東京木材問屋協同組合


文苑 随想


日本の文化 「日本刀」…Japanese Sword…

「♪一家に一本 日本刀 大黒柱と日本刀♪」

其の51(天下の名刀・童子切り)

愛三木材・名倉 敬世

 前回,巻末に「南北朝は面白い」と記しましたので,今回は其の心算でしたが,源家の宝刀の肝心な部分が抜けてしまいましたので,南北朝は次回と云う事で…。スンマセン。
伝俵藤太佩用毛抜形太刀(重文 伊勢神宮)
 人皇56代清和天皇四代の末孫・源満仲が造りし宝剣の二振を髭切,膝切と名付ましたが,この辺が武家の重代の宝刀として伝承させ始める初期であり。時代としては平安中末期で坂東平家の棟梁である国香が弟の良将(早死・将門の親父)の所領をかっぱらった為に将門に討たれた頃ですが,国香の倅の平貞盛(清盛の七代前)が敵の将門をどうしても討てぬ為に,俵藤太(藤原秀郷)と成田不動を頼んで将門を騙し討ちにしたのが天慶三年(940)年でご猿。
  余談ですが,将門(神田明神の祭神)贔屓の小生としては個人的には千葉の成田は勿論の事,出張所であった「深川不動」にもお参りは致しません。初詣も氏神の富岡八幡宮ダケですが,この八幡様もネ〜,神輿ばかりが有名になりましたが,武神なのに肝心な時には負けるし,社殿は何回も焼けるし,お家騒動は年中行事だし,正月の破魔矢は隣(深川不動)より三割も高いし,〜でボツボツかなと思案中でございやす。

 其れまでの刀は,ご存じ「正倉院」等に遺例のある下記のスタイルの直刀類でありますが,これらは古墳より出土する刀と同様「日本刀」とは呼ばれず「上古刀」と申しております。理由はトレサビリティ(原産地証明)「鍛刀地が良く判らん」,と云うのが最大の理由でご猿。当時の刃物は新興の鉄よりもまだそれ以前の青銅の方がベターであったかも知れません。
上:直刀 無銘(号 水龍剣) 重要文化財    
下:金銀鈿荘唐大刀 刀身  正倉院宝物(北倉38)
(1)直刀 号・水龍剣刃長62.2cm奈良時代(8世紀)付・梨地水龍瑞雲文宝剣拵重文。
 もと正倉院に納められていた物であるが,明治五年(1872)に明治天皇の手許に置かれた。記録には「聖武天皇御剣,明治五年三月正倉院御開扉ノ節御取寄セ 明治六年金銀赤銅造波ニ龍ノ模様御拵成リ以後水龍ノ御剣ト号ス」とある。焼き入れの際,やや内反りとなる。

(2)金銀鈿荘唐太刀 刃長78.2cm峰両刃切刃造直刀 奈良時代(8世紀)正倉院御物
 刀身は小板目が整然と整った鍛えに,匂口の締まった直刃を焼き,地刃共に冴えた作で,峰は両刃となった切刃造りの太刀で現存する正倉院刀の名作である。
 平安末期にはそれまでの度び重なる実戦の結果として,完全な「日本刀」が完成します。丁度,その頃に出来て「日本刀」のモデルと言われるのが下記の「童子切り」であります。
 「日本刀」の定義とは,文字通り全てが国産であり,反りの付いた鎬造りの刀である事。日本刀を一振り造るには七職(鍛冶,砥,鍔,彫り,白金,鞘,塗り)の手が必要ですが,これらは当然ジャパニーズの職人の技です。原料の砂鉄も踏鞴により玉鋼に精錬をされ,魂の拠として,武器であって美術品という,天下に比類のない刀を作り出した訳です。当時の日本はこの点に於いては他の追従を許さぬ,世界に冠たる技術大国でありました。
太刀 銘 安綱(名物 童子切)
太刀 銘 安綱(名物 童子切) 刃長80.3cm(二尺六寸五分) 反り2.7cm(9分)
 原産地・伯耆国(島根県) 時代 平安後期(10世紀) 東京国立博物館蔵 国宝。
地鉄は板目肌が流れ,地沸が付き鮮明な映り,刃文は互の目と丁子乱れ混る,沸え出来。
 元は焼き落し。帽子は乱れ込み,佩き表は尖り裏は焼き詰める。中心は生ぶ。二字銘。

 外装,糸巻き太刀拵え,金具の紋が五・三の桐になっているのは,松平家に入る前の作。刀箱は二重になり,内外共に表に「童子切」と金粉で書かれている。内箱が葵紋散しになっているのは,松平家に入ってからの製作だからダンベ。

 室町時代以来の名物で,その昔,源頼光が大江山に住む酒呑童子を退治した太刀と伝え,童子切の異名があり,享保名物帖(本阿弥家より享保年間に幕府に提出した名物の解説書,ボリュームがあり記載出来ませんので興味がある方は連絡してたもれ)にも所載がある。
 これが出来たのが,大同年間の桓武天皇?平城天皇に至る西暦8?900年前後の事で,
我国の北半分は未だ蝦夷地で坂上田村麻呂が懸命に蝦夷(アイヌ)とバトル中でありやした。
 文化の面でも丁度この時期に唐より帰朝して,比叡山に天台宗を開いた弘法大師・最澄,高野山に真言宗を開いた伝教大師・空海,が布教を始めた頃で日本文化の黎明期であります。

 「童子切り安綱」。源頼光(三月号の「宇治の橋姫」にも登場)が大江山の酒呑童子という鬼を切った,と云う伝説により異名が付いた。この場合の鬼とは山賊であろうが,頼光にその様な史実はなく,最古の「酒呑童子絵巻」と云われる香取神宮の伝書でも南北朝時代の成立なので,その原典は中国の「説郭白猿伝」の欧陽 を源頼光に書換えたんだ,との事。
 その伝来に付いては各種あるが,?室町幕府の評定衆であった摂津家に古くから伝来し,摂津家が衰微すると日野家に仕え,更に都落ちをして,摂津与一の時には越前・福井のあの松平忠直に仕え,そこで「童子切」が忠直卿より将軍家に帰したのではなかろうかと云う説。?足利幕府13代将軍義輝→織田信長→豊臣秀吉→徳川家康→二代・秀忠,に伝来したが,秀忠の三女勝姫が慶長16年(1611)に忠直に嫁した時に,守り刀として持たせたという説。
 江戸中期にこの「童子切り」は越前か津山の松平家のどちらかに有った事は確かであるが,共に両家は近い親戚であるが,その所伝は全く異なる。
 イ,越前松平の初代藩主・忠直の父,秀康は家康の次男で天正18年に下総の結城晴朝の養子に入った,その時に婿入り先の結城家より引出物として譲られたのが「童子切」という。
 ロ,家康から秀康が貰って忠直に譲り,忠直が守り刀として勝姫に渡したんだとい云う説。鞘の表に「 元にて一寸,横手の下にて六分半,重ネ厚さ二分」,と書付が有るが,これが勝姫の筆跡だと言われている。忠直が乱行の罪科にて天正九年(1623)豊後に流罪の折に,嫡子の光長は僅か九才だったので,お家第一の宝刀は母の勝姫が預っていたと云う。
 又,光長が幼少の頃,夜な夜なうなされて泣くので,薬師はもとより社寺の加持祈祷を受けてみたが効果が無く弱っていたところ,ある者が北条時政の「鬼丸」の故事を思い出し試しに「童子切り」を枕元に立掛けて置いたところ,その晩から夜泣きがピタリと治った。「童子切り」は狐憑を治す,と云う噂はこの辺から発生した様だが,お狐様とは縁が深い。
 光長は父が流罪になると越後の高田城主となる。その時に大村加卜と云う医者で刀工が傍に仕えており,童子切りを度々拝見して,その鍛法を詳しく「剣刀秘宝」に著わしている。光長も"越後騒動"を引き起こし,天和元年(1681)伊予の松山に流されたので童子切りは赦免される迄の6年間は手入もされずホッポッテおかれたので,胡麻錆が生じてしまった。そこで,上野広小路の本阿弥家に砥に出したところ,多くの狐が神田の筋違橋の方面から谷中の方へ大挙して移動して来た。それは「童子切り」が来たからだと,噂になったと言う。又,松平家の伝説では,本阿弥家に預けられた時に隣家より火が出た。すると本阿弥家の屋根の上に一匹の白狐が現れて,転んだり起きたりして苦悶の表情であった。本阿弥家の者がそれを見て,これは狐が知らせているのだと気が付き,急ぎ「童子切り」を持ち出してことなきをえた,白狐はそれを見ていたが,コ?ン?と一声鳴いて姿を消したという。
 光長の養子の長矩がお家再興を許され,元禄11年(1698)作州・津山で十万石を賜った。「童子切り」は以来,同家に伝わり重宝となった。享保四年(1719)には名物にも選ばれ,"天下五剣"の一にも数えられ,昭和八年(1933),国宝に指定されている。
 この太刀が津山松平家に入った頃,町田長太夫という試し斬りの名人に試させたところ,六つ胴(刑死した死体を六体重ね)を切り,土壇まで斬り込むという物凄い切れ味であった。尚,「童子切り」は明暦三年(1657)の振袖火事で焼けたという説があるが,焼き直しではそんな切れ味は出ないでしょうし,現物を見ても焼き直した物とはとても見えませんです。

 次回はリクエストが無ければ,南北朝期の名刀!見参と参りましょうか…。

皇居外堀から幻の江戸城天守閣を観る(CGによるイメージ画像)
幻の江戸城天守閣
明暦三年の振袖火事で全焼する
この時,名刀約八〇〇振も焼失をする。

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