東京木材問屋協同組合


文苑 随想


日本の文化 「日本刀」…Japanese Sword…

「♪一家に一本 日本刀 スカッーと爽やか 日本刀♪」

其の49(天下の名刀・アラカルト)

愛三木材・名 倉 敬 世

 今年も正月の8〜9〜10日の三日間,恒例の如くズーズーしく「新春・日本刀・展示会」を開催させて頂きましたが,お陰様で千客万来で解説員(俺様)は舌が縺れて大変でござった。
 毎年の事ながら,お客様の中に○□先生とバンカーが多いのが何とも不思議でご猿りやす。思うに,この事は日常の仕事で過度なストレスが溜まっている証拠ではなかろうかと存ずる。 
 この様な方には刀の効果は抜群!,心頭滅却すれば刀の一閃でストレスも霧散となり候。尚,来場者は一様に「コレ,本物?,切れるの?,なんぼするの?」と質問が続きまして,「本物デス,切レマス,○○デス」と申しますと,プライスを云った途端に質問が途切れ,そして目玉がビックリ眼からドンクリ眼になり,テンとなった時点で質問が終了致します。

 この事は我が業界の現状を見れば無理も有りません,鉄の素延べの棒がヒョットすると,純金の棒より高いともなれば,一般の方々には理解されないのは当り前の話だと思いやす。
 併し,近頃はこの日本固有の文化である刀剣の世界にも,外人が土足でズカ〃〃と踏み込んで来ています,そして自分の感覚に合えばビックリ価格でも平気で買って行きます。昨年の秋に芝の美術倶楽部で行われた恒例の「全刀商市」(沖縄から北海道迄の刀屋が集合),この催しに来たゲ?人の多かった事,ビックリでした。近頃は中国語が増え来ています。

 外人の凄いところは研究熱心で刀でも小道具でも基本を良く勉強している,特に価格の情報は豊富で世界中の大小のオークションからバリのノミの市の値段まで瞬時にして判る。「刀剣・刀装具」全体の現状はJPANやUSAよりEU諸国の方が遥かに活気があって,価格も当然高い,ユーロ高のドル安の影響がここにも出てきている。特に日本の刀装具はGoldが多く使われているので評価が高い,要は金の純度が高いのである,ここんところの金高でアラブとロシアの金持ちも手を出して来ている。但し刀装具(鍔・小柄・笄)に使用の金は後世の物は真鍮を色上げした物が多いのでご用心,純度の高い金は意外に色が薄い。又,よく葵や菊の家紋が付いている物を見かけるが,その多くが偽物でご猿。江戸時代はこれ等の紋を勝手に付けると首が飛んだが,明治になると徳川幕府が飛んでしまったので規範が緩んだ事や,日本の美術工芸品はパリの第一回の万国博覧会で特賞を受けた位で,ヨーロッパでの評価はすこぶる高く,横浜や神戸の港から連日の如く多くの船が出ていた。併し,時が経つと良い売物も限りがあり,売行きも芳しくなくなって来た,特にブームに乗った今出来のコピー商品は出なくなった。そこでそれらの物に家紋を入れ始めたら葵の紋所の物が飛ぶように売れた。それはそうでご猿よ,葵紋は徳川総本家を始め,御三家,親藩,分家と矢鱈に多い,と云う事は,海外でもかなり頻繁に目にしていた訳でござった。その上,幕府は瓦解して標章登録や許可申請の必要も無く,誰にも文句言われない。正に「渡りに舟」とはこの事であり,万民が挙って葵の紋所を付けた訳である。
 その点,「菊」は恐れ多くも皇室紋のため,明治の初めは少し出るが間もなく中止となる。十六花弁の菊が天皇家であるので,それ以上の物は無いハズだが先日十八弁を見て驚いた。尤も古くは天皇家の紋も確定では無く多様な紋が有り,菊より桐の方が多かった様である。
 今では五三の桐は豊臣秀吉の専用紋だと思われているが,秀吉は百姓の出身であるために家紋が無い,それでは紋付は着れない。為に貧乏公家を買収したのだとも云われている。

 日本人のルーツも正確に家紋を辿って行くとかなりの処まで判るが,止めた方が宜しい。6?7割が明治で終る,それ以上は名前だけで苗字は無く,寺の過去帳を調べるしか無いが,寺が有れば良い方で,寺自体が宗旨替えをしていたりする場合も多い。永年お墓を放ったらかしにして居ると過去帳も無いし調べ様も無い,お墓も多分この辺だと思った墓の場所に他家の墓石が建っていたりする。
 又,埋もれていたルーツが出て来たら来たでそれはまた大変,金を掛け立派は墓を建立,さすれば,三年後に檀家総代,五年後に寺総代は間違い無し。勤め上げれば最後に立派な戒名を頂けるが,それも「地獄の沙汰も○次第」で相当の覚悟が子々孫々まで,必要でご猿。

 その点,次の刀(太刀)は808年の昔よりそのルーツは明々白々で満天下に知れ渡っており,品質,素性,伝来,武勲,全てが完璧で御座りますので確とご照覧あれ。

太刀 銘 為次(備中古青江)鎌倉初期 号・狐ケ崎 国宝 芸州(広島)吉川家蔵
  刃長 二尺六寸(78.8cm)。反り 一寸一分(3.4cm)元幅 一寸七厘(3.2cm)。
  地肌は小板目が詰み,地沸が厚く付き刃文は小乱れに葉が良く入り賑やか,帽子は沸え崩れる。中心の鑢目は大筋違。銘は「為次」と二字である。

拵え 太刀・狐ケ崎の外装 鎌倉初期 重要文化財 芸州・吉川家蔵
 拵えも鎌倉時代前期の古様の様式を残す,黒漆塗り革巻き太刀拵えで貴重である。

 寛治元年(1087)出羽の清原武衡が反し「後三年の役」が勃発。その折り「前九年の役」を鎮圧した八幡太郎源義家が再び征夷大将軍として出動したが,その中に鎌倉権五郎景政と云う若武者(16)がおり,金沢柵の攻略戦で敵将鳥海弥三郎の放った矢に片目を射抜かれ乍敵を討取り,陣に戻り目に刺った矢を三浦為次が抜くべく足で景政の顔を踏みつけた所,景政は「生き乍,顔を踏まれるとは武士として最大の恥辱である」と為次を刺そうとした,驚いた為次は然も有りなんと,非礼を詫び膝で顔を抑えて矢を抜き取り,こと無きを得た。
 その後,人々は権五郎の豪胆さを賞賛して鎌倉党の盟主として敬い,その死後は現在の江ノ電の坂ノ下の近くに葬り,社を建て今も御霊神社として手厚く崇敬されております。
 その頃の鎌倉は辺鄙な漁村で,鎌倉が開けるのは源頼朝の開幕(1192)位からでござんす。鎌倉権五郎景政の故事は歌舞伎十八番「暫」にその長大な大太刀と共に登場を致しやす。代々,市川団十郎の当り役で六尺八寸の大太刀は「萌黄塗皮柄黒塗胴金入太刀」と申します。尚,「成田屋!」の団十郎一門の四世・七世・八世は木場の島田町(現在の木場二丁目)に住み,特に四世は当り狂言も多く歌舞伎界の大御所として君臨していたとの事であります。

 鎌倉権五郎景政(景正とする古文書も有り,高望王の孫の良正の三代目の為,景正かも?)史書には平良正流とあり,孫の代に大庭・梶原,長尾氏と分かれており,頼朝の決起の時は大庭一族は二分して頭領の景義と弟の俣野景久(曽我兄弟の父)は石橋山で頼朝を破ります。その時,梶原景時が大木の洞に隠れていた頼朝を見付けますが,助けて安房に逃がします,この効により以後は大出世を致す訳です。大庭景親や俣野景久,伊東祐親(曽我兄弟の祖父),これ等は敵対した罪により処刑され,長尾氏も当初は危かったのですが早目の帰順が効き,本願地の鎌倉郡長尾郷に戻り,後に謙信が出て上杉姓と替るが江戸末期まで家は続きます。尚,出羽の金沢で権五郎の目から矢を抜いた三浦為次の家は義朝(頼朝の親父)の妻の実家で三浦半島の大豪族です,その為,三浦一族は当初から頼朝の大スポンサーでござんした。

 さて,前出の「梶原平三景時」は頼朝とはウマが合った様で木曽義仲や平氏の追討戦には,軍監として従軍しますが関東の武士団には評判が悪く,頼朝の死後は総スカンとなります。二代頼家の時に結城朝光を讒訴しますが,有力御家人六十六名が景時の非を糾弾したので形勢の不利を悟り相模一の宮に隠れた後,京都に遁走を図りましたが,駿河の清見関にて土地の吉香・芦原勢に阻まれ近くの「狐ケ崎」で戦闘となり,梶原一族は全滅いたします。
 この吉香小次郎は七年前に有名な富士の巻き狩りの時に起きた,曽我兄弟の仇討ちにもその名前が有り,別図の如く曽我の五郎に小肘を斬られ負傷してます。その時の名乗りは「駿河国住人船越八郎」ですが,駿河国有度郡吉川(現・静岡県静岡市清水区吉川)が本願の地で小次郎友兼の親父の経義を祖として発しており,友兼の死後にその効により子供の朝経が,梶原氏の旧領である「播磨国福井庄」の地頭の職を授かり,その子の経光は「承久の乱」の効により,安芸国山県郡大朝庄の地頭となり,その子の経高が正和弐年(1313)下向して大朝庄に定住をしています。
 戦国時代には大内氏に属し,興経の天文十六年(1547)に毛利元就の次男の元春を養子に迎えて毛利の一族となります。関ヶ原の戦いでは家康に通じて毛利の大軍を動かさず東軍勝利に貢献し,戦後は自分の加増を断り毛利本家の存続の為に最大限の努力をしています。結果,旧領の周防の岩国六万石を領して幕末まで家名は存続しております。明治で男爵。
 その吉川家に伝来したのが,正治弐年(1200)正月廿日,小次郎友兼が駿州安倍郡吉香の「狐ヶ崎」で都に逃げる梶原一族と激戦となり,景時の三男・三郎兵衛景茂を討った時に使用した太刀です,この時,友兼も重傷を負い翌日落命しております。
 銘は為次(古青江)名付けて「狐ヶ崎・為次」という大名物であり,現在は国宝指定です。平安・鎌倉時代からの伝来を誇る刀の中でも,その伝承が確実に信用出来る一振りでご猿。
 後三年の役で鎌倉権五郎景政の目から矢を抜いたのが為次,梶原一族を斬った刀が為次。不思議な符号でござんす。

下が曽我の吾郎吉香小次郎 上が曽我の十郎と愛甲三郎
「曽我物語図絵」二代歌川広重・画

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