東京木材問屋協同組合


文苑 随想


日本の文化 「日本刀」…Japanese Sword…

「♪一家に一本日本刀 スカーッと爽やか 日本刀♪」

其の57 安土・桃山(信長・秀吉)

愛三木材・名倉 敬世

 我国の刀剣の歴史は大変に古く,各時代を反映して大きく変化を遂げて参りました。因って,その時代区分を覚えるのが上達の早道でございますので,下記いたします。
   
名称 時代 期間
上古刀(蕨手刀) 神代〜平安前期(古墳・奈良=神武元年(BC660〜AD700) 1360年
古 刀(太刀) 平安前期〜鎌倉〜南北朝〜室町。AD700〜1600(関ケ原迄) 900年
新 刀(刀) 安土・桃山・慶長=新古境 江戸 慶長〜明和(1764) 165年
新々刀(各種) 明和〜明治。1764〜1911 約150年
現代刀(各種) 大正〜昭和〜平成。1911〜2008 約100年

 上古刀の初期は外国産が多いのですが,後期になると徐々に国産品も増えて参ります。その後の古刀から現代刀に至るトータルの年数は約1315年の長きに亘っておりますので,そこに日本建国以来の奈良と平安の前中期を加えますと約2700年となり,中国3000年の歴史に匹敵します。それまで世界で一番文化文明の発達した,中近東・エジプト・地中海を含むヨーロッパの各国,それらの国と比較しても日本ほど万世一系(1500年以上)で続いて来た国はございません。そして他国にはとても真似の出来ない,日本刀という「美術品」を今も現代刀工の弛まぬ努力により,日々に研鑽し絶えず世界に向けて発信を続けています。正に継続は「力」なりでございますのだ〜。
 ところで,先日トルコのアラジャホユック遺跡から1938年(昭和13年・小生の誕生年)に出土した,約4500年前の製作で世界最古と云う,金無垢の豪華な鞘に納まった剣の正体が,宇宙から飛来した隕石(隕鉄)であるという事が,最近になり日本の学者の研究で解ってご猿。

  

 日本でも古来(平安末期・10世紀)より,奥州・北上川水系に於いて「餅鉄」と言う鉄分を多く含んだ河原石を原料にして鍛刀をして,主に奥州刀工が立派な刀を造っております。作刀銘としては,左行秀(注文主は板垣退助),仙台国包,石堂是一,泰龍斎宗寛,舞鶴友英,幡竜斎道俊,石堂正俊,万歳秀一,月山貞一,珍しいところでは甲冑師の明珍俊之,等。

  

 …トピックス…
 臨時ニュースを申し上げます。只今,福田康夫総理が自爆なされたとの事であります。尚,併せて今より472年前のビックリ&仰天動地のサプライズも紹介申して置きましょう。「本払暁・室町将軍の二条館が松永久秀及び三好三人衆(三好長逸・岩成友通・三好政康)等の襲撃を受けました。将軍・足利義輝公は自ら太刀を執っての激闘となりましたが,残念乍ら衆寡敵せず乱戦の中で壮烈な戦死を遂げられました。

◎足利義輝像
 正にこの乱より戦の方程式が変わったのである。今迄の武士という面目や仁義を尊ぶ個人戦より集団戦に変わり,人や領土も意識が根底からジェノサイド(殲滅戦)となった。

 足利義輝(30)・足利幕府・十三代将軍(1536〜65)。当時としては珍しく,剣豪・塚原ト伝に剣を習い免許皆伝の腕前であった。当日,義輝は「足利家も今日かぎり,伝家の宝刀を全て持って参れ!」で,家来の持ってきた稀代の名刀・名物をずらりと傍らに立て掛けさせて,取つ替え引つ替え斬って廻る。腕前は一流,刀も抜群の切れ味で寄せ手は死傷者続出にて,遠巻きに取り囲んでサドンデスの延長戦。援軍を要請した各将は「洞が峠」を決め込んで動かず,意の有る謙信・信玄も遠く,義輝は万策尽き館に火を放ち無念の最後となった。
               …永禄八年五月十九日,申ノ下刻。…。
 尚,この時,将軍・義輝が手にした刀は清和源氏伝来の代々の名物が多く,童子切り安綱,鬼丸国綱,鬼切国綱,ニッカリ青江,二つ銘則宗,不動国行,薬研藤四郎,骨喰藤四郎,大典多光世,小龍景光,南泉一文字,三日月宗近,鷹巣宗近,籠手切正宗,村雨郷,等の日本を代表する名刀ばかりで,現存品は殆どが国宝か重文の指定となっております。
 幸いその多くは焼身にも否ず現在も伝来しております。これは,多分この首謀者の中に「三好政康」と言う当代一流の目利が居た為と思われます。彼は鑑定では細川幽斎(藤孝)の師と言われ,「三好下野入道聞書」と言う目利書の著者で,阿波の名族の一人であります。乱戦で目ぼしい物が散逸する中,寄手にこの様な大家が居た事は誠にラッキーでござった。
 彼はこの事件以降久しく消息が?でしたが,大阪・「夏の陣」では豊臣方に属して討死。
往年の岩波文庫のベストセラー「真田太平記」の三好青海入道のモデルと言われております。
 後に十四代将軍になる足利義昭は,この時は奈良の興福寺の塔頭である一乗院の門跡で,覚慶と称していましたが,細川藤孝(幽斎)の機転により危機を脱し九死に一生を得て,江州,若狭を廻り越前の朝倉館へ逃れる。その後は織田信長に推戴され二ヶ月後に将軍となる。

 是より「新刀」と参ります。
それでは「新刀」とは何んぞや?ですが,新身,新刃で,文字通り「新しい刀」の意味です。天正元年(1573)足利義昭が信長に追われて,実質的には1334年の鎌倉幕府崩壊より続いた足利政権?が終わり(約240年←南北朝も含む),安土・桃山時代となり世の中が一変する。
 先ず在地の豪族としてのさばっていた管領,守護,の鎌倉以来の名門の権威が失墜して,信長配下の武将が任命され預国を経営し,次の秀吉も家康も基本的には其の例に習う。

 

 又,戦闘のスタイルも種子島(鉄砲)の導入で激変するが,一番デカイのは「兵農分離」で,それ迄の日本の戦いは「歳時記」と天候を見て行い,春秋の農繁期は休戦にして農作業。刈入れが終り祭りが済んだら,ヨーイ・ドンで再戦となるが,大体は降雪を見て自然停戦。
 これを信長が変えた,「楽市楽座」などでゼニを貯め,銭の力で侍を集め軍隊を組織した。この兵は強い,強いハズだよ,今迄の農兵とは違い一年360日(5日間は盆と正月でお休み)毎日が軍事訓練OKで臨戦態勢なのである。片や農民や商人は徴兵の心配が無く安心して本業に精を出す事が出来る,結果として国は自然に富み栄え他国に差を付ける事が出来,優秀な人材も自然に全国より続々と参集をして来る,このサイクルを確立したのである。
 信長は「強兵が富国を造るのでは無く,富国(ゼニ)が強兵を造るのだ」と云う,富国強兵の方程式を他に先んじて喝破したのでご猿,だわ〜。←尾張弁。

 早速この定理を実行に移し当時は未だ「山ノ物トモ海ノ物トモ」評価の定まらなかった,「種子島」(鉄砲)を大量に買付け,最強と云われた武田の甲州・騎馬軍団を三河の長篠ヶ原の合戦にて「三段撃ち」と云う,ロケット・ランチャーの如き戦法で壊滅させ大成功を収めた。
 因って,雪国の敵が動けぬ内に,日当りの良い東海道メガロポリスの最大の難敵である,一向一揆(浄土真宗)を率いる「蓮如」と云う,アルカイダのオサマビンの如き怪物と戦うが,信長自身と盟友・徳川家康の全てを賭けても苦戦の連続であった。

※蓮如上人。(1415〜99)

 現在,東・西合わせて,千五百万人の日本一の信徒を擁する,浄土真宗(一向宗・門徒)の最大の功労者,教団の事実上の創始者。日毎の食事も欠く窮状から,加・越・能・京・畿に至る大勢力を作り上げた類稀な傑物。凄いのは30で妻帯し85で死ぬ迄に27人の子供を儲け,80・81と83・84で年子を作り85才で没。彼の凄い所は,手当たり次第に生ませたのでは無く,コッコッと50数年に亘り規則的に生ませている点で,正に絶倫であり雄渾。
 どうも,信長は親父の葬儀で末香をブン投げる以前から坊主は嫌いだった様で,むしろ葬式佛教より前向きに生きたゴットの方に興味を持ち,為に宣教師を優遇した様であった。
 大乗仏教の日本では彼ほど宗教と信者を弾圧した者は居無いと思う。主な虐殺だけでも,伊勢・長島,比叡山の撫ぜ斬り,石山本願寺(大阪城)の攻防と続き,トータルでは百万人は越すのでは無いだろうか?。併し,最後に百万人の怨嗟の為か,明智光秀によって本能寺でOUTとなり,骨も残らず消えた。安土山で神になる予定で造った大天守も次男のアホーな信雄が自ら火を付け,散華の煙と成り果てる。
 幕末には「冬木町」に由緒正しい信長の子孫(東大教授)が居たが,これはまた後の機会に。

 普通,刀の話を致す場合,その刀は「新刀」ですか,「古刀」ですか?,から始まるのが,基本的パターンであり,次に,太刀・刀・等の種別になり,そして,トレサビリーティで鍛刀地,刀工名,出来の善し悪し,を論じてから「お値段」と進むのが一般的であります。但し,新刀の場合は厳密には「新古境」と言う部分が有り,意外な名刀が潜んでおります。
 大体が地方の鍛冶で実践的で良く斬れると評判の刀工達なのですが,なまじ腕に自信が有る為に旧習に拘って新しい時代の変化に乗り遅れた,と言うのが実際の姿かと思います。

 肥後太守・加藤清正の絶賛する「子連れ狼」のヒト〃〃ピッチャンでお馴染みの「同田貫」。

刀 九州肥後同田貫信賀 文禄三年八月日(桃山?肥後)413年前
「傷のない同田貫は見たことがない」というぐらい割れがない。信賀の中にあっても傑作の一振である。

  奈良・金房辻で作刀をして興福寺や宝蔵院の僧兵の武器庫の役目を負っていた「金房鍛冶」。
薙刀 金房政次 附 朱塗長巻拵
遠州・大井川の島田宿を本拠に今川家中や甲州・武田軍団を上得意としていた「島田鍛冶」。武州・八王子で北条一門の要望に答えていた,「下原鍛冶」。これらが腕は良いのだが時代に適合出来なかった主な鍛冶集団です。これらの中には惚れ惚れする様な豪刀が御座いやす。
重要文化財 漆絵大小拵 全長大・149.5cm 小89.9cm

漆絵大小拵
 全長(大)149.5cm(約五尺) (小)89.9cm(約三尺) 室町時代 重要文化財。
 毛利元就が安芸の宮島の厳島神社に奉納をした,競馬太刀と言われる名品でございます。長短の異風な形式の大小拵で柄先を強く反らし,赤銅七子地に桐紋と一に三星を高彫り色絵とし冑金と縁を付け紫革で菱巻とし,太刀鍔で赤銅七子地に桐紋を高彫色絵とする。鞘は平肉薄く締まって尻張り,其の上に金箔を押して這龍を黒漆で描き,透き漆を掛けて白檀塗としている。桃山時代の大小拵えは現存する物がすこぶる稀で大変に貴重である。
 刀身は大が,伝・長船兼光,小が,伝・青江吉次で共に鎌倉時代の名匠の作であります。
※尚,この大小はこの夏,京都・岡崎の「泉屋博古館」にて展示をされておりました。

 時代は移り,何事にも金綺羅キンの大好きな秀吉の時代は古刀から新刀への過渡期にて,刀剣にも大きな影響を与えてます。そのご紹介は次回と言う事で〜,失礼を致しやす。


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