日本の文化 「日本刀」…Japanese
Sword…
「♪一家に一本日本刀 スカーッと爽やか 日本刀♪」
其の56 応仁の乱・百鬼夜行
愛三木材・名倉 敬世
鎌倉幕府の崩壊が元弘三年(1333),ここで後醍醐天皇が即位し待望の天皇親政が始まる。併し,天皇を始め公家の面々は下情に通ぜず,ミスばかりが目立ち自壊をする破目となる。
結局,建武の親政は僅か2年で都とセパレーションとなり,吉野の山奥に行宮を構えて「南朝」(ご在所は吉水院)と称し,以後数十年に亘り熾烈な抗争を繰り広げる事になる。
この間,武士階級も生きて行く為には背に腹は変えられず,毀誉褒貶は甚だしいのだが,人物としては不思議な魅力が有る足利尊氏を担ぎ,「北朝」と称して室町幕府(1336)を興し,鎌倉以来の多くの武士はその御家人となり幕府に仕える事となる。
刀剣界に於いても南北朝の初期にあれほど重厚長大を旨とした得物(太刀・薙刀・刀)が,世の中が静謐となると不思議に鎌倉中期の品格を取り戻してくる。特に南北両朝が合一となるのが明徳三年(1392),三代・足利義満の時代であるが,義満の治世は応安より永和・康暦・永徳・元中・嘉慶・康応・明徳・応永,迄の26年の長きに及び,金閣寺に代表される「北山文化」が全盛期となり,次の義持・義教に受け継がれてトータルで73年間も続くが,嘉吉元年(1441)に6代将軍・義教が赤松満祐に暗殺された「嘉吉の乱」で南北朝は実質的に終る事となる。
其の後は八代・義政が東山に銀閣を建て「東山文化」を興すが,将軍家の継承問題が勃発,これが起因となって同じ様な争いが管領や守護の各家で起り,戦国末世・下克上の時代へと突入をして行き,?かの有名な「汝や知る都は野辺の夕雲雀,揚るを見ても落つる涙は」と飯尾常房が詠んだ「応仁の乱」となる。
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▲ 十二類合戦絵巻(寄合) 室町時代の絵巻物で,十二支の獣類と,熊・狸など十二支から疎外された
動物との合戦譚。個人蔵 |
乱は東西両軍に分れ,共に8ケ国の守護である細川勝元と山名宗全の全面対決となった。この乱の原因は家督争い&お家騒動である。余り天下に意味の有る事とは思われぬのだが,最大の特徴は「これほど無闇に火を掛け,財宝よりも建築資材の略奪をした」戦いも珍しい。
下図参照
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足軽の活躍 応仁の乱では,東軍の骨皮道賢,西軍の御厨子某ら足軽大将が傭兵を率いて
ゲリラ戦を展開し,応仁の乱を境に,騎馬の個人戦闘が足軽の集団戦闘に変化し,足軽に
よる長槍隊,鉄砲隊へと発展してゆく。
『真如堂縁起絵巻』真正極楽寺蔵 |
正にこの乱より戦の方程式が変わったのである。今迄の武士という面目や仁義を尊ぶ個人戦より集団戦に変わり,人や領土も意識が根底からジェノサイド(殲滅戦)となった。
東軍・西軍が本格的に激突したのは応仁元年(1467)5月26日であるが,焦土化したのは6月8日に都は両軍の兵士による度重なる放火によって,下は二条,上は上御霊辻子より,西は大宿直,東は室町の範囲にある100町余,公武寺社,民家など凡そ三万余軒が焼滅す。8月になると戦火は下京にも及んで,22日には西軍により町々に再び火が放なたれた。こうして上京・下京・西京,更には鴨東の神社も姿を消して「京中大焼」となる有様である。
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応仁の乱の戦闘 『真如堂縁起絵巻』の一部。大永4年(1524)制作され,絵は土佐派の名手掃部助久
国の筆。この場面は真如堂(真正極楽寺)に近い京都の東岩倉における応仁元年(1467)10月の戦闘
を描いたものである。 |
この時に焼滅した社寺仏閣は,上加茂社・船岡山神社・上御霊社・妙心寺・毘沙門堂・室町第(花の御所)・革堂・相国寺・田中神社・一条道場・聖護院・黒谷・永観堂・南禅寺・若王子社・青蓮院・白毫寺・建仁寺・雲居寺・法観寺・六波羅密寺・清水寺・新日吉社・妙法院・清閑寺・泉湧寺・伏見稲荷,等の多きに亘る。
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焼亡跡と土倉の図 応仁の乱は京都市街地の大半を焼失し,
街は上京と下京とに分裂した。 |
運よく焼滅を免れたのは,法観寺(八坂塔)北野神社・平野神社・大将軍社・下鴨社・東福寺・三十三間堂・東寺(教王護国寺)等,誠に少しでござった。
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八坂塔 正しくは法観寺五重塔という。
6代将軍足利義教の永享年間に落成した
。
相国寺七重大搭・東寺五重塔などととも
に洛外の象徴的なモニュメントであるこ
とから,土一揆のさいの恰好の襲撃・占
拠目標となった。) |
この乱の特異さは文明五年(1473)に突然双方の親玉(細川勝元・山名宗全)が相次いで没し,為に戦は自然に沙汰止みとなり,Endとなった。そして権威が弱体化すると,腕ッ節は強いが頭の弱い「悪党」と言われる集団が出没し,その纏まったのが「傭兵」である。
傭兵は銭での雇用なので善悪は知らなくても,敵味方と斬れる刀の名だけ知っていればOKなのである。因って,この15?16世紀には,折れず,曲がらず,良く斬れて,安い,刀が山ほど造られ,一部は室町幕府の遣明船の重要な交易品となっていたのである。
(日本刀は蒙古来襲の後,和寇が中国や朝鮮の沿岸で猛威を振っていた折り,その切れ味の良さで知られ,彼の地では恐怖と武人の羨望の的であった,と古文書に記載がご猿)。
因って,当時の日本刀の代表的な刀(時代は太刀より刀へ移行中)をご紹介致して置きます。
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刀 銘 村正 長さ62.2cm(2尺6分) 反り1.6cm(5分三厘) 室町時代 |
作風は表裏の刃文が揃い箱乱れ刃を焼いて特色を見せている。徳川家に祟るとの事から妖刀伝説が生まれ,幕末には倒幕活動をする者に好まれた。これは高松宮家の伝来である。
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刀 銘 兼元 長さ76.9cm(2尺5寸4分)反り1.8cm(六分) 室町時代 |
「関の孫六」で知られる赤坂住の二代の兼元で,三本杉の独特の尖り互の目の刃文である。この作は兼元の中でも寸法が長く,「大仙」(大船)の号がある。筑前の黒田家に伝来した。
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刀 銘 氏貞 長さ68.8cm(2尺2寸7分)反り3.2cm(1寸6厘) 室町時代 |
浅いのたれ調の刃文で沸え匂が深く付き,地鉄も小板目が詰んでいてとても綺麗である。土佐の山内家に伝来し「一国」との号がある。その由来は一国の代りに拝領した物との事。
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刀 銘 備前国住長船与三左衛門尉祐定作 長さ64.2cm(2尺1寸2分)反り21cm |
板目肌に地沸が付き独特の腰の開いた互の目,刃が深く皆焼ごころとなった室町末期に見られる独特の刃文である。毛利に討たれた尼子の忠臣・山中鹿之介の太刀添への脇差なり。
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大身槍 銘 藤原正真作(名物・蜻蛉切) 長さ43.8cm(1尺四寸五分) 室町時代 |
平三角造の大笹穂槍で,良く均整のとれた名槍である。この槍は徳川四天王の一人である本多忠勝が所持したもので,武田信玄が遠江に侵入した折にこの槍を振り翳して武田勢を寄せ付け無かったと言われる。トンボ斬りの名は蜻蛉が槍に触れて二つになった事による。
平三角造の大笹穂槍で,良く均整のとれた名槍である。この槍は徳川四天王の一人である本多忠勝が所持したもので,武田信玄が遠江に侵入した折にこの槍を振り翳して武田勢を寄せ付け無かったと言われる。トンボ斬りの名は蜻蛉が槍に触れて二つになった事による。
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螺鈿柄十文字槍 長さ32.7cm(1尺八分) 室町時代 |
この槍は加藤清正の片鎌槍として古来より知られた物である。当初から片方が短い造りで清正が虎退治の折に折れたと言うのは誤伝である。抜群に姿の良い室町期の名槍である。息女の揺林院が紀州の太守徳川頼宣への輿入れの際に持参した物という。柄は青貝微塵塗。
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薙 刀 銘 備前国住長船次郎左衛門尉藤原勝光 同与三左衛門尉祐定
為宇喜多和泉守三宅朝臣能家作之 永正十八年二月吉日 |
室町時代の薙刀の特色は先反りが強く先幅が張る姿となる。刃文はやや腰開きの互目で,末備前の典型であり,勝光と祐定,宇喜多氏との関係を知る上での貴重な資料である。
これにて,室町時代が終わり次号は,安土・桃山の斬新な「新刀」の時代と相成ります。 |
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