よく,「新古境」(天正+文禄〜慶長の間(1570〜1580)と云われますが,この時期に日本の刀剣は「古刀」から「新刀」と呼び名も変わり,作柄もかなりの変化を致して参ります。
先ず,第一に刀身も拵えも明るくなりました。これは時代が陰々滅々たる戦国の世から,鋭敏に新時代をリードする信長に移った事と,彼が突然のサプライズで倒れた後に秀吉と申す稀代のキンキラキン好きが出た為で一挙に桃山バブルが到来し,書画・工芸・芸能,全てが息を吹返し,表現がより派手で大胆になり,日本中がその華やかさに沸立ちました。
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◎ 金蛭巻朱塗大小 |
朱塗金蛭巻大小拵(桃山時代 東京国立博物館)重文
朱漆塗の鞘に金の薄金大小二筋を蛭巻にし,柄は黒塗鮫を着せ,茶糸の菱巻を施している。頭,鐺金物は金製で,大は雲竜,省は竜虎図容彫の目貫を据えている。この大小拵は桃山時代に流行した伊達拵と呼ばれるものの一種で製作もすぐれている。 |
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◎ 桐紋透大小鐔 |
金蛭巻朱塗大小 総長(大) 三尺一寸四分(少) 二尺三寸一分 重要文化財
桃山時代。
豊臣秀吉の差料で,遺物として金無垢大小鍔は浅野家に,拵えと刀身は溝口家に送られた。朱塗りに二筋の金帯を蛭巻きにした鞘に金の桐文透鍔,金頭を付けたいかにも桃山時代を象徴する華やかさを示している。柄巻きは黒糸の捻り巻きであり,目貫は尾張拵え同様に一般の物とは表裏の位置が逆,返り角は鞘に平行に付いており斜めにならない処が当時の拵えとしては珍しい。金属の頭が小さく巻掛けで無いのは後の肥後拵に共通する。
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蝶鮫鞘半太刀大小拵 |
蝶鮫鞘半太刀大小拵
烏銅七々子地桐文の総金具が付いている。脇差には後藤光質が極めた,乗真の桐据文の小柄が使われている。蝶鮫が見事である。
お陰で刀剣も太閣殿下の意を戴して,刀身よりも拵えが華美になり,刀工より鍔や縁や縁頭や目貫を作る金工に陽が当り,鞘師や塗師,糸巻師や鑑定家にも恩恵が及びました。正に何時の時代も諸民は質素倹約よりも,「花の吉原・元禄花見踊り」の方が好きなのでご猿。
第二,秀吉に最後まで楯突いていた小田原の北条氏が天正18年(1590)に降参して,国中の大名の配置が完了。これにより,各地の大名達が争って腕の良い刀工の自国への引抜きが顕著となり,従来の「五ヶ伝」である,大和・山城・備前・相州・関,のブランドが崩れ,一門の色々な縛りも無くなり,刀工は伝法の違いを乗り越えてチャレンジを始めました。
そして,古刀から脱却して新しい「慶長新刀」を主導し引張ったのが次の面〃であります。
1,藤原国広(相州伝)日向・伊東家家臣,主家没落し全国行脚,京都堀川住 豊臣家御用多し。
2,埋忠明寿(山城伝)遠祖は公家,室町幕府に仕え装剣具の大家,刀剣は稀だが上手なり。
3,南紀重国(大和・相州伝)手掻派の末,徳川家康の抱工,後に和歌山藩祖・頼宣に仕える。
4,伊賀守金道(関伝)関兼道の長子,関ヶ原の役で東軍に功あり,禁裏御用・日本鍛冶惣匠。
5,肥前国忠吉(皆伝)九州・佐賀,父が鍋島家に仕え戦死の後,京の埋忠家で習う。上手。
他に,越前康継,野田繁慶,尾張の政常・氏房・信高,賀州兼若,仙台国包,等が居ります。又,江戸の長曽根虎徹,大阪の井上真改,津田越前守助広,等はこの後の世代になります。
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◎太刀 銘国広
(附)金沃懸地菊唐草文蒔絵衛府太刀拵(金剛峯寺)(刃長二尺一寸九分 反り六分強)重文
この太刀は豊臣秀頼が高野山金剛峯寺に奉納したもので,拵の鐔には「慶長二年四月一日正阿弥左兵衛尉常吉
(花押)」と銘がある。中身の製作は二字銘であるが慶長三年末ないし四年(1599)とみられ,この頃から新
刀らしいおおらかさが見られるようになる。衛府太刀拵は武家であっても公家装束の際に佩く太刀である。 |
太刀 銘・日州古屋之住国広山伏時作之 天正十二年二月彼岸 刃長 二尺五寸六分 重文。
堀川国広の天正打ちの代表作。地刃は末古刀に共通するところが多いが,堂々たる品格は他の追従を許さぬ迫力があり,刀身彫りにも埋忠明寿と異なる力強さが示されている。
日向・飫肥城主・伊東家没落後は諸国を流浪し野州・足利学校での作刀もある,後半は京都一条・堀川に住み大隈丞正弘,越後守国壽,国安,出羽大尉国路,等の弟子の養成に努めた。
太刀 銘 山城国西陣住人埋忠明寿(花押)慶長三年八月日 刃長 二尺一寸三分 重文。
この作は太刀銘ではあるが,体配は打刀の姿で前時代には見られない,独創的な斬新さで鍛えのこまやかさと湾の刃文に新刀の特色をよく表している。刀身彫りも技量が高い。
○刀 銘 和州手掻住重国於駿府造之
刀 銘 和州手掻住重国於駿府造之 刃長 二尺四寸一分弱 反り八分 桃山時代,国宝。
この作は新刀中で第一等の傑作と賞される作で,古作の郷義弘に見える作風を示している。幕末に紀州徳川家から将軍家に献上された刀で,この様に重国の技量は,地刃の冴え及び働きにおいて他工の追従を許さない抜群のものであり,この工の作には前期からの作風の移行を全く感じさせない斬新さを感じさせるものがある。
刀 銘 伊賀守金道 刃長 二尺三寸八分 反り七分 桃山時代,重要美術品。
関兼道の長男で焼きの強い簾刃を得意としている。日本鍛冶惣匠と称し禁裏御用を務め,刀匠の受領名を朝廷に取り次ぐ窓口となる。弟に丹波守吉道,越中守正俊,幕末まで続く。日本三大仇討(曽我兄弟・忠臣蔵・伊賀上野の鍵屋の辻)で荒木又衛門が使いポキリと折れた。
刀 銘 肥前国忠吉 慶長六年八月吉日 刃長二尺二寸二分強 反り四分強。桃山時代。
鍛えは小板目,喰違い二重刃を交えてほつれ,砂流しが頻りに掛り,帽子も掃き掛ける等,古作の大和物を狙ったと思われる。忠吉中最も古雅な作風を示しており,誠に味わい深い。
古刀には見るべき作の無かった,肥前・佐賀は新刀期を通じて現存する作刀数はナンバーONEとなる。これは藩主・鍋島勝茂が忠吉をはじめ多くの刀工を抱え,藩が率先して将軍家を始め全国の大名にロハで贈り宣伝に務め注文を受け,ブランド化をした為でご猿。
よって,後に忠吉は武蔵大尉に任じられ,藤原姓となり一門は幕末まで栄え九代を数える。
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桃山拵 桃山時代。 |
桃山拵(大摺上無銘,伝・備中国万寿住吉次)鞘長 二尺七寸二分 柄長一尺 桃山時代。
「天和五年八月日麿上之 二ッ銅土檀五寸斬之,中川左平太 主鍋嶋紀伊守」と金象嵌あり。いかにも,猛将・鍋嶋勝茂の佩刀に相応しい豪壮華麗な物である。鞘は朱塗り,鯉口,栗形,返角は黒漆塗り,鐺は銀の抱茗荷の薄板で覆ってあり,総体の肉取りは実に上手である。桃山時代の武士風俗の一端を示す貴重な拵えである。
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重文 花雲形文鐔 平田道仁作(桃山時代) |
桜花透金無垢鐔 無名埋忠 |
これで,新刀「パートI」を終り,来月はコテツ(虎徹)等の「パートII〜III」と参りやす。 |