東京木材問屋協同組合


文苑 随想


日本の文化 「日本刀」…Japanese Sword…

「♪一家に一本 日本刀 スカーッと爽やか 日本刀♪」

其の52(天下の名刀・南北朝・パートI)

愛三木材・名倉 敬世

 突然ですが,「男子の本懐」とは如何なる事でござんしょうか。一昔前までは徒手空拳で艱難辛苦の末に成功して,「名を挙げ家を興し,故郷に錦を飾る事」,と思っていましたが,今では多くの者が故郷を持たず,トウキョー育ちの二世三世ばかりで,死語となりはべる。
 併し,この南北朝の時代ではそのチャンスがゴロゴロと転がっていたという訳でして,日本国の歴史に於いても大変にユニークで夢のある時代でありました。
後醍醐天皇(1288〜1339)
 何たって,そのスタートが,天皇を島流しにしてしまったら,何時の間にかその天皇が「島抜け」をして,魑魅魍魎の類に担がれてなかなか捕まらず,その間に乱発した倒幕の綸旨が功を奏し,クーデター(新田義貞)や裏切り(足利高氏)で,150年も続いた鎌倉幕府が元弘三年(1333)稲村ガ崎で新田義貞が神頼みで,名刀(刀銘は?)を海に投じたら潮が引き,陸地と化した所を突入,激戦の後,犬公方(闘犬)で名高い執権・北条高時一族が300人も集団自決をして,意外なほど呆気なく崩壊してしまいましたので,これから後がモー大変。

北条高時(1303〜1333)
   この60年に及ぶ騒乱は北の蝦夷地から南は九州の果て迄,日本が真っ二つに割れ大乱戦。火付役の後醍醐天皇(52)が吉野行宮で目を瞑った後もまだ延〃と25年間も続いた次第で,皆様のご先祖もこの時のドサクサに乗じて,本願地を腕力で分捕りカッパらったハズだと推察を致しますが如何なもんでしょうか。当然,勝組がいれば負組もいる訳ですが,このチャンスを逃がすと,次の機会は150年後の「応仁の乱」迄,待たねばなりませんでした。
 尚,この「応仁の乱」こそは「日本国全体の徹底した身代の入れ替わりで,それ以前の数多くの家はことごとく潰されてしまい,その後の家は新しく興った家ばかりである」,と史学の泰斗は申してますが,かのイザヤ・ベンダサンは,この両乱は「稀に見る大乱」と云われるが,「同時期の欧州や中東の乱に比べると穏やかな年月に属する」と述べています。

 それでは,以下に「南北朝」のポイントと思われる事柄を時経列で並べて見ましょう。
文保元年(1317) 四月 幕府両統迭立(大覚寺統・持明院統)と定める。
  二年(1318) 三月 後醍醐天皇即位(大覚寺統)。
元亨元年(1321) 十二月 後宇多法皇還政(院政を止め。後醍醐天皇が親政
  四年(1324) 六月 後宇多法皇崩御(58)
正中元年(1324) 九月 倒幕計画発覚,幕府が土岐頼兼・多治見国長を斬首。「正中の変」。
  十月 六波羅探題(京都),公卿・日野資朝・俊基を逮捕し鎌倉に送る。
嘉暦元年(1326) これより元徳元年(1330)の末頃迄,各社寺にて関東調伏の祈祷が始まる。
  二年(1327) 十二月 尊雲法親王(護良親王)天台座主となる。
元弘元年(1331) 四月 再び倒幕計画。(吉田定房の密告により発覚する)。「元弘の変」。
  五月 公卿・日野俊基,僧・文観・円観,幕府に捕らえられる。
  八月 元弘と改元するが幕府は用いず。
  〃〃 後醍醐天皇,神器を携えて笠置山に立て籠もる。
  〃〃 万里小路宣房・洞院実世ら幕府に捕らえられる。
  〃〃 天皇方の軍勢,唐崎浜で六波羅勢と激戦。
琵琶湖畔の唐崎では,大塔宮護良親王を中心とする比叡山の僧兵たちと幕府軍が激しく衝突
  八月 この頃,執権・北条高時の闘犬,田楽狂いが評判となる。
  九月 幕府,承久の乱の例に習い大軍を笠置城に送る。
  〃〃 楠木正成,赤坂城にて挙兵。備後の桜山入道も呼応し挙兵。
左は,護良親王の令旨を拝し幕府を見限る  右は,奇策で幕府軍を悩ませる千剣破城の楠木正成軍
  九月 光厳天皇践租(幕府方),後伏見上皇の院政開始。
  〃〃 足利高氏,大仏貞直ら笠置城に向け出陣。
  〃〃 笠置城,落城し後醍醐天皇・有王ら山中で捕わる。
  〃〃 赤坂城,落城するが楠木正成は遁走。
元弘二年(1332) 三月 後醍醐天皇,隠岐島に配流。阿野兼子同行。
  〃〃 尊良親王ら親王(皇子は16名)の処分を行う。
  〃〃 児島高徳ら美作(岡山・北部)で後醍醐天皇の奪還を図るが果せず。
  五月 足助重範(三河の豪族)を六条河原にて処刑。
同日,花山院師賢・万里小路季房・藤房,を処分。
  六月 日野資朝を佐渡にて処刑。日野俊基を鎌倉の葛原岡にて処刑。
  〃〃 尊雲親王,令旨を熊野に発給,人々は親王の動向に関心を寄せる。
  十一月 尊雲親王,還俗。名を大塔宮・護良親王と改め,吉野にて挙兵。
  〃〃 楠木正成,これに呼応して千早城にて挙兵。赤坂城で攻防。
元弘三年(1333) 一月 幕府,四天王寺を城砦に改築。正成,これを攻める。
  〃〃 赤松則村,挙兵し播磨苔縄山城を築く。幕府の大軍,京都に入る。
  二月 人見光行(恩阿),赤坂城にて先駆けをして討死。
  〃〃 吉野城落城。村上義光,護良親王の身代りとなり討死。
  〃〃 後醍醐天皇,隠岐島を密かに脱出。名和長年,船上山にかくまう。
  三月 幕府軍,千早城,麻耶城を攻撃するが落せず。
  〃〃 新田義貞,病気と偽り千早より自領の上野(群馬県・太田市)に帰る。
  〃〃 九州にて,菊地,阿蘇氏が鎮西探題・北条英時を襲う。(菊地合戦)。
  四月 両軍,久我縄手で激戦。幕府の名越高家討死。高氏,丹波に入る。
  〃〃 高氏,丹波の篠村八幡宮にて,変心!。後醍醐天皇に与力を宣言。
  五月 高氏の長男・竹若,次男・千寿王,鎌倉を脱出,竹若は討たれる。
  〃〃 七日,六波羅探題攻撃されて陥落,光厳天皇・北条仲時,脱出。
  〃〃 義貞,上野・生品神社にて挙兵。守護・長崎左衛門丞を討つ。
  〃〃 義貞,北条泰家の大軍と武蔵・分倍河原にて激戦しこれを破る。
元弘四年(1334) 五月 後醍醐帝,光厳天皇を廃し,正慶の年号を元弘に戻す。
  〃〃 義貞の臣,大館宗氏,稲村ガ崎を破るが,稲瀬川にて討死。
  〃〃 二十一日,北条高時ら東勝寺にて自害。鎌倉幕府滅亡。
北条高時の最後
  五月 二十五日,鎮西探題・北条英時自害し,鎮西探題陥落。
  六月 護良親王,征夷大将軍となる。
  八月 足利高氏,従三位・武蔵守となり,尊氏と改名。
新田義貞,越後守,上野・播磨介。楠木正成,摂津・河内守。
建武元年(1334) 正月 「建武の中興」成る。
  八月 この頃,二条河原に落書(このごろ都で流行もの〜)が掲げられる。
  十一月 護良親王,天皇に疑われ鎌倉に送られて土牢に幽閉さる。
建武二年(1335) 七月 高時の遺児・時行,信濃で挙兵し鎌倉占拠。「中先代の乱」。
  〃〃 直義(尊氏の弟),護良親王(28)を殺害。
  八月 尊氏,鎌倉に下り,中先代の乱を平定。
  十一月 尊氏,建武政権(後醍醐天皇)に反旗を翻す。
待望久しかった,公家政権が復活したが,第一の仕事は,上皇・貴族・大社寺の所領の安堵,と大内裏の造営で命を賭して幕府を倒した武士への恩賞は微微たる物であった。正成の雑所決断所も近臣侍女達の内奏で朝令暮改となり機能不全となり不満が充満し,「サシタル事モナキ聘曲歌道ノ家,蹴鞠能書ノ輩」,が武士達よりも重い恩賞を受けた。これらの不満が,武士の間で横溢し,いつしか足利尊氏のもとに結集する事となった。
建武三年(1336) 二月 九州に落ちる。
  五月 尊氏,リベンジして東上,湊川にて楠木正成と激戦,正成戦死。
正成着用と伝えられる甲冑 正成と伝えられる木像
延元元年(1337) 八月 尊氏の奏により,光明天皇践租(北朝の成立)。
  十二月 後醍醐天皇,神器を携え,吉野に潜幸。
延元二年(1337) 三月 金ケ崎城陥落,尊良親王自害。
  十二月 北畠顕家,利根川に至り激戦の後,鎌倉に入る。斉藤兄弟奮戦。
延元三年(1338) 六月 顕家(21),和泉の石津にて高師直と激戦,討死。
  七月 新田義貞,斯波高経と越前燈明寺縄手にて戦い,討死。
  八月 尊氏,征夷大将軍に任命。
延元四年(1339) 八月 後醍醐天皇(52),義良親王に譲位の後,崩御。
  〃〃 北畠親房,「神皇正統記」を著わす。
  十月 尊氏(直義),後醍醐天皇の菩提を弔うため,暦応寺を建立。
興国元年(1340) 十月 佐々木導譽,妙法寺焼討ちし延暦寺に訴えられ出羽に流される。
興国二年(1341) 七月 光厳上皇,歴応寺の名前を天竜寺に改称。
  十月 畠時能,斯波高経と越前・鷹巣城・伊地山のバトルで戦死。
  十二月 足利直義(尊氏の弟)中国の明に天竜寺船を派遣。
興国三年(1342) 五月 脇屋義助(新田義貞の弟)伊予にて病死。
  九月 土岐頼遠,光厳上皇に乱暴狼藉を働き,斬首。
正平二年(1347) 九月 楠木正行(正成・嫡男),細川顕氏を河内の藤井寺にて破る。
  十一月  〃 〃   山名時氏 〃 〃 住吉・天王寺にて破る。
正平三年(1348) 一月  〃 〃   高師直と河内の四条畷で激戦,正行(23),戦死。
 この戦闘で,正行の佩刀であった,備前刀の大傑作,長船景光(小龍景光)を分捕られる。

太刀 銘 備前国長船住景光 元享二年五月日(名物 小龍景光)国宝 東京国立博物館蔵。
   刃長74.0cm 反り2.9cm 総長100.7cm 付 茶皺革包太刀拵。
(刀身形状) 鎬造,庵棟,摺上げ乍ら腰反り高く,中峰,摺上げ茎,ごく浅い栗尻,目釘穴3,
       鑢目勝手下り,表裏に棒樋,茎にて丸止,表に倶利伽藍,裏に梵字の浮き彫り。
(鍛え)   小板目肌,綺麗に良く詰み,乱れ映り見事に立つ。
(刃文)   小丁子刃に小互の目を混え,総体に逆がかり,足・葉よく入り,匂口締まる。
       ハバキ元の刃文は特に激しくなり,帽子刃はのたれて小丸に返る。
「刀装形状」 総金具,鉄錆地,柄は皺革着で重革包,目貫赤銅魚子地桐紋壺笠形。
       鍔は木瓜形で煉革漆塗。鞘は皺革包みとなる。
  この刀は後に首斬り・山田浅右衛門家より,刀剣が大好であられた明治天皇に献上された。
  このウルトラCの為,維新の志士を多く斬り恨まれていた浅右衛門の首が繋がったと,サ。
 以上で「南北朝の動乱」の第一部を終り,次はこの続きで「室町・花の御所」迄でご猿。

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