中では長めで,身幅も広い豪壮な作である。銘は異風,刃文も丁子の頭に小丁子が入っていてかなり異風である。(押形,参照)
異名の由来は不明ながら,多分,映りが鎬に掛る程に高かった為に,高イが高ギ→高木に,変化したのではないかと推考する?。(名倉説)。
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金梨地合口打刀拵(上記の高木長光の拵え) 重要文化財 |
拵えの様式は謙信の好みによるもので,太刀姿そのままの体配に,柄頭を大きく張らせ,刃方の肉を薄くした鞘で,鍔を用いずに合口とした拵えで,実にbeautifulである。
この様式は法隆寺西円堂の遺品の中にも見られるもので,腰刀の要素が加わった特殊な拵えである。如何にも柄頭が太く重い様に見えるが,長寸の鞘の反りが高く鐺を張らせて全体の調和をとっている。
鍔を用いないのは,反りが高いので先が軽過ぎてしまう為であろうが,実戦で使用する場合は利き手の拳がノーガードとなるので太刀打ちでの戦法も変り,相当なハンデとなる。しかし,上杉謙信の佩刀には他家には例の無いこの様な合口式の拵えが多い。
目貫の位置も普通と違い腰方に表裏揃って付いている。栗形は特殊な山形となり返角は棟寄りに付く。金具は腰高の牡丹獅子文の金無垢であり,後藤家の手になるものであろう。時代の上る打刀の梨地塗り鞘は文献には有るものの現存するものは稀で貴重な資料である。白鮫に紫の糸巻,総金具が金高彫と派手で豪華乍ら,下図の秀吉とは異なる美意識でご猿。
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金蛭巻朱漆大小拵(豊臣秀吉佩刀 刀身 兼元…孫六 脇差 伝直江 金桐文透大小鍔) |
豊臣秀吉の指料で,没後遺物として刀身と拵えは溝口家に,鍔は浅野家に譲られた物で,朱塗に二筋の金帯を蛭巻にした鞘に金桐文透鍔,金頭を付け如何にも桃山時代を象徴する華やかさを示している。柄巻は黒糸諸捻巻で,目貫は尾張拵同様に普通とは表裏の位置が逆に付いている。返角は立ち上がっていて鞘に平行に付いており,斜に成らないところが当時の物としてはかなり珍しい。
刀身の大は孫六で出来は良いが摺上物,少は無銘の直江。この辺がチト問題でござろう。現代でこそ孫六・兼元は大銘なれど,この当時は「切レ物」の部ではあるが,とても贈刀目録に上る様なランクの刀では無く,まだ他に名刀は数多く有った。併し,秀吉はこの点は実利一辺倒に徹していたので,天下が取れたのだと思う。脇差の直江も関鍛冶の名門だが,いかにせん無銘というのは,実利過ぎて貰う方がメンクラウ。
この点,信長や他の天下人は与える物の知識・ランクがちゃんと頭の中に入っていた。代々の武士と猿の違いでご猿る。
現在,日本刀の所蔵が多いのはやはり旧大名家である。其の中でも群を抜いて多いのが,徳川本家,尾張徳川,薩摩の島津,加賀の前田,仙台の伊達,長州の毛利等であろうが,数量は兎も角として,質に於いては千差万別,あたかも京都の堂上公家の如くである。
…公家の蔵刀には立派な銘の偽物が多く,昔から摂関家の物は要注意とされておます…。
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上杉謙信〔1530〜1578〕 |
武田信玄〔1521〜1573〕 |
只今,NHKの大河ドラマ「山本勘助」がクライマックスを迎えておりまして,今日(12/16)辺りが川中島の最後の戦闘シーンかと思われます,多分,其の中に上杉謙信が武田信玄の陣営に単騎で太刀を振り翳して乗込んで来る場面があるハズです。その時の謙信の佩刀は二尺九寸(約88cm)粟田口国吉の太刀でござんしたが,この絵図が見つかりませんので前述に掲げた「高木長光」がソックリサンであったと思い,参考に紹介した訳でござんす。
この戦いはご存じ永禄四年の川中島の戦で総力戦でありましたが,勝敗は付かずドロー,両軍共に「当方の勝ち」と名乗りを挙げておりますが,公正に見て謙信の勝ちと違いまっか,戦死者3000(信玄方は弟の信繁や軍師等の胄首が多い),領土の変動,立ち直りの早さで,後世の評価はその様に申しますが,信玄は天正元年(1573)に53歳で京都を睨んで三河の野田城で狙撃?されて死亡,その五年後に謙信が49歳で脳溢血?で死んでしまいますし,勝頼が天正10年(1582)に天目山でOUTとなりますと武田家自体が分解して,まともな記録が残っておらず,「甲陽軍艦」もイマイチで,正式に勝敗の白黒が付いておりません。
併し流石に武勲で鳴る鎌倉以来の名門上杉家の刀は優品が多く,長尾景虎が天文21年(1552)関東管領・上杉憲政に頼られて姓氏職号の一切を引継ぎ上杉謙信と名乗りますが,この中には管領家代々の名刀も数多く含まれており,今成りの俄か大名の持ち物とは大分違う次第であります。それと,二代目を継いだ上杉景勝(謙信は女人が嫌いだった様で,実子が無く養子)御手選35腰(謙信佩刀28腰)を見ると謙信は長身だったのが良く判る。使用の愛刀に摺上げ物が全然無い,使用刀は自分の背丈・腕力によって長さを決めるので,いくら高名な名刀でも命には変えられないので,短身者はどん〃〃摺上げる,この場合,切っ先からは摘まずに茎(柄の下)からカットする。当然,寸法は短くなる。それで謙信や信長は長身,徳川家康,武田信玄は中背,豊臣秀吉は小柄,と云う事が判る訳でやんす。
この35腰の中で異名の付いている物は,鶴姫一文字,竹俣兼光,久世長光,ハバキ来,上記に掲載の高木長光,山鳥毛・高瀬長光,熊田一文字,荒身長光,三日月兼光,唐柏国信,瓜実安則,三本木吉光,火車切広光,九郎二郎広光,大柿正宗,等であるが,謙信は自ら愛刀を揮い敵陣に切り込んだため,刀名もかなり伝えられている。前記の上杉管領家より譲られた,天国や麻呂の太刀,粟田口国綱や備前元重の大太刀,菊御作太刀,武田信繁を切った典厩割り,その後に替えた手掻包行,鉄砲を切った鉄砲兼光,斬られてから泳いだ波泳兼光,後奈良天皇の瓜実の剣,正親町天皇より拝領した五虎退吉光や備前長光の太刀,将軍・義輝より下賜の藤林国綱や来国俊と五鈷吉光,古河公方より拝領の相州広光の脇差,武田信玄より贈られた弘□の太刀,杖に仕込んだ備前国宗の太刀,長尾憲景から贈られた山鳥毛の太刀,徳川家康から贈られた畠田守家の太刀,御堂に参詣する時の一文字の太刀,福祭りの際の七星の剣,普段指しの景光の短刀,般若会の時の般若の太刀,備前兼光の刀,川中島に帯びて行ったと言う無銘の短刀,これらは全て現存していますが,他にその後に不明となった物の中で目ぼしい刀を挙げると,深淵金太夫と仙可を重ね斬りにしたと云う相州貞宗の脇差,森出雲守に与えた京信国の太刀,槇伊賀守に与えた大原実守の大脇差,菊地伊豆守武勝に与えた紀新太夫行平の太刀,他に槍に5丁槍と云う重宝が有り川中島でその袋槍で散々に戦った後,浪平行安の長刀に取替えて戦ったと云う記録が残っています。
謙信はストレス解消にチャンバラと神酒(酒豪・飲み過ぎて脳溢血)と神仏(毘沙門天)をこよなく愛した様ですが,併しその生涯を通じて謙信程「信義」を貫いた武将は無く正に武将の鑑でご猿。
表 |
裏 |
数珠透図鐔
無銘
「羽黒」
鉄地変り竪丸形,肉彫地透
羽黒修験の山伏の作にて,硬軟の鉄を錬り合せ大小60の数珠玉を形取る
時代 室町末期 |
※これ等の名物にはそれぞれ曰く因縁が御座いますので,興味の有る方はお知らせ下さい。後日,それなりにお答え申し上げます。
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